289.問いかけ
鼓動の音がけたたましい。
滲む汗を誤魔化すように強く握った拳は、机の影で見えなくても彼女には気付かれていただろう。
どれだけ隠そうとも、秘匿にしようとも、それはフィリアにとって『素敵』なもの。どんな奥底にあろうとキラキラと輝いて見えている。
嘘は通用しない。その葛藤すら、彼女にとっては堪らないもの。
……そして、そう理解して向き直るディアンの決意でさえも、同じ。
だからこそ、ディアンは問いかけた。彼女にしか聞けないこと。機会すら与えられず、たとえ聞いても仕方ないと抑え込もうとしたもの。
いつかエルドに問いかけ、されど与えられなかった答え。当然だ、加護を与えるに至った動機は、その精霊にしか明かすことはできない。
エルドにとってのディアンのように。アケディアにとってのマティアのように。
愚問である自覚はある。大半の精霊の理由は、その者を気に入ったからだ。その生き様、資質、人そのものとして。そう誤魔化されたとしても、納得するしかないほどにありふれた理由。
それでも、ディアンは問いかけた。否、問いかけなければならなかった。
この精霊界に来て気付かされてしまったのだ。振り切ったはずのもの、納得していたはずのこと。
時間をかければいつか忘れると思っていたそれに、自分がまだ深く、捕らえられているということを。
妹と同じ顔。王女と同じ声。意図せぬ再会。思い出すに十分過ぎる事項があったことは確かだ。
だが、振り切るためには。ディアンが前を向くためには、時間だけでは不十分なのだ。
明らかにしなければならない。
たとえ不快とわかっていても。それがディアンの理解を超えていると分かっていても。それで、後悔したとしたって。
エルドとの未来を。彼と共に進む道を、悔やまないために。
「あなたの両親がそう望んだからよ」
勿体ぶることもなく。誤魔化すのでもなく、呆気なく。
変わらぬ笑みで、キラキラとした瞳で、かの精霊は答えた。
「……望んだ?」
「あなたも聞いた覚えはあるでしょう? 『この子が愛される子に育ちますように』って」
ありふれた願い。それは恋ではなく、されど確かに愛の溢れたものだ。
自分たちの子が幸せに過ごせるように。愛されるように。あまりにも些細な、おまじないのようなもの。
ほとんどの者は祝福を願って口に出したものだ。……その対償が、あんなに重いなど知っていれば、きっと願いはしなかった程度の。
「……ララーシュ・レーヴェンも、同じ理由で?」
「ララーシュ……えぇ! どの誰よりも愛されることを望まれていたもの。今でもたくさん愛されているでしょう?」
まだ数ヶ月も経っていないのに、遙か昔のことのように感じられる。
メリアの幼少期に似た少女。フィリアの分身とも言えるその姿。
確かに彼女は愛されていた。実の両親にも、周囲の人間にも。そして、望まぬ者たちからだって。
あまりに強すぎる加護に抗い、制御しようと苦しみながら。それでも懸命に生きようとする彼女の姿を、ディアンは鮮明に覚えている。
こんな加護などいらなかったと、そう涙する姿を。……ディアンは、この先だって忘れることはないだろう。
その苦痛の始まりが、彼女の幸せを望んだ者によってもたらされたなど、言えるはずがない。
切っ掛けはどうであれララーシュの両親に罪はなく、そして悔いることはない。
子の幸せを望むことに、なんの咎があるのか。
……他人であればそう説得もできるのに。真に悪いのは、それだけの加護を与えたフィリアのはずなのに、そうだとなじることもできない。
望まれれば与える。それは、紛れもなく精霊にとっての本質なのだから。
「でも、ララーシュとメリアが望まれたのは少し違うわ」
白い指先がカップを持ち上げ、小さく吹いた息が水面を撫でる。クルクルと回る小さな花は淵に追いやられて、ひたり、と張り付く。
「違う?」
「――『精霊の花嫁として、相応しい者になるように』」
瞳は伏せ、重ならず。それが慈悲であると、告げられた本人が気付くことはないだろう。
蘇る金の瞳。戦の精霊より加護を賜った者。父と呼んでいた……かつての、英雄。
妹の加護に狂わされなければ、厳格なままでいられた男。振り払わなければならなかったもう一人。
「盟約に則り、その使命を果たせる者へ。人々から愛され、そうして精霊に準ずるに相応な者になれるように。……確かに、私の性分と違っていたのは否定できないわ。あれもまた、一つの愛の形ではあったでしょうけど」
夢中になるほどではなかったと精霊は笑う。哀れむように、慈しむように。懐かしむように。
「それでも、強い願いには変わらないわ。ヴァールの花嫁、その親族に相応しいだけの加護。勘違いであろうと、同等の力を望むのなら……私以外に適任はいなかった」
「ですが、それが洗礼を待たずに与えていい理由にはなりません」
理屈は分かっても、道理は通らない。
本来なら、六歳を迎えた日に人々は加護を賜り、精霊はその者を選ぶ。そうして十八を迎える期間の間で、加護に相応しい者かを見定めるのだ。
たとえ特別な相手でも、その親族であっても、その規則を破っていい理由にはならない。
だからこそ、メリアは加護の制御を知ることもなく、最後にはその力によって自分の身を滅ぼした。
「だって、待ちきれなかったんですもの。ヴァールの愛し子となる者、その妹が私を求めた。経緯はどうであれ、望んだという事実には変わらないもの。こんなに嬉しいことはないわ」
「ですがっ!」
「――私のせいで妹は加護を失ったのに?」
貫かれ、息が止まる。実際、そこに刺さったものは何もない。
瞳も、指も、感情さえも。手元のカップを傾け、静かに紅茶を飲む動作には、ディアンに対するものは一つだって。
ゆえに、音はディアンの中にだけ。はく、と止まっていた呼吸が再開し、何とか息を、吐く。
……もし、フィリアが然るべき手順で加護を与え、メリアが正しく加護を授かっていたなら。
汚れることを嫌がる彼女を父が叱り、そうして教会に正しく伝わっていたなら。
少なくともメリアは『精霊の花嫁』として扱われず、その加護と正しく向き合うだけの期間を与えられただろう。
皆がそう望んだのにと泣いて烙印を押され……正気を失うことだって、なかっただろう。
今はもう、生きているか死んでいるかすらも分からない。忘れなければならない、彼女の、最期。
きっと全ては上手くいっていただろう。ディアンだって、あるいは、父に認められる未来があったのかもしれない。
彼の望む騎士としての、その努力に見合うだけの、評価を。
「いいえ」
長い沈黙の後、否定ははっきりと響く。迷うことなく、躊躇うこともなく。それは、事実なのだと。
「メリア・エヴァンズが加護を失ったのは。……私たちにも、責任があります」
フィリアがメリアに与えた加護は、確かにあまりにも強すぎた。
……されど、愛と我が儘を許すことは、違う。
愛しているからこそ叱らなければならなかった。愛しているからこそ、教え導かなければならなかった。
どれだけ怒られようと、なじられようと、許されないことがあると、それではいけないのだと。
魅了の力があったとしても……本当に愛しているのなら、そうしなければならなかったのだ。
ララーシュの家族のように。本当に、その者の幸せを望んでいたのなら。
ディアンたちだけではない。そうなった原因は他の者にもある。
選定できずにいたエルドにも。エルドの行動が読めぬ以上、異常に気付きながらも観察するしかなかった教会にも。
互いに理由があり、被害を受けた。……それでも、正す機会はあったはずだ。
誰かが、どこかで。一つでも、違和感に気付いたなら。
それこそ、たらればの話。
メリアは加護を取り上げられ、ヴァールは罪人として処罰された。
もう二度と会うことはない。
…………それが、全て。
「そう。賢い子ね」
「ですが」
答えに満足した精霊の笑みが消える。その真意を問う緑に、やはり紫は揺らがぬまま。
メリアに関してはそうだ。経緯も、内情も、全てを過去にしなければならない。それはディアンの責任でもあり、エルドの悔いでもあったからだ。
自分の信念を貫いた結果、ディアンを傷付けたことを。エルドもまた、傷としている。
だから、メリアのことはこれ以上言及できない。
全ての材料は揃い、あとは気持ちを落ち着かせるだけ。それこそ、時間でしか解決できないことだ。
……されど、自分たちが望んでメリアがああなったのならば。
そうだと言うのであれば、ディアンにも返せる言葉がある。
「――サリアナ・ノースディアは違う」





