274.想定外の
ディアンが精霊界に来てから、すでに数日が経過した。
初日こそゼニスが人間界に戻ることで進展があったが、それ以降は全くと言っていいほど手応えはなく。
エルドをはじめ、シュラハトやアピスも、調査は進めているが、糸口さえつかめていない状態。
毎晩エルドが魔力を整えてくれているが、倦怠感は日を追うごとに増している。今は怠いだけで済んでいるが、この状態が続けば、また吐き気や呼吸困難に陥ってしまうのだろう。
そうなる前に人間界に戻る方法を見つけられるか。それとも……それを選択するか。刻限は迫っているが、まだ答えを出すには猶予がある。
ディアンよりもこの地に詳しい彼らが難航しているのであれば、ディアンにできることは大人しく待つことだけ。
この状況に一番苦しんでいるのが誰か。焦り、悩み、そうして今も懸命に足掻いているのは誰なのか。ディアンは理解している。
他者に諭され、怒られ、それでもその意思を尊重させようとしている点では、ディアンもエルドと同罪だろう。
ロディリアであれば、実際に不調を来しているのはディアンなのにと、またエルドの頬を張ったかもしれない。それを咎めるのが伴侶としての役目であるとも怒られる可能性だって。
それでも……やはり、ディアンが選んだのは、エルドを信じるということ。
愛し、愛されている。その自覚があるからこそ、彼の言葉を信じると誓ったのだ。
何を言われても揺らぐことはなかったし、これからもそうである自信だってある。
幸いにも、アピスが用意してくれた本の数は、ディアンに考える猶予を奪うに十分すぎるほど。
そう、だからディアンは待てたのだ。その時が来るまで、焦ることなく、エルドを信じたまま、じっと。
故に、先に耐えきれなくなったのはディアンではなかった。
「っはぁ~~~……」
ディアンの意識を引き戻したのは、これ以上ない深いため息ではなく……それより先に聞こえた、硬い何かが折れる音だった。
夢中で追いかけていた文字から顔を上げ、机に齧り付いていたはずの男へ視線を向ける。
机どころか床にまで散乱している紙には服らしき絵が描かれており、それを作り続けていた男の手元には、折れてしまったらしい鉛筆の残骸。
乗っていた筆が止められた不満か、それとも唯一の筆記用具が使えなくなった苛立ちか。頭を掻いても感情を抑えきれず、舌まで打つ男からそっと目を外す。
辛辣な言葉をかけてきたのも初日だけ。それ以降はアピスに何かを言われたのか、積極的に関わってくることはなく。大きく変わったのは二人の位置ぐらいだろう。
初日に座っていた椅子は、二日目から机の上を占拠される形で奪われ、ディアンは部屋の端にあったソファーへ。
書く、という作業上、机がある方が適しているし、座る場所さえあるなら本は読める。
日ごとに彼の周囲が散らばっていくのに対しては色々と感じていたが、指摘することでもないと思っていたのも事実。
彼の役目は、万が一に備えてディアンと共にいることだけ。マティアがどんな感情をディアンに抱いていようと、勤めを果たすのであれば言う権利はない。
だからこそ、実際にこの数日は平和だった。
どれだけ彼が荒れようと、一線を越えることがなければ問題はない。そう判断し、再び辿ろうとした文字は椅子の引く音で再び遮られる。
ペン先を削るための道具を探しに行ったのかと、集中させた耳が捉えたのは近づく足音。そうなれば、さすがに無視するわけにはいかない。
「……なんでしょうか」
本を閉じ、ほぼ真上から睨み付ける銀と対峙する。片手を腰に当てた立ち姿は、それだけなら美しいものだ。
初見で精霊と間違ったほどの美貌であれば、威圧する姿も相応に見える。
だが、数日前ならともかく、今は戸惑いさえもその胸にはない。
ディアンはこの状況に適応したが、マティアはそうではないことは、その視線を見れば明らかなこと。
「アンタ、本当に結婚したくないわけ?」
突拍子もない話題だ。だが、今まで口にしなかっただけで、それは彼の中で燻りつづけていたのだろう。
この数日は単なる様子見であったと理解し、それから静かに息を整える。
「あれだけ言われたら、普通問い詰めるなり何なりするでしょ。それとも、確かめるのが怖くて聞けないわけ?」
彼の言う普通、というのがディアンの思う通常と重なるかはさておき。言いたいことは理解はできる。
愛されていないのでは、と不安になり話をするか、その不安ごと抱え込んで過ごすか。考えられるのは、その二択だろう。
後者を選んだとしても、いつまでも隠し通せるものではない。いつかは露呈し、結局は話し合うことになる。
彼の狙いとしてはそうであったのだろうが……残念ながら、ディアンは彼の想像する普通の人間ではない。
「すでに話は済んでいます。だからこそ、ここであの人を待っているんです」
「あら、まんまと丸め込まれたってわけ? そんなの、少しでも人間界に居着こうとするために騙されたに決まってるじゃない」
どんな馬鹿でも考えれば分かると、あざ笑う口調に含まれるのは嗤いではなく苛立ちだ。
思っていた通りに事が進まず、焦りを隠せていないのだろう。
アピスやシュラハトが儀式を急いたのは、ディアンの体調と他の手段での解決があまりに望めなかったからだと分かっている。
では、なぜ彼がここまでディアンへ迫るのか。
単にディアンと関わりたくないのか、他に理由があるのか。
あったとしても、それはエルドや自分にとって害のあるものではないと判断すれば、深追いする必要もなく。
であれば、わざと神経を引っ掻くようなこの物言いも、今は大して気にするものではないと。そう結論づければ、やはりディアンの精神を揺らがすものではない。
「……確かに、そうかもしれません」
「だったら、」
「ですが」
見上げるのは銀でも、思い返すのは彼の姿だ。
自分に縋り、求め、苦しみ。それでも足掻くと決めたエルドの涙だ。
マティアの言う通り、単に騙されているだけかもしれない。この地に戻り、そうして過ごすことを先送りにしたいだけなのかもしれない。
もしかすると、本当はディアンを娶りたくない可能性だって。ディアンがそれを否定しているだけで、全く無いとは言い切れない。
それこそ鼻で嗤ってしまうようなことだが、愛し合っているとはいえ他人の思考を完全に理解できる者などいない。
ましてや精霊と人間。どれだけエルドが人間を愛し、考慮されていようとも、食い違う部分はあるはずだ。
理解したつもりで、そうだと自惚れていることだって、ディアンは否定できない。
……それでも、彼の愛し子の背は伸び、その証は真っ直ぐに男を貫く。
迷うことなく、ためらうことなく。確固たる意志を持って告げる。
「僕はあの人を信じると決めました。それ以外の答えは不要です」
そう、最初から答えは出ていたのだ。
エルドがどんな選択を取ろうと、それがどんな形になろうとも、それは彼にとっての最善であると。
ディアンを想い、己の信念と葛藤し、そうして彼が選ぶ未来を信じているのだ。
誰が何と言おうと。それが他にとっての最善ではなくとも。
エルドが、エルド自身の意思でディアンを大切にしたいと選ぶその力を。
それこそが彼であると、ディアンは信じている。
「何を言われようと、僕はあの人の判断を待ちます」
無言の交差は一瞬のようにも、数分のようにも思えた。
これに勝敗を付けるのであれば、先に目を逸らした方が敗者であろう。
「――っあぁ、もうっ!」
そして、先に音を上げたのは、やはり見下ろしていた男だった。
鋭利な爪が己の頭に突き立てられ、ガシガシと引っかかれた髪が束から飛び出して乱れていく。
それでも収まりきらぬと荒々しく向けられた背の向こう。
散らかっていた紙が独りでに動き出すのに目を瞬かせていれば、数秒もしないうちに全ては彼の手の中に。
繊細な魔術とは裏腹に、鞄に突っ込む動きはあまりに荒く。
その一連に呆然としていたのが悪かったのだろう。再びこちらを向いたと、そう認識した時には既に手首を掴まれていた。
殴られると身構え、咄嗟に張ろうとした障壁は引き上げられることでうまく発動できず。から回った足は引かれるまま前に導かれる。
「っ、何を……!」
「うっさいわね、あんたがどう考えてようが関係ないの!」
もはや床に穴が開く勢いで突き進む足。その行き先が外に繋がる扉だと認識し、机にしがみ付いた手から肩にかけての鈍い痛みに、力が緩みかける。
「この敷地から出るなとっ……!」
「だから! あんたが何信じようがどう思おうがこっちには関係ないつってんでしょ! あんたと違ってアタシは忙しいの! 散々付き合わされてこっちは迷惑なのよ!」
しがみついていた指が、鋭い痛みによって引き剥がされる。視界の端に走った光は炎か雷か、答えよりも先に与えられるのは胸ぐらを掴まれた圧迫感。
間近で睨み付ける銀。向けられた怒りの奥、やはり除くのは焦りと、それ以上の何か。
「まだこんなのが続くって言うなら、どこで待ったっていいんでしょ。いいから黙ってついてきなさい」
解放されても腕は放されず、もはやしがみつく物は遙か遠く。
反論も許さないと開け放たれた扉から流れ込む魔力に、咄嗟に障壁を張っても圧迫感はあまりに強い。
制止を呼びかけようとして、声がでないと知る。腹の奥に重くのし掛かる圧に蹲らずにいられたのは、手を引く男がそれすらも許さなかったから。
縋った首飾りの送り主の名を紡ぐことさえもできないまま。
閉まる扉に伸ばした指は、虚しく空を切った。





