268.戦の形
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ふ、と。意識が戻る。真っ先に感じたのは、右手の感覚。体温と、優しい魔力。目を開けずとも、それが誰か分かるほどには染みついた温もり。
繋がれた手から辿るように、自分の感覚が戻ってくる。重たい四肢、鈍い頭、不快感が残る胃。だが、これまで感じていた息苦しさはなく、自然と深く吸った息は、人間界のものと変わらない。
「ディアン」
静かに、だが焦る声に目を開く。見慣れぬ天井よりも先に捉えたのは、薄紫の光。
握っていた手に力がこもり、それから手は頬へ。撫でられる感触だって、ディアンを落ち着かせてくれるもの。
「聞こえるか。痛い場所や、気持ち悪いところは」
どうして自分がここにいるのか思い出そうとするよりも先に問われ、大丈夫だと伝えたはずの声がひどく掠れる。
起き上がろうとしても身体は重く、肩を支えられてやっと座れる程度。支えを失えば、すぐにその身体はベッドに戻ってしまうだろう。
差しだされた水を受け取ることもままならず、口元で傾けられて、含んだそれは僅かに甘いもの。
もう慣れてしまった甘味の中、感じていたはずの苦味をほとんど感じなくなっていたのに抱いたのは違和感か、恐怖か。
それも、身体の奥に染み込む感覚と共に溶け、息を吐く頃にはもう消えてしまったもの。
まだ痺れるような感覚こそ残っているが、徐々に不調が引いていく。それでも、頭の芯に残る重さは……負荷魔法をかけられた時と酷似したもの。
精霊界の魔力の濃度に耐えられずに倒れてしまったのかと、思い出そうとしても回らない頭ではろくに考えられないまま。
「吐き気や痛みは」
再度問われ、振った首はやはり怠いもの。だが、胃は気持ち悪いが吐くほどではないし、痛みだってない。この怠さも、もう少し休めば楽になるだろう。
とはいえ、まだまともに動くことはできず……潤った喉で伝えるのが精一杯。
「だい……じょうぶ、です。……あの」
「ディアン!」
思っていたより舌が縺れ、たどたどしく紡いでしまった言葉にエルドの瞳が細まる。そこに込められた感情を正しく読み取る前に呼ばれた名は、開かれた扉の方向から。
飛び込んできた影は三つ。獣の姿に戻っているゼニスと、ディアンの名を呼んだアピス。
そして、その後ろからついてきた金色を視認した途端、頭の中に光が散る。
「しゅらっ……ごほっ……!」
「落ち着け、大丈夫だ」
時間にして一瞬。思い出した膨大な記憶の量に息が止まり、そうして衝動のまま叫んだはずの喉はすぐ咳き込むことに。
背を撫でられ、宥められる間も頭を巡るのは、倒れてしまうまでの一連。
門が開き、違和感を持って。そうして、シュラハトが吹き飛ばされるところまでは覚えている。
だが、その後自分がどうなったのか……そもそも、なぜああなったかさえ、わかっていない。
「い、ったい、何が……シュラハト、様は、」
「この通り、何ともないよ。……とはいえ、さすがに驚いたけどね」
口調こそ戯けたものでも、その声も表情も笑い飛ばせるものではない。それだけで、今回のことが異例であると告げているも同然。
顔を覗き込むように傍にきたゼニスを撫で、自分がひとまず無事であることを示す。
「精霊王は何と」
ディアンが気を失い、どれほどの時間が経過していたのか。少なくとも、事の一連を報告し、その対処を聞くまでの間は倒れていたのだろう。
問いかけたエルドの声は固く、本人も返される答えを想定しているのだろう。そして、問われたアピスも分かっている。
それでも、やはりその眉は寄せられたまま。息は深く、怒りと諦めの混ざるそれは、あまりに辛いもの。
「……結論から言えば、今は人間界に戻ることはできません」
手に力がこもる。それはディアンだったのか、エルドだったのか。
想定できることと、納得できることは異なるもの。否、分かっていたからこそ、受け入れられないということだって。
思い出すのは、意識を手放す寸前に見ていた光景。崩壊する門。滲む黒い靄。叫び声。
……ただシュラハトが失敗しただけでは起こり得ない、異常事態であることは、ディアンにだって理解できたこと。
「まず、門について。噴き出した何者かの魔力は、明確にディアンを狙っていました」
「寸前でヴァールが障壁を張ったけど、覚えてる?」
強い目眩と、不快感。前後不覚に陥ったあの時、それは既に目前まで迫っていたのだろう。
気付いた時には全てが終わっていて……だが、そうであれば、あの時抱いた感覚にも納得がいく。
誰かが自分を狙っていたと明言され、収まっていた震えが再び込み上げる。
「対応はできたけど、無理な干渉のせいで門も壊れちゃったしね。直すのは簡単だけど、また同じ事が起きないとは限らないし」
「本来、門を展開した者以外が干渉することは容易ではありません。大精霊ほどではなくとも、シュラハトも上位に属する精霊。それを上回る相手となれば、次も塞ぎきれるとは……」
補足は内情を知らぬディアンの為のものだ。
シュラハトが強い精霊であることは、ディアンも分かっている。その彼を陵駕するとなれば、アピスの言う通り大精霊に並ぶ存在だろう。
その上で、あの謁見の後でもディアン自身を狙うとなれば……。
「……フィリア様、ですか」
「違う」
確信を持った答えは、されど真上から否定される。それは彼女を信じているのではなく、疑い抜いた後だからこその結論。
「あの女は狂っているが、こんなだまし討ちの真似はしない」
「ヴァール様の言う通り、フィリア様ではないだろう。彼女の魔力は、あそこまで禍々しくはない」
感覚だけではなく。長きにわたってフィリアの暴走を見てきた人間としても、それは間違いないのだろう。
ならば、候補はもう一人。
「では……アプリストス様が……?」
「確かに彼の可能性は高いが、明確に魔力が判別できなければ断言できない。問い詰めたところで素直に認めるとは……そもそも、他にも疑わしい者はいる。一概に彼だと決めつけて動くのは危険だ」
気持ちはわかるが、と否定されればディアンにはもう心当たりはない。それはエルドやアピスも同じ。
疑わしいだけでは、真実を明かすことはできないのだ。
あれほどの執着を見せたアプリストスが犯人でないのならば……本当に、一体誰が。
「ともかく、犯人を突き止めるか、確実な対策が取れるまで帰すことはできない」
「……オルフェン王は何と」
わずかに逸れる青。止まる唇。それだけでも、良いものではないと示すのと同じ。
精霊王としても、これは無関係ではないはずだ。立ち入りの禁じられた場所、門への勧誘、愛し子の奪取。どれ一つとっても重罪であるはず。
さらには、精霊王の命に反しての行いだ。裁かれずとも、何かしらの策を講じる必要はある。
……はずなのに、唇は音を紡がぬまま。その反応に、落ち着かない胸がより掻き立てられる。
「それは……」
「面倒だからさっさと初夜を迎えろってさ」
「シュラハト!」
怒鳴る声は淀んでいた口から。されど、怒りの衝動は、その声よりも握られた手の強張りの方が遙かに強い。
「オルフェン王もそこまではっ……!」
「分かりやすく要約しただけだよ。それとも、一言一句再現しろっていうの? それこそヴァールに怒られるし、隠す意味だってない。それに、アピスだって何が最善か分かってるだろ」
口調こそ変わりのないもの。世間話のように軽く、しかし、見据える瞳に抱くのは畏れ。
重なるのはあの日、地下牢で差した光。決して人ではないと突きつけられた、あの時と同じ。
「……今の状態で儀式を行えば、命を落としかねない。そもそも、この事態は我々が無理に呼び立て、他の精霊を煽った結果だろう」
「じゃあ、このまま放っといて衰弱死する方がマシだって? 障壁は張ってるけど、ここだって安全じゃない。なら、さっさと儀式を済ませて正式に伴侶にした方がいいだろ?」
違うかと、問いかけられるアピスの唇は閉ざされたまま。彼女もそれが最善だと理解している。……そして、今それを聞かされているディアンも。
「遅かれ早かれ、こっちに来なくたって誰かが手を出しただろうし、そうなったらロディリアだけじゃ対処はできない。こうして未然に防げて、把握できてるだけマシじゃない?」
沈黙は肯定と同じ。それでも言葉を続けるのは、理解しても納得していないディアンたちの反論を防ぐためだ。
こんな分かりきったことに、何を悩む必要があるのかと。
「そもそもさぁ、儀式を一年先延ばしにする理由ってなに?」
「何度も言っただろう、『選定者』としての教育が……」
「教えるだけなら、それこそ君や他の伴侶から教わればいい話だ。人間界で教えられることなんて知れてるし、今の習慣に固執する理由ってある? ……そもそも、君だって最初はそうだっただろ」
最初の伴侶。まだ教会がその形を成していない時代。迎えられた伴侶はそうであったはずだと、そう突きつけられれば、もうアピスの言葉は意味を成さない。
そう、理解しているのだ。それに固執しているのが体裁のためではなく、ディアンの気持ちによるものだと。
「ヴァールの伴侶になるのは決定事項だし、そもそも今回の謁見が仕組まれたのだって、一年先延ばしにするとか言ったからじゃん。ヴァールにも原因があるだろ」
「シュラハト! たとえそうだとしても、勝手が過ぎる! 精霊王が呼び立てなければ今回のことは、」
「それでも来ると決めたのは彼らだ」
鋭い金は青を。そして、そのままディアンへと突きつけられる。
どのような過程があれ、そう選択したのはお前たちだと。それしかなかったのだとしても、選んだのはディアンたちだと。
建前など意味はない。嘘など何の糧にもならない。成すべき事の前にそれは無意味なのだと。
剣をとり、魔術を放つだけが戦いではないと。明確な敵がいるのであれば、これもまた戦だと。戦の精霊は述べる。
そして、ここに来たのがディアンたちの選択であるなら、この先をどうするかを選ぶのもまた自分たちであると。
金は問いかけ、強い光はディアンを貫く。
「……で? どうするの?」





