24.暴露
「……ディアン」
永遠にも思えた時間が、柔らかな声で終わりを迎える。張り詰めていた空気は嘘のように四散し、最初からなかったかのよう。
まだ落ち着かぬ鼓動だけがその存在を証明し、顔は俯いたまま。上げられないまま。
「ディアン、すまない。君を怖がらせるつもりはなかったんだ」
「……グラナート、様」
恐る恐る、顔を上げてもいつもの笑みはやはりそこにはない。眉を下げ、苦笑し、自分の選択を後悔する男は……司祭ではなく、親友の息子として向き合ってくれている。
「……ほんとうに、すまない」
「いいえ、謝るべきは僕で……!」
首を振られれば、続きは紡げない。
「使いを出すかどうかは、君の話を聞いてから判断しよう。……でも、場合によってはこのまま引き留めることになる」
「そ、れは……」
「君は大したことじゃないと思うだろうけど、僕らにすればもう十分大事だよ」
言葉の端が引っかかり、しかし問いかけることはできず。まだ話をする前なのにそう決められて、内容が明らかになって呆れられないかと不安がよぎる。
証拠はあるが、信じてもらえるかだって怪しい。信じてもらえたところで……彼が、その答えを教えてくれるかどうかだって。
「でも、本当によかった。ここに来てくれて」
「えっ……?」
カップが傾けられる。砂糖もミルクも入っていない中身は生温いだろうに、和らぐ表情を見ると本当に美味しそうにみえる。
余韻を味わうように吐かれた息が、不思議とディアンの鼓動を落ち着かせていく。
「君は無理をするきらいがあるから、本当に辛いときも頼ってくれないかと心配していたんだ」
「そんなこと……」
「しかも、本人がそれを自覚していないとくれば余計にね」
そう言われても、無理をしているつもりはない。限界まで頑張るという意味ならば確かに合っているが、そうでもしなければディアンは人並みにはなれないのだ。
……ああ、違う。人並みになれないと思っていたから。
剣術も、魔術も、知識だって。それを計れるのは試験だけで、それが間違っているなんて思ってもいなかった。
誰だってそうだ。だから皆も指を差しわらっていたのだ。落ちこぼれだと。英雄の息子とは思えぬ弱者だと。騎士になど到底なれない、愚か者であると。
だから努力してきた。他人が認めずとも、無駄だと言われようと、できる限りのことを全力で。いつだって、真剣に。
……それを無理と思ったことはない。思ってはいけない。気付いては、いけない。
「だけど、こうしてここに来てくれた。自分では手に負えないと判断し、助けを求めに来てくれた」
こじ開けられそうになったなにかから、意識を逸らす。軋むのはなにか。忘れようとしてのは、なんなのか。
考えないようにすればするほどに、グラナートの言葉が入り込んでくる。繰り返す否定は届かず、自問自答は終わらぬまま。
「君はそう思っていないかもしれないし、ただ消去法でここに辿り着いたのかもしれない。……それでも、ここが君の逃げ込める場所であって、本当に安心したんだ」
よかったと、笑う顔を直視できない。
限界、だったのだろうか。ただ夢中でここに来てしまった。答えがほしいと衝動にかられるまま。それを知っているのが彼だけだと、彼にしか聞けないと。
だから求めただけ。だから、彼の元に来ただけ。
でも……それは、逃げだったのだろうか。
「……迷惑を、かけているのに」
その答えを出してはいけないと、奥から聞こえる歪な音に耳を塞ぐ。実際に手をあてがわずとも、意識を逸らすだけでその望みは叶うのだ。
「こんなの迷惑のうちにも入らない。むしろ、君が誰にも頼れず潰れてしまう方が僕としては困るな。君は親友の息子だが……それ以上に、大切な教え子だからね」
「っ……あ……」
「……さてと、」
謝罪か、感謝か。紡ぎたかったのはどちらで、本当はなにを言いたかったのか。混乱している間にカップは置かれ、その手が膝の上に。
見慣れた姿勢に、もう笑みはなかった。
「それで、なにがあったんだ」
落ち着いていたはずの鼓動が早まる。手に取った書類では滲む汗を拭いきれず、されど手放すことだって。
足元から這い上がる恐怖は彼が返す反応か、得られる答えに対してか。どれだけ皺が寄ろうと消えない文字を見つめていても、その正体は明かせない。
覚悟を決めるしかない。そのためにここに来た。そのために……彼に、かつての英雄に、会いに来たのだから。
無言で差しだした束が抵抗なく彼の手に渡る。回答済みの試験用紙だけではわからないはずなのに、眉が寄せられていく。
流し見られた枚数は十枚にも満たないだろう。だが、それだけで伝わった。伝わってしまったのだ。
「……これは、どこで」
「学園の教師たちが隠していたものです。……これが、その証拠です」
差しだした封筒に押された蝋印。それを認めた途端、司祭の顔が歪む。
もしも通達を取り出していなければ雑に漁られていただろう。そう思えるほどに指の動きは荒く、顔は険しく。
「剣術や魔術も、その都度魔法で妨害していたことも供述が取れています」
「まさか! ……いや、疑っているわけじゃない。だが……そんなこと……」
「グラナート司祭」
見据えた赤は、自分に対しての怒りではない。理解していても背は伸び、声は強張る。
それでも、答えを得るためには問わなければならない。聞かなければならない。
「かつて現国王陛下と共に戦った者として、教えてください」
王命は確かに下されている。他でもない陛下の名で。そこに刻まれた名前が示すとおり。
そう、疑う余地はない。だからこそわからないのだ。
「国王陛下は……あの御方は、己の息子可愛さにたかが庶民の成績を捏造させるような、そんな浅はかな男なのでしょうか」
まだ自分の息子を。ラインハルトの成績を良くするのであれば、まだ納得はできる。
どこかで露見するとはいえ、殿下としての体裁を守らせるのであれば……それでも十分揺らぎはするが、それでも納得できた。
だが違う。ラインハルトはなにもせずとも優秀だ。剣術も、魔術も、その有している知識だって。この国を背負い、我々の上に立つに相応しい人物だ。誰もがそれを認めている。誰が、その未来を描いている。
本人の成績を偽る理由はない。だが……それはディアンだって同じだ。
妨害されなくとも敵う相手ではなかっただろう。魔術でも、座学でも、それは変わらなかったはず。ラインハルトには敵わずとも、他にも優秀な者は何人もいた。
なのになぜ、ディアンだけがそう言い渡されたのか。なぜ、六年間……いいや、卒業までずっと、そうされる必要があったのか。
ラインハルトに勝った記憶など一度だけだ。
それも遠い昔、まだ学園に入学どころか、洗礼を受ける前の幼い時。それが原因であるとは、どうしても……どうしても、ディアンには思えなかったのだ。
陛下がそうするに至った原因も、その思惑も、ただの平民であるディアンにわかるはずがない。
分かるとするなら、英雄に至るまでの日々を共に過ごし、親友とまで呼び合ったこの人しか。グラナート司祭しか。
「そうでないのなら、なぜこのような命令が下されたのか。……僕を卒業と共に騎士にすると認めながら、今までの全てを否定させたその理由を、知らなければならないんです」
赤は、下に。額に手を当て、項垂れても目を逸らせない。逸らすわけにはいかない。
答えがわからなくったって、理解ができなくたって、その糸口だけでも得られるまでは。けっして。
「……君を、騎士にすると。確かにダヴィード……陛下が、そう言ったのか?」
「いいえ、聞いたのはサリアナ様からです。ですが、陛下も父もそれを知って認めていると。ただ、どこまで信じていいかは……」
陛下を呼び捨てにしていると、不敬を申す者はいない。
昨日の騎士たちの反応からしても、サリアナが嘘をついたとは考えられない。だが、それでも信じ難いことには変わらないだろう。
吐き出された息は深く、重く。それでも顔は上がらず、ディアンは見つめ続けたまま。
「……ディアン」
いつまで、そうしていたか。ようやく戻した顔は、とてもいい表情とは言えないものだ。
固い声で、今から告げられる内容がよくないものであることも察する。それでも、聞かなければならない。
「私の推測が合っているとは限らない。違っている可能性だって大いにある。……だから、落ち着いて聞いてほしい」
取り乱すと分かっている。予想されている。それほどの内容なのだと拳を握り、頷いても覚悟が決まらない。
よぎる不安は予感からだ。違っていてほしいと。どうか、考えようとしなかった可能性を、否定されてほしいのだと。
「私が知っている国王陛下は、もう何十年も前の話だ。かつて共に剣を交えたときと全く同じとは思っていないが……彼がそんなことを命令するとは私も考えられない。それでも王命を下したとなれば……」
そこで、言葉が途切れる。言いよどんでいる。そう理解して心臓が騒ぐ。
聞かなければならない。だが、聞きたくない。違う、知らなければいけないんだ。
今のままではいけない。このままでは……このまま、なかったことには、けっして。
「それは――……」
――目を、見開く。距離が遠のいたのは無意識に立ち上がったからだ。
聞こえた言葉を理解できない。ちがう、確かに届いた。だからこそ、理解したくない。
「……ディアン、落ち着いて」
司祭が立ち上がり、宥めようとする手から足を引く。口元を押さえなければ吐きそうで、それでももう、そんな余裕すら、
「か……え、帰り、ます、」
「ディアン!」
身を翻すより、腕を掴まれる方が早かった。痛みはないのに力は強く、咄嗟に引き剥がそうとした指など太刀打ちできない。
「帰りますっ……帰してください!」
「だめだ、今の君を帰すわけにはいかない」
どれだけ足を引いても、顔を背けても、司祭がその手を離すことはない。逆に掴みかかってくる腕さえも掴まれ、見上げた赤に滲む怒りに喉が狭まる。
「本当なら確かめないといけないんです!」
「確かめてどうするつもりだ! あいつが認めて、君はどうする!」
怒鳴られ、怯み、頭の中が攫われる。
どうするなんてわからない。考えられない。でも、考えていてはいけない。悩んではいけない。ここで踏みとどまっていてはいけない!
「離して、くださいっ……!」
「君は――!」
なにを伝えたかったのか、言葉は不自然に途切れ、視線が外れる。向けられた先、唯一の出入り口。その外から聞こえる誰かの声によって。
解放した腕がドアノブにかかる。開け放たれたその先にいたのは、睨みつけるシスターと部屋にいるはずのペルデの姿。
「っ……なぜここにいる、ペルデ」
衝動的に怒鳴りかけ、されど抑えきれない怒りが滲む。大きく肩が跳ねようと、盗み聞いていた事実を無かったことにはできない。
今までの話を聞かれていた衝撃よりも胸を占めるのは、自分がしなければならないことだけ。
そして、それができるのは――グラナートから解放された、今しか。
「これはお前が知るべき話では――!」
叱りつける背を突き飛ばす。前へ踏み込んだ足は倒れることはなくとも、塞いでいた扉から離れるのには十分すぎた。
書類も通達も忘れていると気付いたのは、廊下を駆け出してから。だが、もう戻ることはできない。戻ればもう、確かめられなくなってしまう。
「っ……ディアン!」
だから、呼び止める声が背中を貫いても、その足を止めることは……止めるわけには、いかなかったのだ。
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