291.喜ぶにはまだ遠く
空気が重い。
抑えきれていない魔力と、抑えるつもりのない感情。双方が折り重なったそれは鉛のように鈍く、肺に纏わり付くかのよう。
肌がひりつき、息は苦しい。目の前に走る光は照明ではなく、もはや何度と味わった異常さからくるもの。
ようやくシュラハトの住処に戻ったディアンに与えられているのは、安堵ではなく緊張感。
エルドが傍にいるのに身体が強張るのは、他でもない彼の魔力に圧されているからだ。
彼の愛し子であるディアンも、横にいるアピスでさえも顔が強張っているならば、それを真っ向から向けられているマティアの負荷は語るまでもない。
跪いた彼の表情を伺うことはできずとも、青ざめた肌も、その震えも、ディアンの距離から視認できている。
この結果を予想できなかった彼の未熟さもあるだろう。
だが、今のマティアが感じているのは、それはディアンが与えられていた苦しみのほんの一部でしかない。
「アピス。私はお前を信用し、この者にディアンを任せたはずだ。経緯を説明し、危害を加えることはないと。……その結果がこれか」
淡々とした響きだけでは、そこに含まれる怒りを図ることはできない。
されど、こうしてそばにいるだけでも汗が滲むほど、滲む魔力はあまりに強く、圧倒的なもの。
「……私の不徳の致すところです」
「気持ちはわかるけど、アピスを責めないでくれる? 僕だって、マティアがここまで馬鹿なんて思ってなかったんだし」
深く頭を下げるアピスに対し、その肩を抱くシュラハトは普段と変わりはない。強い圧でも、同じ精霊では感じ方は違うのだろう。
呆れ混ざりのそれは、普段のマティアであれば反論したはずだ。馬鹿呼ばわりされて、素直に聞き入れるような性格ではない。
それでも頭は上がらず、その震えは止まらない。むしろ、この会話さえ聞こえているか怪しい。
意識はあっても、その内を満たすのはディアンが感じている以上の甲高い耳鳴りであろう。
すでにその身は人ではなくとも、これだけの怒りを向けられたのはこれが初めてであったはずだ。
だからこそ、揺れる瞳と絡むことはないまま。
「あれだけ説明したにも関わらず、こんなことをしたマティアが悪いだろう。……違う?」
「……マティア」
追求すべきは彼女ではないと、冷たく金の瞳が見下ろす。名を呼ばれ、跳ねた肩を見る薄紫は、それ以上に低い温度で。
「お前は盟約を破り、アプリストスとフィリアの接触を許すだけではなく、我が伴侶を命の危機に晒した。相応の覚悟があってのことだな」
身体にかかる重みが増す。どれだけ冷静に聞こえようと感情は魔力に滲み、マティアにのし掛かっている。
その内には、自身への後悔も含まれている。
ゼニスを残しておくべきだった。自分が傍にいればよかった。こんな者に、ディアンを任せるのがそもそも過ちであった。
エルドにとって、かけがえのない存在。唯一の愛し子。誰よりも、愛おしい存在。
一つ間違えればもうこの腕の中にはいなかったのだと。その恐怖を、そう至らしめた存在を許せるはずがない。
どんな狙いがあったとはいえ、それがどのように正統であったとしても。決して。
問われた男は答えない。答えられない。震えはより大きくなり、甲高い耳鳴りに支配される中、歯の擦れる音さえも聞こえてくる。
「エルド」
掠れた風の音がマティアの喉から発せられたのだと。誰よりも早く認識した男が、怒れる精霊の腕を掴む。
「それ以上はいけません、エルド」
投げかけた相手を知り、空気は僅かに弱まる。だが、その言葉の意味を理解すれば、先以上に滲む魔力が増していく。
「……止めるな、ディアン」
唸るような声は、その矛先をディアンに向けないように抑えているのだろう。
止められる道理はないと、腕こそ振り払わずとも開放を願うエルドに、それでもディアンが離すことはない。
「罰するなとは言いません。ですが、その程度を間違えてはいけません」
「ディアン」
二度目はより強く、与えられる魔力に鼓動が増す。普段は安堵を抱くはずのものは、今やディアンにさえ牙を剥いている。
まだ馴染んでいるから向き合えている。そうでなければ、マティアのように息一つままならなかっただろう。
エルドの怒りを、その深さを、ディアンが計りきることはできない。それでも、これは過剰であると。その瞳は真っ直ぐに見上げ、揺らがず。
「許せとは言っていません。ですが、相応しくない罰を与える必要はないと言っているんです」
「お前は殺されるところだったんだぞ!」
肩を掴む手よりも、訴えかけるその声よりも、溢れる魔力で押し潰される身体よりも。なによりも、向けられる薄紫が痛く、強く。
その苦しみを理解していると伝わるように添えた指は、肩から剥がすことなく、触れ合ったまま。
「……分かっています。僕だって、何度も死ぬと思いました」
忘れるはずがない。何度意識が遠のき、引き戻され。そうして、どれだけ覚悟し、恐怖したか。
もうこの腕の中に戻れないと、二度と会えないのだと。このまま死んでしまうことよりも、彼の知らぬ場所で死ぬことが、どんなに恐ろしかったか。
ディアンだって許すつもりはない。それでも止めるだけの理由だって、存在しているのだ。
「何度もあなたの元に戻りたいと願い、このまま死ぬことに恐怖した。あなたとの誓いを破ることが怖くて仕方なかった。それでも、あなたが過剰に罰してはいけません」
「精霊に人の理が通じぬことは、お前も理解したはずだ!」
「だからこそ! 他でもないあなたが、踏み外してはいけません!」
僅かに揺らいだ薄紫を、ディアンの光は捉え続ける。
彼の怒りを感じ、理解し。それでも、その一線を踏み越えてはならないのだと。
彼が彼であるために。『エルド』という存在を守るために。
この行いで彼が『選択』を、誤らないように。
「誰よりも人を愛し、見守ってきたあなたが一時の感情に振り回され、衝動のままに罰してはいけないと言ってるんです」
「人間というだけで許せというのか」
「あなたが『中立者』であるからこそ、形が変わろうとも、彼もあなたが守ろうとしてきた人間と相違ない。違いますか」
人の理から外れ、精霊に近い存在へ変わったとしても。その根本が変わることはない。
どれだけ寄り添おうとも、人間が精霊を理解しきることはできないだろう。その価値の違いに打ちのめされ、恐怖し、戸惑うことだって。
人間を理解し、共に生きていたエルドに対してさえ、ディアンがそう思うことは多い。
それは何百年経とうとも、誰の伴侶であろうとも同じこと。ならば、マティアだってそうであるはずだ。
彼もまた、エルドが守り続けてきた人間の一人なのだと。
「罪には然るべき罰を与えるべきだ。この者の行為は、精霊界の中でも重罪に値する。知らなかったでは済まされない」
「ですが、」
「ディアン」
薄紫の光の強さに、言葉が途切れる。食い込む指に加減はなく、それでも精一杯抑えていると、名を呼ぶ声が伝えている。
「無知が免罪符にはならないことを、誰よりもお前は知っているはずだ。その目で、その最期を見届けたお前なら。……違うか、ディアン!」
空気の狭まる音は、マティアではなくディアンの喉から搾られたものだった。
強い光に貫かれ、蘇るのは一ヶ月前の光景。忘れるはずのない断罪。
何も知らぬまま。知らぬことを許されたまま甘やかされ、そうして迎えた最後。
皆に望まれたのにと、そう泣き喚いた妹の姿を。知ることを拒み続けたからこそ迎えてしまった結末を。ディアンは、忘れてなどいない。
フィリアの加護のせいもあっただろう。サリアナの思惑もあっただろう。
もしディアンの接し方が変わっていたなら、もしかすれば結果だって変わっていたかもしれない。
……それでも、そうだとしても。彼女が犯してしまった罪は、確かに罰せられるべきものだった。
それこそ、知らなかったでは済まされないこと。そこにあった釈明の余地は、それこそメリア自身が潰してしまった。
それでも。……いいや、だからこそ。
「……わかっています」
一度瞬き、開く紫に迷いはない。彼に伝えなければならないのだと。その意思が揺らぐことはない。
「だからこそ、彼には相応しい罰を与えるべきです。感情のままに断罪するのではなく、彼がこの愚行に至った最たる原因に対して」
「ディアン」
「エルド。もう一度言います。僕は彼を許すつもりはありませんし、庇うつもりもありません」
食い込む指よりも強く握り返し、その痛みの分だけでも伝われと声を張る。
ディアンたちにも非はある。彼にも釈明の余地はあるだろう。それでも許せない。許せるはずがない。
「僕が苦しんだ以上に、あなたを傷付けたこの男を庇えるほど、僕はできた人間じゃありません。……だからこそ、この罪は適切に与えられるべきです」
当事者が許そうと、不満を抱こうと、それは過剰であってはいけない。そして、温情があってはならない。
もう二度と、こんなことが繰り返されないように。同じ過ちが許されないために。
何よりも、エルドのために。マティアが最も恐れていることこそが、適切なのだと。
「彼がこの凶行に及んだ原因はアケディア様にあります。ならば、」
「――アケディア様は関係ないっ!」





