267.一難去っても
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辿ってきたのと同じ道。感じる魔力こそ行きよりも軽く……だが、胸へのしかかる重さは比較にならない。
聞こえるのは黙々と進み続ける足音が二つ。会話はなく、静寂なはずなのにそう思わないのは、ディアンの思考が回り続けているせいだ。
抱き上げる腕からも、その気配からも、エルドが怒っていることをディアンは理解している。
当然だ。来たくもない場所に連れてきた挙げ句、自分の意思を押しつけた。それが最善であっても、それしか選べなかったのだとしても、エルドの気持ちを無視してしまった。
こうなると分かっていたからこそ、彼はこの地に来たくなかったのに。それを無理矢理言いくるめて……結局は、この有様。
結果としてはよかったのかもしれない。だが、それはディアンがそう思いたいだけと言われたって、否定はできない。
断ったところで精霊王は門を閉じなかったかもしれない。他の精霊に牽制せずとも弁えたかもしれない。
むしろ、こうして姿を現し、決意を見せたことで拗れてしまったかもしれない。
精霊王にも、フィリアにも会わないまま、エルドもディアンも傷付かずに済んだ可能性だって。
それでも、ディアンは来ることを望み、エルドにもそれを強いた。たられば、など。終わった後だからこそ言えること。
あの時は、それが最善だと思った。それを間違っていたとは言えない。
……それでも、エルドを傷つけてしまったことは事実。
謝れないのは、意地を張っているのではなく、その時ではないと理解しているからだ。
連れてきたのは自分なのに、これ以上エルドをこの場に留まらせたくないなど、矛盾にも程がある。
今は何を言ってもエルドの精神を傷つけるだけだと、ゼニスも理解しているのだろう。
だからこそ、口を閉ざし、ただ運ばれるまま。会話が交わされることはなく。足音だけが、響き続ける。
「あ、来た来た」
……否、響いていた。と訂正するべきだろう。
顔を上げた先、ようやく辿り着いた門の前。見える影は二つ。
先ほど別れたばかりのシュラハトは、青年の姿のまま。共に立っていたアピスの顔もまた、和らいだ様子はない。
名を紡ごうとして声が出ず、掠れた息に反応したのは抱きしめる腕だけ。
「ネロがここまで繋いでくれたのに、先に行っちゃうんだもん」
「……聖国の門まで繋いでおります。もう暫くお待ちください」
浮かんだ疑問は言葉にするまでもなく、その意図が伝わったのだろう。
もう少し留まっていれば早く帰れたのにと、肩をすくめるシュラハトに反し、アピスの表情は沈痛なもの。
あの状況で、あれ以上留まるよう願うのは無理だったし、実際止まらなかっただろう。
エルドの怒りは、もう息にさえ出ず。見上げることのできない薄紫の鋭さを正確に知ることだって。
貫かれているはずのシュラハトに怯む様子はなく、両手は門へと向けられたまま。
睨まれていないアピスの方がよほど堪えているようで、顔は暗いまま。
……否。それはエルドを恐れているのではなく、今までに行われた全てに対するもので。
「会話の許可をいただきたく」
近づき、見上げる瞳はそれでも揺れることはなく。沈黙は、ほんの数秒だけ。
頷きか、目線か。肯定を得た青がディアンへと重なる。
寄せられた眉は、心からの謝罪を示すもの。
「謝って済むことではない。だが……恐ろしい思いばかりをさせて、すまなかった」
取り出した布で汗を拭かれ、わずかに香るのはハーブの匂いか。鼻に通る、清涼感のあるソレに、少しだけ息が楽になった気がする。
それでも声を出すにはまだ辛く、大丈夫だと首を振るのでさえ、ままならない。
彼女が悪いわけではない。アピスは最初からディアンを気にかけてくれた。
フィリアから隠す時だって、彼女とゼニスは止めようとした。それが最善であっても最適ではないと知っていたから。ディアンが耐えられないと理解していたから。
だから……彼女は、何も悪くない。
「……お前が悪いわけではない」
ディアンの唇が紡げずとも、考えていたことはエルドも同じ。怒りを抱いていようと、それをぶつける相手を間違わないだけの理性はまだ残っている。
たとえその息が深く、絞り出すような低い声であっても。アピスが最善を尽くし……それでも、こうなってしまったことは、理解しているのだ。
もしかすれば、それはディアン以上に。今までも繰り返されていた通りに。
「それでも……」
「そうそう、僕のアピスを責めないでよね」
食い下がる声は、なおも作業を続けるシュラハトから。首だけを動かし見つめた薄紫は、今度こそ彼を貫いていただろう。
やはり堪えた様子はなく、作業が止まる気配もない。それが今何の工程を踏んでいるのかディアンにはわからなかったし、問うこともできない。
故に、その謎が解けることはなく、やはり見つめる以外にできることはない。
「言っとくけど、僕は誓約破ってないからね。ちゃんとあの女の視界には入れなかったし、触れさせなかったし。まぁ、確かにちょーっと配慮が足りなかったとは思うけど……」
よく回る口を閉ざすのに言葉はいらない。魔力が強まり、ただ威圧するものではなく、実際に男自身を刺すかのような鋭い感覚。
それは怒りを超え、殺気とも言えるもの。
もしディアンがその腕の中にいなければ。あるいは、これほどまでに弱っていなければ、それこそ互いに無事であったか。
「わかったわかった! 悪かったって! だからこうして早く帰れるように門の準備をしてるんじゃないか!」
さすがにシュラハトも堪り兼ねたのか、焦った声を出してもエルドの気配が和らぐことはない。
「無駄口を叩いているぐらいなら、手を動かした方が賢明と思いますが」
「あーもー、わかったってば……」
ゼニスからも咎められ、皆まで言うなと息を吐く男が顔を前に戻す。まだ暫くかかるのかと、そう考えた数秒後に、門の中の景色が変わり始める
白一色の壁。その色だけでは歪んでいると気付けなかったそこに混ぜるのは、異なる色。反する二色が混ざり合い、やがて、囲まれた中は黒一色へと染まる。
星のない夜空のような。底のない穴のような。月明かりのない日に見る、湖のような。
あらゆる色を吸い込み、溶かし、呑み込む深い深い黒。それは、ディアンが疲労しきっているからこそ抱く感想だったのか。
纏わり付くのは汗だけではなく、門から滲む魔力も。震え、強張り、首飾りを握り締める指から、無意識に跳ねた足先まで。
見開いた瞳も、浅く息を繰り返す唇も、今にも鳴りそうな喉さえ余すことなく。慈しむように、愛でるように纏わり付く、あまりにも不快な感覚。
フィリアのものとは違う。だが、明らかにおかしいもの。
これ以上見たくないのに目を逸らすことさえできず、縋る指に安堵は与えられない。
正しい場所に繋いだなら、眩しい光に満ちていたはずだ。それとも、人間界に向かう際はこんな風になるのか。
だとしても、これは、
「ちょっと待って、何――」
その答えが与えられることも、その声が最後まで紡がれるともなかった。
理解できたのは、噴き出したソレがシュラハトを吹き飛ばしたこと。ただ、それだけ。
甲高い耳鳴りに犯され、アピスの悲鳴が掻き消される。抱かれていたはずの身体が今どこを向いているかも理解できず、前後不覚に陥ったディアンに投げかけられる声は届かない。
胃の中がせり上がり、熱が喉を焼く。抑えきれずに嘔吐したことさえ、ディアンの意識にはない。
「ディアンッ!」
呼ばれていると理解しても、その肩を掴まれても、開いた瞳に映る景色は白く、黒く。
自分の身に何が起きたのか、それさえも分からず。
辛うじて保っていた意識を手放す寸前、霞む目に見えたのは……どこまでも白い空間と、崩壊した門だった。





