282.妖精樹
「先ほど、ここは用意された場所だと仰ってましたが」
「そっ……うだけど?」
話しかけられると思っていなかったか、上擦った声には気付かぬフリをし、もう一度周囲を見渡す。
心地いい木の匂い。温かみのある質感。眩しく思えた光も、目が慣れた今は優しく感じられるもの。
落ち着いてくるほどに、ここが本当に木の内部であると認識し、そしてやはり疑問は消えない。
「もしかして、この木がアケディア様とあなたの住居なんでしょうか」
「……は? 当たり前でしょ? 入る前にアンタも見てたじゃない」
今度は演技ではなく、本心から。あまりにも馬鹿馬鹿しい問いだと隠す気もなく、思いっきりしかめられた眉は発言そのものを疑っている。
「見ましたが……この木とアケディア様には、何か関係があるんですか?」
「……はぁ!?」
カッぴらかれた目にさすがに怯み、それでも分からないものは分からない。
関連があるのは間違いないが、この木がそもそも何なのか、そこにアケディアがどう絡むのかも、憶測の域を出ないもの。
頓珍漢なことを言うぐらいなら教えてもらう方が確実だと思ったが……この反応からすると、どうやら悪手であったようだ。
「アンタ、ふざけてんの? …………え、うそ、本当にわかんない?」
怒りは困惑に、そうしてディアンの沈黙を経て、戸惑いから呆れへ。感情が落ち着くにつれて目の大きさも元に戻り、前のめりになっていた姿勢も同じく。
「アンタ、イズタムから何も聞いてないわけ?」
「……精霊界については、まだ勉学中で」
「勉学中って……この十数年間、一体何してたのよ」
あまりにも遅すぎると息を吐かれ、これが知っていて当然であるという情報だけは先に与えられる。
『選定者』となってから、まだ一ヶ月。精霊界どころか、人間界についてもまだ学び始めたも同義。
妖精に関しては、ディアンを刺激しない考慮もあったのかもしれないが、それが裏目に出るとは。
謁見が決まってから一日もなく、知識的な備えが不十分だったことは否定できない。
だが、その口ぶりは、同じ時間を王宮で過ごしたと思っているようだ。
そうなると話は違ってくるが、今はそれを正す時ではない。
「まさか、この木についても何にも知らないわけ? ……はぁ~……」
いよいよ驚くのも疲れたと、目頭を揉んで零れた息は深く、地面を貫くのではと錯覚するほど。
どうしてこんな相手に、という不満の声も聞こえた気がするが……何かひらめいたのか、不満げな顔が瞬く間に笑顔に変わる。
その雰囲気はディアンに嫌味を言っていた時と似ていたが、それでも憎らしい感情は欠片もない。
「いいわ、本当ならアンタなんかに教える義理はないけど……アケディア様がいかに素晴らしいか特別に教えてあげる。光栄に思いなさい」
ふふん、と胸を張り改めて向き直った彼が手を横へ広げる。
上に向けられた手の平に、すかさずちょっかいを出す妖精たちも、もう気にならないようだ。
「アンタも聞いたとおり、ここはアケディア様と私の住居。精霊樹の中よ」
「……精霊樹」
「個人的には妖精樹って言いたいけど、世界樹と呼ぶ人もいるし……まぁ、名称は人それぞれね」
精霊界にある木だから、精霊樹と呼ぶのは分かる。
だが、彼は妖精樹であると称し、それが正式であるべきだと言っている。つまり、より関わりが深いのは周囲を飛び交う彼女たちの方。
「さすがにアケディア様が何を司る精霊かは分かっているわよね?」
「……怠惰というのは誤りで、妖精を管轄する立場であると伺っています」
ディアンも、エルドから説明された以外のことは知らない。それも、ごく触りの部分だけだ。
一般に公開されている精霊記では、そもそもの記述自体が少ない。誤って伝わっているのか、あえて正さずそう流しているのか。
「そう。だから、妖精樹の管理でもあるアケディア様と伴侶である私はここに住んでいるの。全ての妖精はこの木から生まれ、そうして戻ってくる。だから、全ての植物もここから生まれるのよ」
「……ん?」
理解できた? と聞かれても、説明が飛躍したせいで理解が追いつかない。
この木から妖精が生まれるのは、まだ辛うじて。それがどうして植物と関係があるのか。
「ちょっと、妖精が見えるようになったら真っ先に叩き込まれる内容でしょ? それともまだ見えてないって言うつもり?」
「見えています。……だから、髪は引っ張らないでね」
まさかそれすらもわからないのかと、非難する声に反応して光が集まってくる。
頭上に集まる少女たちを見上げれば、ヒラヒラとした服はすぐに散って風景の一部となる。
「よくもまぁ、それで伴侶として認められたものね。……ほんと、どこから説明すればいいのか……」
想定していたよりも知らなかったことに、軽率な思いつきを後悔しはじめたか。
それでも投げ出さないあたり面倒見がいいのか、その先にマティアの狙いがあるのか。
「……そもそも、アケディア様はこの妖精樹の精霊よ。すなわち、この世界に存在するありとあらゆる植物の精霊でもあるの」
驚き瞬けば、やはり知らなかったかと息を吐かれる。確かに、精霊記にも植物の精霊に関しての記述は憶測でしかなかった。
今はもういない精霊であるという説が一番強かったが……それが、アケディア様であったとは。
「妖精は、精霊が生まれた際にこの妖精樹に実るもの。いわば精霊の化身とも言えるし、花や草を司る存在とも言えるわ。……まぁ、精霊ほどの力がないのは見た通りだけど」
手の平から空中へ。自由に飛び回る彼女たちを追いかける紫は再び瞬く。
精霊の化身。草花を司る存在。精霊と同時に、生まれる存在。
本来なら時間をかけるか、然るべき時に教わる内容なのだろう。
それこそ、マティアが言った通り、妖精が見えた段階で主要な知識は叩き込まれるはず。
本来どのタイミングで伝えようとしていたかはわからないが、謁見に臨む前には教えたかったに違いない。
あまりにも急なことで、対応しきれなかった部分もある。今となっては、誰を責めることもできない。
「で、妖精は自分の植物を広げるために人間界と精霊界を行き来して、植物にも一応魔力があるから、それで人間界に魔力を供給しているってわけね」
「つまり……妖精にはそれぞれ、共に生まれた精霊が存在し、精霊には関連する植物があるということですか?」
「そう説明したじゃない」
呆れる視線は、もはや慣れたもの。確認したことで整理がつき、そうして頭を傾げる。
人間の感性からすれば、精霊と妖精は兄弟のような関係にも思える。だが、実際の扱いはとてもそうには思えない。
同時に生まれたとはいえ、在り方が違うのなら不思議なことではないのだろうが……。
「その……常に一緒というわけではなさそうですが……」
「当たり前じゃない。そもそも、どの子が自分の妖精かなんて把握している奴なんていないわよ」
見上げ、仰いだ数だけでも百は超えているだろう。ここにくる道中で見かけた数を含めればもっとだ。
共に居る理由がない、といえばそれまでだろうが、まさか自分の妖精さえもわからないとは。
「なんとなく感覚で分かる人もいるだろうけど、魔力で繋がってるわけでもないし、お互い挨拶し合ったわけでもない。調べようがないというより、調べる気すらないって感じね。砂の中から一粒を探すようなものだもの、いくらあいつらが暇でもそんな面倒なことはしないでしょ?」
手がかりもなく、確信も得られず。そのうえで、途方もない作業だと示されてまでやろうと思う者はいない。
妖精たちに対してどう思っているかは定かではないが、きっとエルドも例外ではないのだろう。
……そう、例外があるとすれば一人だけ。
「アケディア様は、判別できているんですか?」
「えぇ、もちろん。……自分の妖精だけだけど」
その妖精を管轄している彼女なら分かっているはずだと確かめたはずが、マティアの表情はあまり明るくはない。
彼女でもそれが精一杯だったことをディアンに伝えるのは不服だと、寄せられた眉が語っている。
「妖精が生まれるのは精霊が生まれる時と言ってましたが、今も光が灯っていたのは?」
「言ったでしょ。全ての妖精はこの木から生まれて、そうしてこの木に戻ってくる。そうやって繰り返しているのよ。記憶とかはどうなってるかは知らないけど、基本的に死ぬことはないわ」
理解できたかと目で問われ、されど頷くには難解なもの。
妖精が死ぬことはない、とは以前にエルドから説明された通り。
その仕組みを説明されても、素直に飲み込み切るには情報が多すぎる。
帰ったらエルドに詳しく聞き直して、それでも理解できるかどうか。
……それよりも先に、不安にさせていることを謝らなければ。
この調子では、エルドが帰ってくるよりも先に戻れるとは思えない。
せめてここにいることだけでも伝わっていればいいが、プィネマの様子を見た限り、それも望みは薄い。
来た道がわからない以上、マティアの目的を明かす以外に手段はない。
「まぁ、戻ってきた子の恰好を見た感じ、服は戻ってこないみたいだけど……はぁ、いくら作り直してもキリがないわ」
「……ちょっと待ってください」
ならば、そろそろ本題に入るべきだと。意を決したところで、サラリと呟かれた言葉に思わず制止をかけてしまう。
本人も、ディアンに聞かせるつもりはなく、ただの独り言だったのだろう。
「なに?」
「あの、作り直すって……」
視線だけで確認した先、ひらひらと舞う小さなドレスたちは、光の数だけ存在している。そのデザインもサイズも、同一の物は存在しない。
「この子たちの服って、最初から着ていたのでは……?」
「どこに服着たまま生まれる子がいるってのよ」
馬鹿馬鹿しいと鼻で嗤われ、反論はできないが、納得もできず。それ以上に、告げられた事実に目眩すら覚える。
「じゃあ、この子たちの服は、全部……」
「そうよ、私が作ったの。まだ作りきれない子は仮の服だし、アケディア様の服が最優先だけど」
ほら、と示された先は斜め上。微妙に視界に入らなかった台から飛び立った数匹の手には、マティアが言った仮の服らしきものが。
デザインこそ同じだが、色はそれぞれ違うもの。
観察すれば、頭上で布を手に取って遊んでいると思っていたのも、全てがそうではないらしい。
だが、大半の妖精が纏っているのは、装飾の施された可憐なスカート。花を模しているのは、その妖精が司っている種を元にしたのだろう。
それを一つずつデザインし、作り続けているなんて。なんて凄まじい忍耐力だろうか。
「……すごい、ですね」
自然と口から零れたのは、心からの賞賛だ。
努力することだけは慣れている、と自負しているディアンでも、同じ事はできないだろう。
剣と裁縫では努力の方向は違うのもある。
だが、数百年もかけてこの小さな妖精たちの服を、それも一つずつ違うデザインでなんて。考えただけでも気が遠くなる話だ。
「そうでしょう! この子たちだけじゃなくて、他の精霊のだって私がデザインしているんだから! ……それも全部アケディア様のため。あの人のためなら、私は何だってするわ」
賞賛を素直に受け取り、誇らしげな表情が、次の瞬間には鋭いものに変わる。
それは、出会った時に向けられた。憎しみにも似て、強い焦りに追い立てられたものと同じ。
短く吐いた息は緊張か、寸前で感情を堪えたのか。されど、その言葉を押さえ込むには至らず。
否、もう我慢する必要もないのだと、それはようやく、ディアンに告げられる。
「だからっ……アケディア様があなたを求めたって、アケディア様に相応しいのはこのアタシなのよっ! 分かった!?」





