261.毒杯
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「……よかろう」
永遠にも思えた沈黙は、一瞬だったのだろう。
滲む視界が弾け、見下ろす影が鮮明になる。見上げる表情も、淡々とした口調も変わることはなく。だが、それは間違いなく、かの王に届いていた。
「案ずるな、命までは取らぬ。……だが、死を望むほどの苦痛は覚悟しておくことだ」
脅しではなく、本心だろう。あるいは、今の一連でさらに怒りを買った可能性もある。
だが、それで許されるのなら。それでエルドと共に生きられるのなら、きっと耐えられる。
たとえ理不尽であろうと、それがどんな苦痛をもたらそうとも。
……だって、努力することだけは慣れているのだから。
「これを飲めば、この一件に関して、これ以上の言及はないと約束していただけますか」
「……オルフェンの名にかけて、全てを許そう。他の者も、いかなる言動も慎むように」
その言葉を得て、ようやく足に力が入る。否、無理やり立ち上がったのだ。
もう小さな手は引き留めることなく、それど支えることもなく。真っ直ぐ、エルドの元に向かうディアンを止めることだってない。
いや、もはや誰に止められようとも関係ない。
「おい……」
「退いてください」
エルドに矛先を突きつけたまま、阻もうとする男を見上げる瞳に怯えも恐れもない。
彼もまた精霊。対峙するには敵わない相手。それでも、ディアンの色は揺るぐことはない。
「私の伴侶に触れることを咎められる謂われはありません」
だからそこを退けと、普段なら考えられない物言いにも、何も感じることはない。恐怖のあまり、全てが麻痺してしまったのだろうか。
……いいや、どれだけ気丈に振る舞おうと。強く見せかけていても、その胸にあるのはエルドを失う恐怖。
それ以外など、どうだっていい。どうなったっていい。
それこそ、この身がどうなろうとも。彼と共に生きられるのであれば。
喉に突きつけられていた槍は外れ、エルドと視線を合わせるために膝をつく。
見上げる薄紫の光が揺らぎ、震える理由をディアンは分かっている。
「……ディアン」
呼ばれた名は、まるで懇願のようだ。いいや、紛れもなくそれは願いだっただろう。
この後に続く言葉だって分かっている。止めろと、受け入れる必要はないんだと。これ以上、傷付くなと。
滲む薄紫に、心臓が締めつけられる。ひどいことを選んでいると分かっている。彼にとって耐えられないことだということも、ディアンは理解している。
それでも、これしか道がないなら。選ぶことができないのなら、分かっていても手を伸ばすしかないのだ。
……たとえ、それで彼を傷付けたとしても。
「ディア――」
その瞳が零れてしまう前に、包んだ頬はあまりに冷たく。重なり合った唇から移る熱だってない。
柔らかな感触の中、乾き荒れた表面だけがいつも通りで。そうだと自覚した途端、歪みそうになる顔を、額を合わせることで隠す。
泣いてはいけない。だって、今誰よりも傷ついているのは、エルドなのだから。
「エルド」
泣かないように願いながら、傷つけることを止められず。強い続けていると分かっているのに、まだ我が儘を貫こうとしている。
全てが終わった後、怒られてしまうだろう。いいや、いっそ怒ってくれればなんて、そう願うことこそ、狡いのかもしれない。
「僕の誓いは、今までもこれからも、ずっと変わりません。たとえ何があっても、あなたと共に、悔いながらでも生きるのだと。……あなただからこそ、そう僕は選んだんです」
あの夜に出会ったのが他の人であっても、この道は選ばなかった。
他の誰でもなく、エルドだったから。彼が、自分と共にいたいと。そう望んでくれたから、自分もここにいるのだと。
納得されないと分かっていても、ディアンは伝え続ける。彼が少しでも苦しまないように、悔いないように。辛いと、思わないように。
「僕の行動を、許してほしいとは言いません。あなたを傷つけると分かって選ぶ僕を許さなくていい。何年も苦しんで、ずっと目を覚まさないかもしれません。……だけど」
どうなるかは分からない。その時に意識があるのか、あったとして、意思を伝えることはできないかもしれない。
それは死と同じ。だからこそそれを望むほどに苦しみ、藻掻くことになるのか。
それでも、ディアンは耐えられる。否、耐えなければならない。
彼との誓いを、守るために。
「僕は必ず、戻ってきます。何年かかろうと、どれだけ苦しもうとも、絶対にあなたの隣で目覚めます」
そうだと誓ったから。共に生きると誓ったから。その為なら、何だってできる。
そう思えるほどの力を、ディアンはエルドから与えられてきた。そうだと信じられるほどの想いを、エルドに注がれてきた。
だからこそ、離れた紫は揺るがない。見つめ、微笑み、何度だって誓えるのだ。
あなたを、信じていると。
「……あなたに誓った僕を。絶対にあなたを裏切ることはないのだと、証明させてください」
だから信じてほしいと。待っていてくれと。伸ばした手に吸い込まれるように収まった杯に、反射する景色はやはり何もなく。
されど、その紫も、決意も、揺らぐことはない。
「っ……ディアン!」
悲鳴が鼓膜を貫いても、その手を止めるには至らなかった。
唇に引き寄せた器は温くも冷たくもなく、薄い固さだけが唇に触れる。
その感触さえ自覚する前に流し込んだ液体は、粘り気をもって喉を貫き――それは、容赦なくディアンへと襲いかかった。
噎せ、本能から吐き出そうとしたそれを、手で押さえることで喉の奥に留める。
身体が崩れ落ち、背が丸まる。飲み干した毒は触れた全てを犯すかのように、その名残を強く刻みつけていく。
全ての骨が溶けてしまいそうな、頭ごと潰されてしまうような、そんな例えでは名状しきれぬ苦痛に呼吸などろくにできず。
自分の咳き込む音の中、己の名を呼ぶエルドの声が木霊する。
肩を掴まれたと、そう認識できたのだって、辛うじて感じた魔力があったからだ。
血と、毒と、エルドの魔力。その全ての匂いに世界は回り続けたまま、このまま自分というモノさえ溶けて無くなってしまうような、そんな錯覚を抱くほどに、境界が曖昧になっていく。
これは人の身で口にしていいものではないと、頭よりも先に身体が理解する。
無意識に吐き出そうとしているのか、滲む唾液さえもソレに犯されて、それでも体内に留めておくのは意地から。
揺らぐ視界の中、空になった器が転がる姿よりも、今の自分は無様に見えていることだろう。
「――あ、」
だが、確かに飲み干したと。間違いなく毒を食らったのだと。手を外したそこに行き交うのは吐き出した液体でも、呼吸でもなく。
「甘゛……っ……!」
「……は?」
決死の思いで、ようやく言葉を吐き出す。大丈夫だなんて、とても言える状態ではない。
言い間違いでも、脳が狂ったのでもない。否、狂いそうなほどに、それはあまりにも甘すぎる!
本当に、全部の歯どころか歯茎まで溶けたかと思ったぐらいだ。
あまりの甘味に頭の奥はまだ痛いし、変に咳き込んだせいで気管まで苦しい。
唾液どころか血液まで甘くなってしまったと、言われても信じられるほどの甘さからどうやったって解放されない。
「くっ……くくく……」
ディアンも混乱しているが、それ以上に肩を支えたエルドも困惑している。
いや、エルドの場合は聞き間違いか疑っているのかもしれないが……そんな二人を翻弄するかのように、漏れた声は頭上から。
「はーっはっはっはっは! いやはや、見事な飲みっぷり!」
遠慮のないそれは周囲に広がり。そうして、壮大な合唱となって空間を占める。あんなにも厳かだった雰囲気はどこに消えてしまったのか。
感情の感じられなかった白の瞳は、今や細められ。代わりに大きく開いた口から響く笑いはいつまでも止まらない。
苦しみながらも呆気にとられていれば、すぐ傍で悲鳴が一つ。見やった方向に一つ、氷の塊ができているのを見て、そこでゼニスも開放されていたことを知る。
「おいインビ! 危ないだろうが!」
「……これは、グッラの果汁ですね」
押さえつけていた男の抗議を鼻で嗤い、一瞬でそばに来たゼニスが器に鼻を近付ける。途端、狭められた眉はディアンと同じかそれ以上か。
聞き覚えがあるはずなのに思い出せず、というよりそれどころではなく。必死に呻くのを耐えていたが、痛みはいよいよ限界を迎えつつある。
「正確には、グッラを煮詰めて作ったシロップだよ!」
「大丈夫? これで口をゆすいで」
ゼニスが駆け寄ったのを皮切りに、何人かの精霊が周囲を囲む。肩を抱く力が強まり、膨れ上がる魔力もどこ吹く風。
「……ごはっ!」
「ディアンっ!」
再び差しだされた器に満たされたのは透明な液体。
水だと疑いもせずに流し込み、再び襲いかかった甘味にいよいよ吐き出してしまった。
『毒』よりマシだが、聖水よりも遙かに甘い。
「ネロ。それは我々の水だ、人間には強すぎる」
「きゃあ! ごめんなさいっ! 私ったらつい……!」
今度こそ、と渡されたのは、無味無臭のもの。夢中で口をゆすいで、ようやく味覚が和らいでも困惑は解けない。
水色の髪の女性がネロと呼ばれたなら、エルドの近くに立つ影は、きっとデヴァスだと、辛うじて認識できてもまだ身体は落ち着かず、耳は木霊する笑い声に支配されたまま。
ふと、エルドが反対の腕を振り上げた。と、思った瞬間には、斜め上から何かの突き刺さる音。
見やった先、未だ笑い続けるオルフェン王の顔の横に刺さった槍は、先ほどまでエルドを拘束していたものと同じ。
「――どういうおつもりか、オルフェン王」
「はっはっは! ……はぁ、まだ分からぬかヴァール。お前の伴侶となる者を試しただけだ」
槍を投げつけられたにも関わらず、王が動じた様子はない。軽々と片手で抜いたそれは、呆気なく本来の持ち主の手元へと戻る。
「先も言ったが、それだけ溺愛しておるのにさっさと娶らぬからこうも面倒になったのだ。お前だけ罰を与えぬ訳にはいくまい」
「我が愛し子にここまでする必要があったか!」
「必要性ならお前が一番理解しているはずだが。それに、約束通り害は加えておらぬだろう」
はっはっは、と再び響く笑いが、あれだけ見下ろしていた者と同一とは考えられず。これも「毒」の見せる幻覚かと疑い始める。
いや、だが、グッラと言えば……確か、人間界では滅んだ果実のはず。
それこそ、死を垣間見るほどに甘いとか、なんとか。もちろん、それは毒なんかではなくて、
「さて、ディアンと言ったな」
「ごほっ……は、はいっ……!」
名を呼び見下ろす目に、もうあの冷たさはなく。頷き、満足したように笑う顔から感じられるのは畏れではない。
それこそ、父が子を認めるような。そんな温かさえ感じられるほどに。
「経緯はどうであれ、よく愚息を射止めた! その意志の強さ、己が選択に揺るがぬ精神は、まさしくヴァールの愛し子に紛うことはない! 歓迎しよう、新たな『選定者』よ!」
「待てヴァール、落ち着けっ……!」
「はいはいはい、そこまで! みんな持って持って! 今日のために用意した新作のお酒だよー!」
膨れ上がるエルドの魔力。すかさず止めた声はおそらくデヴァスだが、それよりも先に躍り出た男の姿に瞬く。
花ごと編み込まれた長髪。線の細い体格。人間の女性が見れば魅了される姿も、漂う酒の匂いに思わずディアンも顔をしかめる。
次々とグラスが配られ、例にも漏れずエルドとディアンにも差しだされる。
「ほらほら、君が持たなきゃ乾杯できないだろ?」
「ふざけるなプィネマ! 俺は――!」
「僕の酒が飲めないっていうの?」
ぐ、と押しつけられた器越しに感じる力は強く、同時に呼ばれた名で彼が誰かを知る。
酒の精霊。飲むも作るも好む彼に関する逸話に多いのは……差しだした酒を断ることに対する報復について。
断るなら相当の理由があるのだろうと。納得できなかった場合、それはそれは陰湿な報復を行うことも有名な話。
「ほら、君もだよ!」
「え、あ……」
「……プィネマ、まだこいつは人間界の酒も飲んでいない。お前の酒の美味さを知るのはその後だ」
それを知っているからこそ、同様に差しだされた器を断ることはできず。だが、受け取る前に伸ばされた手は、呆気なくそれを遠ざける。
そこに滴る赤を見て、彼が怪我をしていたことを今更ながら思い出し、息を呑む。
「エルッ……!」
「ん、なら仕方ない! みんな持ったー!?」
忘れている人はいないよねと、背を向けるプィネマの掛け声に掻き消され。咄嗟に血を抑えようとした手も、逆に握られて動けぬまま。
見下ろす薄紫に僅かな怒りを覗き見て、そのまま、口を閉ざす。
「では、ヴァールの伴侶に!」
乾杯、と。
高々に祝いの言葉が告げられようと、主役の二人の顔が綻ぶことはなかった。
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