26.真実
それは、ディアンが初めて聞く声だった。
どんな時でも父の声は威厳に溢れ、芯があった。こんな……こんな、諦め混じりの声を、ディアンは知らない。知りたくは、なかった。
「お前が結果に満足してしまえば、高みを目指すことはなかっただろう。評価に己惚れ、怠けてしまえば騎士にはなれない。どんな評価を下されようと諦めず、揺るがぬ精神がなければ……それこそ、姫のそばにはいられない。お前が目指したのは、それほど険しい道だった」
頭の奥が鈍く痛む。覚えのない記憶を思い出そうとしているせいなのか。込み上げる感情を、押さえているからなのか。
脳内にかかる霧を、強く手を握ることで振り払う。考え続けなければいけない。放棄しては、いけない。
「僕がいつ己惚れたというのですか。いつ、そう決断させるほどの怠惰をしたというのですか!」
怠けた記憶などない。六年間。そう、六年間ずっと努力を重ねてきたはずだ。
認められずとも、どれだけ実らずとも、いつか結果が出るはずだと。そう信じて、諦めることなくずっと、ずっと!
口で言っても諦められるほどの行為など思い出せない。心当たりなんてない。
もし忘れていること自体が決断させた理由であれば、まだディアンにも救いはあった。
「お前が殿下に勝ったあの日だ」
だが、見下ろされたまま告げられた記憶では少しも掠りはしない。
この六年間でラインハルトに勝った記憶は一度だってない。勝たないように妨害されていたのは、教師たちが証言したとおりだ。
故に、浮かんだ唯一は……それよりも、もっとずっと幼い時。
「まさか……記念祭の、剣術大会……?」
否定はされない。それこそが答えだ。
なんの記念祭だったかディアンも覚えていない。それが就学するより前で、決勝戦で殿下と対戦し……そして勝ったこと以外は、ろくに覚えていない。
それでも忘れるはずがない。物心ついた時から父に憧れ、剣を握り。努力を重ねた結果、手に入れた勝利だ。
初めての大会。相手は幼いとはいえあのラインハルト。苦戦を強いられ、それでも……卑怯な手など一切使わず、正々堂々と戦い、勝ち取った勝利だったはずだ。
忘れるはずがない。忘れられるはずがない。
あの日の感動も――この程度で喜ぶなと、そう冷たく言い放った父親の声だって。
「たった……たった、あれだけで……?」
「その考えこそが甘いと言っている」
頭の奥が鈍くなる。信じられないと、受け入れられないと。受け入れたくないと。
だが、告げる声はかつての記憶と重なりディアンを否定する。あの日のように、あの日と同じように。
まだああ言われただけなら、子を厳しく育てたいという意図で理解はできた。
そこにディアンの感情を含めないのであれば、込み上げるそれらを抑え込めば、英雄に相応しい対応だったのかもしれない。
たとえ初めての勝利であろうと、それまでの成果を得られたのであろうと、喜ぶことなく精進しろと。まだこの程度では足りないのだと、息子を強く育てたい故の厳しさなのだと。
「それが、ここまでの仕打ちを受けるほどの行為であったと……本当にそう考えたのですか……? 僕がしてきたことを、全て否定するほどだと……」
たった一度、初めて勝った子どもが無邪気に喜んだだけのことではないか。
それが教師たちに監視をさせ、試験の結果を捏造するほどの行為だったのか?
それが……そこまでさせるほどの咎で、あったと?
本当にそうであれば、自分の落ち度は一体どこにあったというのか。
「実際の成績については報告を受けている。既にお前の知識は騎士の合格基準に達しているし、剣術に関しても魔法で妨害されながらもあれだけできていれば実践でも問題ない。陛下も騎士団長もそう認められている。……遅くとも、卒業までには伝えるつもりだった」
「っ……そんなこと! 誰が信じるというのですか!」
本当に試験を免除させるつもりだったと、そう言われて声を荒げずにいられようか。
本当の実力だと言われて、一体誰が信じるというのか!
「座学では及第点にも届かず、魔術はまともに当たらない。剣術では誰でも勝てない落ちこぼれ! そう言われ続けた者が合格するなど、捏造したとしか思われない!」
見られてきたのだ。六年間ずっと、学園の中でも、外でも、知り合いからも、顔も知らぬ相手からも。
馬鹿にされ、哀れまれ、蔑まれ、嗤われ。
愚か者だと、恥知らずだと。そう言われなかった日は一度だってなかった。そうだと皆が認め、誰もがディアンを知っている!
今さら説明して、それを誰が……どうして!
「試験を受けぬのは合格しないからだと! 英雄の顔を立てるために仕方なく入れられただけだと! こんな方法で騎士になったって、なにも嬉しくなんかない!」
もはや試験の有無など関係ない。受けても、免除されても、そう指を差される未来は変えられはしないのだ。
いつかは証明できるかもしれない。それこそ何ヶ月、何年……何十年。一度植えつけられた評価を覆すのに、どれだけの時間がかかるというのか。
そもそも、また捏造されない補償はどこにある。
またつけあがると思われ、抑え込まれ、繰り返されないと言いきれる確信は、どこに!
「お前の感情など関係ない、これは既に定められたこと! これまで真実を明かさなかったのは、その心の弱さが原因だ!」
肌を刺す威圧に息が詰まる。それでも見下す金を睨みつけたまま。目を逸らしてはいけない。逸らすわけにはいかない。
それは負けを認めると同じだ。諦め、納得し、押し殺してしまうのと変わらない。今までと、なにも変わらなくなってしまう。
「他者から向けられる視線のみを意識し、己を満たす為だけに評価を得ようとするその精神そのものが騎士に相応しくないと! そんな邪な心を抱いたままでは、騎士など……姫付きになどなれないと、なぜ理解しない!」
重みが増す。喉が、空気が、頭の奥が。放棄しろと、考えるなと、押し潰されそうになっている。
いつものように、いつもと同じように諦めろと、鈍く、強く。
吐いた息がひどく震える。寒くもないのに歯が震え、拳は固まったまま動かず。強張った四肢が緩むことだって。
だが、流れる血潮が。甲高い耳鳴りが頭の中を晴らしていく。
「……あなたは、いつもそう言ってきた。英雄の息子として恥じぬ人間になれと言いながら、そう評価する他者の目を気にするなと。その矛盾が理解できないのは、僕があなたのいう弱者であり、至らない故であると」
ずっと目を背けていた。その矛盾に、成り立たぬ理想に。
いつかきっと理解できると、そうして望む姿になれるのだと、ずっと、ずっと。
「偽りの評価で他者を欺き、相応しくないと植えつけ。誰にも望まれることなく、卑怯者だと嗤われる。……それが、騎士として相応しい姿であると言うのですか」
たとえ良いものを悪く見せていたとしても、騙していたことには変わらない。
誠実であるべきだと、偽りのないよう努めろと。そう語った理想と今の姿が同じだとは、ディアンには思えない。
これが、自分が努力し続け、目指し、求められ続けた形だなんて……思いたくもない!
「お前が努力を重ねれば周囲も理解する。そうでなければ、お前はそれまでの人間と言うことだ。姫のそばになど到底――」
「その努力を踏みにじったのはあなたじゃないのか!」
「まだ言うか! お前は私の息子、英雄の子だ! その肩書きがいかに重く、どのように見られているか! その歳になってもまだ理解できぬことこそ愚かだとなぜわからぬ!」
怒鳴り声が遠ざかり、鼓動が強くなる。
同じだ。この会話に終着点はない。矛盾は繰り返され、ディアンの心を重く静めようとする。
ああ、そうだ。いつもこうだった。一度気付いてしまえば、もう知らぬままではいられない。
何度指摘しようと、何度訴えようと、父は繰り返すだけだ。
英雄として恥じぬように生きろと。その生き様を決める周囲の評価を気にするなと。
それを求める限り……英雄の子孫として恥じぬ姿を求める限りは、騎士にはなれないのだと。
言っている本人でさえ気付いていないのだろう。
だからこそ、これは終わらない。どれだけディアンが声を張り上げようと、父は認めない。認めることなど、ないのだ。
英雄の息子として。英雄の子として、恥じないように生きる。
繰り返すごとに飽和する思考の奥底から違和感が滲む。今までは気付いても掴めなかったその正体が、込み上げる怒りで引き摺り出されていく。
ズルズルと不快な音を立て、忘れ去ろうとしていた奥底から無理矢理。
気付かぬように、指摘しないように、何度も何度も埋め立てられていた疑問は、もう隠すことはできない。
ああ、そうだ。英雄の子。その生き様にこだわるのならば、それは、
「――メリアも、同じではないのですか」
意図せぬ言葉は、するりと出てきた。声にして初めて、朧気だった輪郭が実体を持ち始める。
そう、そうだ。英雄の子どもというのならば、誰よりも彼女がそうあるべきだ。
「メリアは関係ないだろう!」
「いいえ、彼女だってあなたの娘。英雄の子だ! だからこそ『花嫁』に選ばれ、誰よりもその視線に晒されている! 落ちこぼれである僕よりも、世間が見ているのは彼女ではないのですか!」
図星か、話を逸らされたと思ったのか。その声に険が増した理由などなんでもいい。
関係ないはずがない。そうでなければ、彼女は『花嫁』にはなれなかったのだから!
「同じ年頃の娘が学ぶべき内容どころか、精霊に関することだってほとんど知ろうともしない。嫌がることは全て拒否し、泣きついて終わりにする。それが『精霊の花嫁』に相応しい姿のはずがない!」
「彼女が人であれる期間は短い。それまで不自由なく過ごさせたいという親の気持ちがわからんのか!」
「自由であることと我が儘を容認することは違う! 屋敷に籠もっていなければ、それこそどんな目で見られていたか……父さんだって、本当はわかっているはずだ!」
今は。今までは、外に出る機会はほとんどなかった。出るにしても限られた場所、人との接触を限りなく制限された状態。
その姿を見ることはできるだろう。それだけでは、その内側までを見極めることはできない。
精霊に嫁ぐ存在が、精霊王についても知ろうともしないなど……それこそ、言われたところで誰が信じられるというのか!
「貴族や商人相手ならそれでもいいでしょう。経営に関わらず、ただ愛でられるだけの存在であるなら。ただそこにいることだけを求められるのであれば! だが、彼女が嫁ぐのは精霊だ。もう二年もすれば彼女は人間ではなくなり、彼らと同じ存在になる。今のまま嫁ぐことになればどんな結果を招くか……あなたがわからないはずがない!」
金が揺らぐ。黒は見上げたまま、睨みつけたまま。その変化を見逃すことなく声を張り上げる。
ここまで訴えたが、なにも変わらないかもしれない。結局は同じ日々を過ごすのかもしれない。
それでも、伝えなければ。言わなければいけない。今だ。今、この時しかないのだ。
動揺した父がなにも言い返せずにいる、今しか――!
「まだ遅くない! 今からでもちゃんとした教育を受けさせなければ、彼女は――!」
「――嫌よ!」
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