25.父との対話
まだ自分のどこに、これだけの体力が残っていたのだろうか。
限界を訴える肺。酸欠で呆けていく頭。足は走っているとは言い難いような速度で、それでも前に進み続けている。
足の甲が痛むのは、ペルデによって挟まれた時の名残なのか。その正体を突き止めることなど、帰りを急ぐディアンにはどうでもいいこと。
街の喧噪は遠ざかり、光は道を照らす街灯だけ。行き交う人もいなければ、何事かと視線を向ける者だっていない。それを幸いと思う余裕だってもう尽きた。
見慣れた道がこんなにも遠い。どれだけ足を動かしても、どれだけ近づいていると分かっていても、焦燥感に支配された精神が解放されることはない。
もう母親は眠っているだろう。妹だって、とっくに休んでいる。
だが、ヴァンは……父だけは、まだ待っているはずだ。
帰ってこないディアンを叱るために。言いつけを守らぬ息子を咎めるために。それは希望ではなく確信だ。
分かっていても走ることを止められない。会わなければならぬ相手が、聞かなければならない相手が待っていると知っていても、衝動がディアンを動かし続けるのだ。
確かめなければならない。明日ではだめだ。今。今すぐに。全てを、明らかにしなければならない。
早く、早くと。望むディアンの目にようやく親しんだ屋敷の影が映る。照明は見えない。
だが、彼はそこにいる。二階の隅、ここから見えぬ奥。自身の書斎でディアンを待っているのだ。
勢いを殺さぬまま握ったノブが、簡単に捻られる。鍵がかかっていなかったことを安堵するにはまだ早い。
飛び込んだ先で人影が動く。この展開を予想していなかったと見開く目に浮かぶ怯えも、今のディアンにとってどうでもいい。
「っ……父は、書斎か」
「え、っあ……」
命令でディアンを待っていただろうメイドは答えず、戸惑うだけ。いつものように大人しく帰ってくる姿しか想像していなかったのだろう。そんな相手に睨まれるなど、想像できたはずもない。
そんな相手に聞くだけ無駄だと階段を駆け上がる足は荒々しく、後ろから届く声などなんの抑止にもなりはしない。
廊下に続く扉もそのままに、ただ奥へと進み続ける。
肺は苦しく、心臓は悲鳴を上げている。だが、あんなにも巣くっていた恐怖はどこにもない。あんなにもディアンの足を震わせていた感情は、どこにだって。
この感情を言葉にはできない。してはいけない。それでも、怯むわけにはいかない。
勢い余った扉が壁に叩きつけられ、鈍い音が響く。突然の暴挙に正面に座っていた男がしたのは、顔を上げる動作ただ一つ。
向けられる金の瞳は鋭く、痛く。されど、見つめ返す黒も同じく睨みつける。
持っていたペンを所定の位置に。手元にあった書類は脇へ。
そうして空いたスペースに両手を置き、再び視線は向けられる。
「……こんな時間まで、なにをしていた」
扉に手をかけたまま、肩で息をするディアンにかけられたのは、その一言だけだ。怒鳴ることもない、静かに響く低い声。
いつもならそれだけで言葉が詰まり、なにも言えなくなってしまう。その視線に貫かれるだけで怯えてしまう。
心臓は未だ騒がしく、呼吸も落ち着いたとは到底言えない。だが、あんなにも焦燥感に駆られていたのが嘘のように心は静かだ。
大きく息を吸い、短く吐き出す。踏み出した足は、あっという間に彼の目の前に。父の、正面に。
「あなたに、聞きたいことがあります」
「なにをしていたと聞いている」
「あなたが答えれば僕も答えます」
問いを問いで返すのは、父が最も嫌うことだ。そして、言い返すことも同じく。
理解しても従わないのは、やはり冷静ではないのだろう。
いや、分かっている。このまま素直に答えたところで、父は自分の話を聞かない。今までもそうだった。昔からずっと、ずっと。ねじ伏せ、言い負かされ、同意以外は許されなかった。
今まではそれでよかった。今までは、それが正しいと思っていた。だが、一度芽生えた疑問が流されることを許さない。
今抵抗しなければ。今明らかにしなければ、それこそ本当に全て、なかったことにされてしまう。
気付いてはならない。だけど、知らなければならないそれを、掴みかけた真実を。失ってしまうことになる。
「門限を破り、ノックも無しに入ってくるなりそれか。お前はいつからそんなに偉く、」
「なぜ、僕の成績を改ざんするよう命じたのですか」
目蓋が僅かに細められる。その変化の意図は動揺か、怒りか。見極めることはできず、鋭さを増す黄金を見下ろすだけ。
「……なにを言い出すかと思えば。もっとまともな言い訳はできなかったのか」
「教師たちは全て話してくれましたよ。全て陛下からの命令であると」
予想していた言葉を、予想していたとおりに返す。続かない言葉は、ディアンの言葉を肯定しているも同然だ。
「証拠がなければただの虚言だ」
「王家の蝋印が押された書簡であれば、司祭様に預けてあります。僕の、これまでの試験結果と共に」
立ち上がり、視線の高さが変わる。明らかな変化はいよいよ裏付けるものだ。
「グラナートに迷惑をかけるなと言って――!」
「――話を逸らすな!」
空気が震える。己のどこにこんな声量があったのか。まるで少し前のペルデのようだ。その時の自分も、目の前にいる男と同じ顔をしていたのだろうか。
答えはない。知りたいのは、そんなことではない。
「司祭様は仰ってました。国王陛下の独断で命令を下すとは考えられない。今回のことがラインハルト殿下の為であるとも思えないと。それでも、もし王命を出すのであれば……」
息が震える。怯むな。恐れるな。聞かなければならない。知らなければ、ならない。
問わねば永遠に今のままだ。知らぬまま、また同じ日々を送ることになる。だが、それができないことは分かっている。
だからこそ、ディアンは声を張り上げなければならない。自分の為に、自分自身のために。
「っ……それはあなたが、父さんが関わっていると……!」
まだ十数分前。グラナートから告げられた名は、はっきりと覚えている。
もしも捏造するとして、その目的があるとすれば一人だけだと。それは、ディアンの父……ヴァンしか、考えられないと。
己の息子を、わざと不利な位置に立たせる理由など見当もつかない。それでも、彼しかいないのだと!
「……今まで、父に恥じぬよう努力を重ねてきました」
握り締めた手から、軋む音が聞こえる。治ったはずの傷は痛み、まるで血が滲んでいるかのよう。
実際にそこに色が混ざらずとも、抑えきれぬ怒りは皮膚を抉っていく。
「どれだけ剣術が劣っていようと、魔術に優れていなくとも、知識が足りぬとわらわれようと……全て、僕の実力が足りないからだと。結果が出せないのは自分が至らぬせいだと……!」
そう信じていた。そう信じなければいけなかった。否定してはいけなかった。否定すれば、それこそ弱者であると認めることになったからだ。
自分の実力を知り、それでも諦めることなく努力を重ねる。そうした時間は決して無駄にはならないと、実ることはなくともいつか報われるはずだと。
そして、いつか……いつか、本当に。望まれたとおり、騎士になれると。そう信じていた。ディアンは、信じていたのだ。
それなのに……ああ、それなのに!
「でも、それは全部嘘だった……!」
「ディアン、」
叩きつけた拳は、机を抉ることはない。ただ、響いた骨と肉が傷むだけだ。
それでも怒りは収まらない。その答えを聞けるまでは。その全てを明かされるまでは!
なぜあんな思いをしなければならなかった。六年だ。六年もの間、ずっと!
指を指され、嗤われ、哀れまれ! ずっと苦しめられなければならなかった、その理由を!
「――答えてください!」
金が揺らぎ、黒は揺るがず。されど、どちらも逸れることなく。絡み合った視線が解けることも。その怒りが滲むことだって。
響くのは、鼓動が鼓膜を叩く音だけ。回答はない。痛い程の静寂が流れて動かない。
数秒、十数秒。このまま終わらないと思えるほどの時間は、実際にはどれほどだったのか。
長い、長い溜め息がその口から漏れる。
一度閉ざされた金。その動作全てが……ディアンが望み、そうして否定されたかったこと。
「……全ては、お前を騎士にするためだ」
閲覧ありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。





