262.謁見の後
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解散、と号令が響き、集まっていた精霊たちが各々に去って行く。何人もがエルドに近付き、祝いの言葉をかけていくのを、再び被せられたフード越しに聞いていたが、やはり状況に追いつけない。
全て……自分を試すための茶番だった? 飲んだのは毒ではなくて、本当にシロップ?
全部、自分がエルドに相応しいかどうかの……?
「え、るど。怪我が……」
そんなことはどうでもいい。精霊王にエルドの伴侶として認められたことだって、今は噛み締める時ではない。
自分の指を握るその手から、未だ血が流れ続けていること。ディアンが意識するのはそれだけ。
「問題ない」
「ですが……っ!」
一層強く握りこまれ、痛みに言葉が塞がれる。見上げた光はやはり冷たく、そして熱く。怒りを抑えていると理解させられ、言葉は紡げぬまま。
……怒っている。当然だ。それだけのことを、自分は彼に強いたのだから。
「待て、ヴァール」
俯くよりも先に襲いかかった浮遊感で、膝を掬われたと知る。
横抱きにされ、通路を戻ろうとしたエルドを引き止める声は、変わらず頭上から響く。
「二人きりで話すことがある」
「これ以上、くだらん茶番に付き合うつもりはない」
強行し、向かおうとする行く手を阻む金色の影。まぁ落ち着いてよ、と笑う顔に危機感の欠片もない。
いや、シュラハトだけではなく、周囲にいるどの精霊も同じだ。まるでこれが普通だと言わんばかりの……度が過ぎたとは、微塵も思っていない。
これも精霊と人間の感覚の違いなのかと、体温が下がっていく感覚に、なんの意味があったのか。
「お前の伴侶にも関わることだ」
「話すことはないと言っている!」
怒声が空間を揺るがし、肌を粟立たせる。漏れる息はまるで手負いの獣のようだ。
いいや、実際にエルドは傷付いている。手ではなく、その心が。もうこの場にはいられないと、全身で訴えている。
全てが終わった後もなお引き止めようとする彼らに対し、今の姿だって晒したくないのだと。
宥める手を伸ばすことはできず、締めつけられる心臓の苦しみに呻くことだって。
「……さして時間は取らぬ」
「ヴァール」
近付き、エルドの真の名を呼ぶ男の声。柔らかな声色に、それが誰か、見えずともディアンは理解する。
「お前の伴侶は、我々が守る。……デヴァスの名にかけて誓おう」
精霊同士の宣言に、どこまでの効力があるのか。
ディアンを抱く力は弱まることなく。されど、それが無意味なものではないことは、エルドの沈黙が語る。
「…………フィリアは」
「今は謹慎してある。近づかせないし、触れさせない」
交わる視線で、どれだけの意思が伝わったのか。溜め息も聞こえず、了承の仕草もなく。ただ一つ、ゼニスの名を呼ぶ声だけが響く。
視界に入り込む白は毛ではなく髪。エルドとは違う馴染み深い匂いに、受け渡された身が強張ることはない。
「頼む」
「……心得ています」
エルドから、人に化けたゼニスの腕に。離れる際、フード越しに頭を撫でられても、その温もりは互いに伝わらないまま。
先導するデヴァスに連れられ進む足は、ディアンの心境とは裏腹に強いものだった。
◇ ◇ ◇
門から謁見の間に至る通路とは違い、見える世界はどこもかしこも緑に溢れていた。
白を基調としているのは間違いないが、くりぬかれた壁の向こうから垣間見える風景は、一見すれば森のようにも見える。
生い茂る木々。飛び交う光。太陽とは違う光源。だが、何よりもここが人間界でないと示すのは、遙か彼方に見える巨木だ。
この距離からでも視認できるほどの大きさだ。実際に近づいた際には、その木の根だけで自分の全長を越えているに違いない。
魅入られる幻想的な景色。されど、そう長く見つめていられないのは、顔を伏せていなければ魔力の濃さにむせてしまうからだ。
あの空間だけでも相当だったのに、外に通じる場所に出ただけでこの有様。
先ほどよりマシとはいえ、こんな状況に長く晒されては本当に身が持たないと。抱いた危機感は部屋に入ってもなお落ち着くことはなく、しかし瞬いたのは聞こえてくる水音から。
たとえるなら、湖の中に浮かぶガセボ。遠方で流れる滝。思い思いに過ごしていた妖精たちがディアンを取り囲み、水音の中に鈴の音が混ざる。
扉をくぐり抜け、屋内に入ったはず。なのに、肌に感じる空気も、見える景色も、全てが外であることを示す。
あるいは、扉を模した門であったのか? だとしても、目眩も何も感じなかった。
これも一種の幻覚なのかと、考えている間にも足は奥に進み、やがて机の用意された空間へと辿り着く。
「ここなら、あの女が来ても対処できるだろう」
「……空間の遮断を。ここの濃度は、人間の身には強すぎます」
言うや否や、周囲から浮かび上がった水によりガセボが覆われ、呼吸が楽になる。
引かれた椅子に座らされ、それから滲んでいた汗も拭われる。
そこでようやく、自分たちに同行していたのがデヴァスだけでなかったことを知る。
向かって右に座ったのはアピス。出入り口を管理するように立ちはだかるのはシュラハト。ディアンの背後を守るのはゼニスで、周囲を覆ったのは両手を掲げる女性……おそらく、ネロだろう。
そして、そのディアンの正面。燃えるような赤い髪と、その熱を現すような鋭い目の男。彼こそが、炎の精霊。
精霊王の分身。初めて精霊に加護を与え、グラナート司祭を加護した者。そして……エルドの、兄にあたる存在。
「……あなたを騙したこと、この場で謝罪させてください」
独りでに並んでいくティーセット。その動きを最後まで見られなかったのは、アピスの謝罪があったからだ。
「まだ人間の身であるあなたには、耐えがたい恐怖であったでしょう。……本当に、ごめんなさい」
「……ぁ、い……いいえ」
喉が張り付いていることに気付き、返事が遅れる。一度息を整えて、絞り出した声は、建前でも偽りでもない。
「理由もなく、こうした訳ではないことは……エルドも僕も、わかっています。恐ろしかったことは……その……否定できませんが……」
思い出すだけでも身体が震える。今でも、どうして耐えられたか不思議なほどに。
数十年前、実際に対峙した英雄たちも同じ思いをしたはずだ。あの威圧感を前に、平然としていられたとは思えない。
ディアンは、エルドがいたからこそ耐えられた。……そうでなければ、今の自分はここにはいないだろう。
「それに、アピス様が忠告してくださいましたから」
気を確かにと、あの場に投げ出される前。確かに彼女は忠告してくれた。
あの時は意味が分からなかったが、今ならその気持ちも受け止められる。
あれは、エルドもディアンも知らぬまま進めなければならなかったこと。彼ら、ないし彼女たちの前で、本心であると示す必要があったのだ。
……だが、理解と納得は別のもの。
「僕は大丈夫です。ですが、エルド……あ、いえ、ヴァール様にも、どうか謝罪を……」
「それなら今、オルフェン王がしているはずだよ。こうするように命令したのは、他でもない精霊王だからね」
「その件は、私から説明しよう」
アピスの案ではないという訂正は出入り口の方から。肩をすくめ、やれやれと呆れる仕草も、こうも顔が整っていると様になってしまうのか。
だが、顔が整っているというのは一人だけではなく……今、名乗りを上げた男もまた、同じ事。
燃える赤。短く揃えられた髪。鋭い目つきに矛盾を感じてしまったのは、きっとエルドの目元を思い出してしまったから。
兄弟と言っても、それは人間たちが分かりやすいように付けた概念なのだと。改めて突きつけられる。
「……もう知っているだろうが、私はデヴァスだ。こちらは妻のネロ」
「会えるのを楽しみにしていたわ!」
よろしくね、と。すぐ傍に寄ってきた女性と、目の前の男と、どちらに視線を向けるのが正しいのか。
いつか出会うことは分かっていたが、戸惑わないはずもなく。背筋を正し、口上を述べる。
「お目にかかれて……」
「あら、服が汚れているわ」
言い切るよりも先に手をかかげられる。……と、認識したのも一瞬。
凄まじい水圧に思わず椅子から滑り落ちそうになり、急激な温度に悲鳴すら出せず。代わりに声を荒げたのは、そんな暴挙をした本人と周囲の者たち。
「ネロ様っ!」
「きゃあ! ごめんなさい!」
張り切りすぎてしまったと、慌てて服を手に取られるが、一部を絞ったところで全身ずぶ濡れには変わらず。
これが他の精霊なら悪意も疑ったが……なんせ、精霊界でも一二を争う……その、ドジっ子だ。
川を作ろうとしたら勢い余って山が吹っ飛んだとか、雨を望まれて張り切った結果、一ヶ月以上振りっぱなしになったとか。
それはもう、精霊記でなければ許されないような逸話がいくつもある。
むしろずぶ濡れになっただけなら無傷も同然。これで腕が飛ばなかっただけマシというもの。
「ネロ様、大丈夫ですから、大人しくなさってください」
アピスもそれを心得ているのか、これ以上被害が出ないようにと宥めるのも手慣れた様子。
とりあえず風邪を引かないようにと、ローブを脱ごうとする前に、今度は柔らかな風に包まれる。
暖かな熱は足元から吹き上げるように。走る光は間違いなく炎だというのに、痛みも焼けつくような熱さもなく。感じていた水の不快感さえ、一瞬で消え失せる。
驚きの声さえ出ない、とはこのことだろう。
「妻がすまない。張り切りすぎる節があってね」
眉尻を下げ、謝る姿に、やはりグラナートの面影を重ねてしまう。だが、そう口にしながらもネロに向ける視線は、エルドと同じく柔らかなもの。
……やはり、多少なりとも似るものなのだろう。
「改めて、辛い思いをさせてすまなかった」
頭を下げることはなくとも、本来なら謝罪を口にすることすらあり得ないことなのだろう。元より、これを画策したのはオルフェン王だ。
エルドにした仕打ちまで許せるほど、ディアンはできていない。だが、自分の身にかかったことだけで言うのなら、実害はなかったも同然。
「いえ、精霊王が命じたことであれば、」
「そうではない」
そもそもオルフェン王の命令に逆らえなかったのだろうと、そのまま紡ぎたかった言葉は否定で遮られる。
瞬き、見つめた正面。向けられた瞳に、もう笑みはない。
「――愚妹が、すまなかった」





