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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
『精霊の花嫁』の兄は、悔いなく生きています ~精霊界訪問編~

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280.その意味は

 まるで人を誘惑する魔物のように、低く囁く声は間違いなくマティアを惑わすものだ。

 ディアンに彼らの関係は分からない。マティアの狙いも、彼がディアンを連れ出すに至った動機も、そうするに駆り立てた焦燥感の正体も、全て。

 アプリストスの言葉がどこまで真実かだって。だが、再び抱かれた肩は、今度は払われることはなく。瞳はより大きく揺らぐ。


「どんな形であれ、あいつが儀式を終えればアケディアも興味を失う。お前は今まで通り、あいつの傍にいられるんだ」

「だから、早く儀式をするように言ってっ……」

「ヴァールの奴にその気が無い以上、誰でもいいから番わさなけりゃ、本当にアケディアを取られちまうぞ? いいのか?」

「それはっ……!」


 否定はしきれない。だが、肯定もできない。その内に僅かに残っているのは良心か、葛藤か。

 即断できぬだけでも十分だと、男の唇は歪み、なおも誘い続ける。

 その欲を叶えるために。奪い取るために。自らを満たし続けるために。


「あいつを俺のところに連れて来れば、お前はアケディアに捨てられることはなく、俺は伴侶を得ることもできる。ヴァールのことは気にするな、どうせまた精霊王が新しい伴侶をあてがってそれで終わりだ。みんな幸せになれる!」


 それで満たされるのは彼らだけだと、否定の言葉は絞り出せず。湧き上がる苛立ちに爪を立てることもままならない。

 自分が、エルドがどんな思いでここまで来たか。ここに至るまでに、どれだけの葛藤があったか。

 新しい伴侶など、そんなもの望んでいない。望むはずがない。誰が何と言おうと、何を言われようと、絶対に。

 そんな身勝手な欲望を満たしてなるものかと、向けた紫の鋭さは、やはり黒い幕に阻まれ届かず。


「な? 悪い話じゃないだろう?」


 返答はなく。されど答えは確信していると、離れる手が空気の中にかき消える。

 手だけではない。腕も、足も、その姿そのものが溶けて消えていくかのように。

 念押しすらも必要ないと、最後にかける言葉もなく。残ったのは、歯を食いしばる男が一人だけ。


 暫く待ってもアプリストスが再び姿を現すことはなく、ようやく危機が去ったと吐いた息は、それまで苦しかったのが嘘のように軽い。

 いや、呼吸だけではない。怠さも、苦しさも、目眩も。何もかもが消え去っている。

 それが何故かと思い返し、晴れるよりも先に感じ取った違和感で思い出す。

 同時に抱くのは、底の知れぬ恐怖。

 忘れていたのだ。この異様な状況を。この言い難い感覚を。

 つまりそれは、嫌悪より安堵が勝っていたということ。その事実そのものに、狭まった喉から空気が漏れる。

 慌てて離れたはずが、その動きはあまりに遅く。ゆえに、伸びた手が頬に触れるのになんの支障はなかった。

 暗闇に慣れた瞳は、先ほどよりも鮮明にその姿を捉えてしまう。

 輪郭は女性に酷似したもの。だが、今まさにもたれかかっていた胸元は男とも女とも言えず。

 長い裾からかろうじて見える手。頬に添えられた指は細く、長く、そしてあまりにも白い。

 顔は黒く長いベールに隠されたまま、髪型どころか口元さえも見えていない。

 だが、ソレが笑っていると。微笑んでいると。そうして自分を凝視しているのだと、ディアンは、理解する。理解、している。

 力を入れた膝は、まるで地に打ちつけられてしまったかのように動かず。掴まれているわけでもないのに、頬に添えられた手から離れることもできない。

 早くこの場から逃げたいと願うと同時に、この場に留まりたいとも思っている自分がいる。

 ここにいてはいけないと。これは明らかに異常だと理解しているのに、安心感が無理矢理ディアンを包み込み、押さえつけているかのよう。

 混乱する脳では瞬きさえもままならず、激しい鼓動の音さえも遠く。

 逃げたい。だけど、ここにいたい。

 一秒でも長く、一秒でも、早く。

 唇から漏れたのは呻きか、震えか、それとも吐息だったのか。

 頬から髪へと指は動き、撫でられる感触にもはやどの感情を抱いたのかさえ、ディアンに判別することはできず。

 膨れ上がる恐怖が溶けていく。じわじわと蝕むように。最初から何もなかったように。

 このままでは、大切な何かさえも忘れてしまうと。そう考えている自分自身さえも、無くなって、


「――ディアン!」


 肩が跳ねる。それは望んでいた声ではなくとも、確かに自分の名前であった。

 幕の外、口元に手をあてがい叫ぶのは、この場所まで連れてきたその本人。明確に名を呼ばれたのはこれが初めてでも、自分を探していることを疑うことはない。

 彼がアプリストスの誘いに乗るのか、あるいは単純に自分の安否を確かめようとしているのか。その答えは分からない。

 正確には、それを気にかける状態ではなかったと言うべきだろう。


「でぃあん」


 音に質量はない。だが、それはどろりとディアンの耳に流れ込み、へばりつき、剥がれない。

 まるで幼子が初めて耳にした言葉を、懸命に覚えるように繰り返される響きは、たどたどしくとも微笑ましさとはあまりにかけ離れたもの。


「でィあん、でィアん。……ディアン」


 ようやく紡げた音に、喉から搾り出たのは悲鳴か、息か。それをディアン自身が理解できたかは定かではない。

 だが、無意識でも理解していただろう。ソレに名を知られてはいけなかったのだと。


「ディアン」


 だが、自覚よりも先に頭を撫でられ、恐れが有耶無耶になっていく。

 その感覚自体が恐ろしいはずなのに、鈍くなる思考では、もはや何を考えていたかさえも定かではなく。


「また会いましょう。――の、愛おしい子」

「ディア……って、そこにいたの!?」


 最後に投げかけられた言葉は、かけられた別の声によって有耶無耶になる。

 はた、と瞬き、顔を上げる。視界は黒い何かに遮られて、それがベールのような物だと気付いたのは触れてから。

 いつからこんなのを被っていたのか。そもそも、今まで自分は何をしていたのか。

 アプリストスに捕まりそうになり、それから……彼らが話をしているのを、見ていて……?


「どこからそんなの……ああもうっ、どうでもいいわ!」


 連れて来る前まで付けていなかったベールに対し、マティアも疑問は抱いただろう。だが、混乱のまま叫ぼうとも、優先順位までは間違えなかったようだ。


「身体は!? あのハゲに何かされたんじゃないわよね!? 痛いところとか、苦しいところとかは!? もう大丈夫なの!?」


 肩を掴む力は相当強いが、揺さぶらないのはせめてもの考慮か。矢継ぎ早に問われて、もはやどれから答えたものか。

 あれだけ感じていた不調は、今は影さえもなく。息苦しさも、目眩も、まるで夢でも見ていたかのよう。

 ディアン自身、自分に何があったか覚えていないし、すぐに思い出せるとも思えない。


「し、死なないわよね」


 少なくとも、掴まれた肩から伝わる震えが演技ではない、ということだけは確か。

 溜め息を押し殺す。胸中に浮かぶ感情は、やはり先輩とも呼べる相手に抱くのには相応しくないものだろう。

 諦めとも似て、しかし違うもの。若干の怒りだってまだ残っている。目的地に着いたなら、じっくりと話をしなければならないだろう。

 だが、やはり憎みきれず。堪えたはずの息は、苦笑と共に僅かに漏れてしまう。


「怯えるぐらいなら、最初から連れ出さなければよかったでしょう」

「それはっ……! ……そう、だけど、」


 わざと煽り、されど反発はなく。今はそれで十分かと、肩に置かれた手に触れる。

 恐怖と緊張で冷たい指を温めることはなくとも、その震えを止めることはできただろう。


「死にませんし、死ねません。……ですが、調子がいい内に移動しておきたいです」


 考えなければならないことはあまりに多く、話さなければならないことだって。

 だが、この場に留まることが悪手であるのには違いなく。全ての不調から解放されている今、取れるのは進むか戻るかの二択。


「引き返すつもりがないのなら、早く案内してください。……少なくとも、外より室内の方がマシでしょうから」


 立ち上がり、土を払い。それから見上げた顔は、眉を寄せていても不快は見えず。

 揺れる銀が滲むことはなくとも、あまりにも分かりやすい表情に、今度こそ笑いそうになるのは何とか堪える。


「……こっちよ」


 バツが悪いのか。あるいは、もう逃げないと判断したか。再び腕を掴まれることはなく、先導する背はどこか小さく見える。

 本当に何から聞くべきで、何から考えるべきかと。悩むディアンに、もうあの恐ろしい一瞬は記憶になく。

 だからこそ、最後に投げかけられた言葉を。あのおぞましい響きの意味を。

 ――『私たち』と囁かれたその真意を考える機会は、永遠に失われてしまったのだ。

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発売中の第一巻も、よろしくお願いいたします!


挿絵(By みてみん)



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