290.待ち焦がれた再会
メリアは産まれる前から望まれた。だから、加護を与えた。
……では、サリアナは?
彼女は既に、月と魔術の精霊であるフェガリより加護を賜っていた。その時点で、彼女が加護を与えることは許されなかった。
違えようのない精霊側の罪。有耶無耶にはできない、彼女の過ち。
サリアナに加護を与えなければ。その力を貸さなければ、事態が拗れることはなかった。
ディアンを手に入れる、その一点だけでどれだけの人間が被害を受けただろう。
彼女は誰かから望まれたのではない。だからこそ、それは明らかな過剰。してはならないことだったはずなのに。
「あなたがサリアナに加護を与えなければ、始まらないことだってあったはずだ」
どこまで食い止められたか、なんて考えることこそ意味はない。結局は何も変わらなかったかもしれない。
それでも、詰め寄る権利はあると睨む紫に、緑はその輝きを増す。
込められた感情を。その当時を思い出し、浸り、そうして喜ぶ。
「ふふ、そうね。でも……彼女も私を求めたことには変わりないわ」
「愛されることを?」
「いいえ! 誰よりも、なによりも、彼女はあなたを愛し、あなたを求め、あなたに縋った。彼女は誰よりもあなたを愛していたわ!」
愛されることだけが愛ではないのだと、笑う顔は少女のよう。
高揚し、赤く染まった頬に手をつけば、肩から落ちる髪さえディアンを惑わす。
「だから、ほんの少し力を貸してあげたの。フィガリとの相性が良かったのも理由ではあるけど、加護の力を使いこなせたのは彼女自身の力よ」
「……相性」
「美しい月夜に、可憐なお花。愛の告白にロマンチックな情景はつきものでしょう?」
同意するように笑う妖精たち。シャラリと揺れるスカートの端。桃色のそれらに連想されるのは、纏められた花の束。
告白の際、差しだされる色とりどりの植物。月明かりの元で差しだされるそれは、確かに美しくあるだろう。
彼女の周りに妖精たちが多いのは、その関係もあるのか。
「求められたから与えたと」
「もちろん誰にでもないし、贔屓した自覚はあるわ。あなたの妹さんの時と違って、誰かの愛し子に力を与えることが悪い事もね。……でも、止められなかったの」
咎める口調に、やはり精霊は笑う。反省した口ぶりで、しかしその本質は変わらず。指先はくるり、カップの淵を撫でる。
「だって気になってしまったんだもの。あれだけ強い想いを抱いた人間が勝つのか、それとも……初めて愛し子を迎え入れる精霊の想いが勝つのか」
リィン。甲高い音、響く振動、揺れる水面。再び重なる緑。揺らぐことのない、紫。
「結果は、ヴァールとあなたの勝ちね」
もはや怒りも湧かず、呆れもなく。この複雑な感情をなんとたとえればよかったのだろう。
聞かなければよかった? ……いいや、そうではない。
メリアのことも、サリアナのことも。結局は身勝手だとなじることもできた。
だが、それだけでは終わらないと。それでは意味がないのだと、ディアンは気付きはじめている。
真の理解はできずとも、その鱗片は確かに、ディアンにも変化を与えていたのだ。
「言いたいことは分かるわ。でも……こればっかりは謝ることはできない。だって、私たちはどうしてもそれに惹かれてしまうんですもの」
キラキラと眩しい瞳はディアンを見つめる。その狂気を。その想いを抑えることはできないのだと。その輝きを持って、告げる。
「人間であるあなたには、まだわからないかもしれないわ。でも、ヴァールの愛し子であるあなたなら、近いうちに理解できるはず」
きっとね、と。笑う顔が黒に包まれる。それは返されたベールによってもたらされたのだと気付き、同時に椅子が歪む。
否、椅子を形取っていた植物がほどけ、ディアンを包み込んだのだ。
「な、っ……!?」
「残念だけど、お迎えが来たみたい。問題が片付いたら、またお話ししましょうね!」
きっとよ、と。そう笑う彼女から与えられる魔力は、ベール越しでもわかるほどに膨れ上がり、息を止めたのは無意識から。
そう、だから。あっという間に遠ざかり、カーテンの裏に放り出されたと理解したのは、地面に転がされた後のこと。
与えられた負荷に心臓が悲鳴をあげている。いや、単にそれだけではないが、一番の原因は彼女に間違いない。
突然解放された理由も、急に魔力が膨れ上がった理由もわからず。尻餅をついたまま、閉じていくカーテンを見届ける紫はパチパチと瞬く。
「――ディアンッ!」
それが大きく見開かれたのは、後ろから名前を呼ばれたから。
振り返るまでもない。誰よりも、何よりも待ち望んでいた響きを、聞き間違えるはずがない。
駆け寄ってくる足音。荒れた呼吸。全部、全部、ディアンが求めていたもの。
「っ……エルド!」
「ディアン!」
その姿を認める前に、立ち上がるよりも先に、強い衝動がディアンを襲う。
痛い程に締めつけられる身体。それ以上に与えられる柔らかな魔力。染みこむ温もりを、この匂いを、どうして間違えられるだろう。
しがみ付き、掻き抱かれ、同じだけ強い力を腕に込めて。包まれた途端、自覚するのは喜びと、それまでこの身を浸していた恐怖だ。
もう出会えないと。彼との誓いを違えてしまうと、ずっとずっと恐れていた。
麻痺しかけていた感情が蘇り、震え、強く強くしがみつく。
「エルド、エルド……ッ……える、ど!」
「無事でよかったっ……!」
どれだけ名を呼んでも、どれだけ抱きしめられても、震えが止まらない。
心臓が締めつけられるのは、彼が傷付いたことを知っているから。自分以上にエルドが怯え、恐怖を抱いたと、そう分かってしまったから。
「ごめっ……ごめんなさい、エルド、ごめんなさい……!」
謝ったって傷は癒えない。それでも、言わずにはいられなかった。
怖かった。怖がらせてしまった。誰よりもこうなることを恐れていたのはエルドだったのに。
帰ってこれた。この腕の中に、生きて、
「お前が……っ、お前が無事なら、それでいい」
それ以外は必要ないのだと。それだけで充分なのだと。絞り出される声に涙がおさまらず、抱きしめる力も、抱きしめられる力も、緩められないまま。
「……本当に、よかった」
やがて、どちらから開放したのか。頬を包まれ、額を合わせ。重なる薄紫に、またこぼれた雫を指で拭われる。
「どうやって、ここに?」
エルドに伝える方法はなかったし、伝えられたとしても入れ違いになるものだと思っていた。
フィリアの元に連れて来るのは、カルーフしか知らなかったことなのに。
「プィネマから伝言を受け取った。そのままポルティに行き先を調べさせて、案内させたらここに」
「プィネマ様が……」
まだ続いているだろう宴。ディアンの異常に気付き、引き止めてくれた精霊。
あの様子ではエルドに伝えてくれないと思っていたが……それはディアンの誤解だったようだ。
見やった先、手を振るのは思い出した男ではなく、見慣れぬ別の人物。
腰布しか着用していない、薄着すぎる姿。青年というより、まだ少年に近い年頃に見える男の名は、ディアンでなくとも覚えがあるだろう。
俊足を司る彼は、文字通り一瞬で一山も二山も駆けるのだとか。この精霊界で彼以上に早い存在はいないだろう。
どれだけこの空間が広くとも、人間一人を探し出すぐらい、彼には容易なこと。
「あ……ありがとう、ございました」
「どういたしまして?」
伸びやかな返事にギャップの差を感じても、もうこの程度では驚くこともない。
朗らかな笑顔に少しだけつられて、それから愛しい人へと向き直る。
「本当になんともないんだな?」
「はい。今はもう大丈夫です」
「……そうか」
再び抱きしめられ、深い息が頭の上を通り過ぎる。震える指を背中で感じて、そうでなくても離れようとは到底思えない。
もう少し落ち着いたら経緯を話さなければと、再び腕を背中に回そうとして――強い魔力に、呼吸が止まる。
苦しくはない。たが、それはディアンがこの魔力に慣れているからだ。そうでなければ、今までと同じように倒れていただろう。
そう確信するだけの強い圧が、まさしく頭上から与えられている。
「ポルティ」
名を呼ぶ声は、ディアンが知っている物よりも遙かに低く、唸るように。
強張る腕ごと抱きしめられ、食い込みそうになる指が恐怖からではないことを、ディアンは知っている。
「アピスとシュラハトを呼べ。カルーフ、お前はマティアを連れてこい」
「……それは、お願いかな?」
ディアンが出てくるのを待っていたのか、死角にいた彼――否、彼女の姿を見ることはできず。一層強まる圧に背筋が凍る。
こうなると分かっていたし、予想もしていた。自分が無事だからと言って、彼が怒りを抱かないはずがないと。
「命令だ」
されど、強い光に支配され、甲高い耳鳴りが響く中。冷たく告げられた声で、ディアンはその認識が間違っていたことに気付く。
唯一の愛し子を失いかけた精霊が、どれだけ恐ろしいかを。





