252.落とし所
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空気が震えるほどの声量。されど、甲高い耳鳴りは滲む高濃度の魔力によってもたらされるもの。
肩を抱くあまりの強さに名を呼ぶことさえもできず、息を呑む間も声は響く。
「戻れというのなら俺だけ戻ればいいだろう! こいつを巻き込むな!」
「それで済むなら私だってそうした!」
肌を刺すのはエルドの怒り。張り上げる声で誤魔化されるのは、そこに滲む不安だ。
この場にいる誰よりも精霊を理解しているからこそ、信じられるはずがないと。そう訴えるエルドに、負けずと吠えるロディリアの声は荒く、強いもの。
「言われずとも分かっている。これまでの仕打ちを考えても信じるには値しない」
「分かってるなら――!」
「……だが、民を守るために他に方法はない」
噛み締めるのは奥歯だけではなく、それしか選べなかった現状にもだ。苦く、重いそれを呑み込むのに犠牲にしたものは決して軽くはなく。
「今のディアンを連れていくのがどれだけ危険なことかっ……!」
「ならば! 関係のない人間が死に逝くのがお前の望みか!」
睨み上げた金の光に、薄紫が揺れる。反論もなく、言葉も継げず。詰まる音は、近くに居たディアンだからこそ届いたもの。
「たった一人のために数万の命を犠牲にせよと、そう命じるのか! 他でもないお前が、この私に!」
人の為にこの地に残り続けた彼に、本気でそう望むのかと、ロディリアは詰め寄る。
女王として。精霊から人を守る最後の要として。これ以上奪われないように、何も犠牲にならぬように。
一と数万など、天秤にかけるまでもない。
それも、言葉だけなら片方に命の危険はなく、されど選ばれなければ大勢は死に至るであろう。
たとえその最悪を免れても、生き延びるには厳しいことには変わりない。
そうだと分かって犠牲にできるはずがない。ロディリアも、そして……エルドだって。
「エルド。……落ち着いて」
それでもと、なおも抗おうとする男に腕に触れ、呼ぶ声はゆっくりと。見つめる薄紫に言い含めれば、僅かに緩む手の力にもう一度囁く。
「っ……だが……!」
「エルド。……もう充分譲歩された後です」
もう一度、今度はディアンからその手を握る。強張った指をほぐすように柔く力を入れれば、もうエルドから言葉は出ない。
もう彼も分かっているのだ。この言い合いに意味がないことも、これがただの八つ当たりであることだって。
それでも叫ぶのは、自分を守ろうと足掻いてくれているから。
その優しさだけは否定してはいけないと、それでももう大丈夫だと、言い含める声はディアン自身が不思議に思うほど柔らかいもの。
落ちる薄紫から、自分を見つめ続ける金へと視線を戻す。一瞬寄せられた眉は、ディアンに無理を強いることへの罪悪感だろう。
それを出してはならぬと、今は消えた表情の中。そこに女王としての矜持を垣間見て、ディアンも背を正す。
「精霊王は、本当に謁見だけでよいと?」
「……誓約こそ交わせなかったが、そう約束いただけた」
答えている本人が、一番それを不審に思っているのだろう。たとえ表に出さずとも、その瞳が何よりも多弁に語りかけてくる。
できることなら、まだ人間であるディアンを精霊界に連れて行くなど、彼女だってしたくはなかったはずだ。
この一ヶ月、最善の道を模索し続けていた。だからこそ、一部の門は継続されたまま、ディアンとエルドの婚姻も一年の猶予を得られた。
……この条件でここまで約束させたロディリアを、これ以上責めることはできない。
「その日のうちに帰れるのでしょうか」
「……確約はできない。だが、人間が精霊界に長く留まるべきではないことは、かの王も理解していること」
エルドの加護の影響で、多少なりとも耐性はついている。だが、それはあくまでもこの空間においてのこと。
先ほどのような圧が、精霊界では常だとすれば……どれだけ慣れたと言っても、ディアンに耐えられるものではないだろう。
かの王がどこまで配慮してくださるか、それはディアンにはわからない。
……だが、すべきことはただ一つ。
「行きます」
「ディアン!」
「精霊王であれば、口約束とはいえ守ってくださるはず。それに……選択肢はありません」
どれだけ鋭く見下ろされようと、僅かに動揺した光を見逃すことはない。
エルドだって分かっている。これが最善で、他に道はないと。それでも認めたくないのだと。
彼にとって唯一の愛し子。己の在り方を曲げてまでそばに居たいと願った存在が、自ら危険な地へ行くという。その感情だって、ディアンは理解している。
もし逆の立場であれば、泣きすがってでも止めただろう。
どれだけ危険だと言われても、それは言葉で伝えられただけ。その鱗片を幾度か味わったとはいえ、真に理解したとは到底言えない。
精霊王の言葉全てを信じるなんて甘い考えだ。人間と精霊は相容れず、その思考が重なることはない。必ずどこかで歪んでいる。
だからこそエルドは耐えられず、この世界に留まり続けた。いつか婚姻のため戻るとしても、それは決して今ではないと思っていたはずだ。
「だが、」
「それに、結婚する前の顔見せなら人間同士でもあることです」
貴族や王族は政治的な観点から顔も合わせぬまま契ることもあるが、庶民ならその大半が恋愛結婚だ。
両親との顔合わせがあっても何ら不思議ではない。そして、今回はディアンが挨拶に行くだけのこと。そう考えれば、何も怯えることなどないのだ。
「そんな簡単な話じゃ……!」
「エルド」
だが、どれだけ自分を言い聞かせようと、それは虚勢にしか過ぎず。そして、宥めなければならない相手は己ではなく見下ろす彼だ。
名を呼び、目を合わせ。握った手に力を込めて、囁く声は伝わるようにゆっくりと紡がれる。
「僕が、選んだことです」
僅かに見開く薄紫。揺れる光にたまらず頬へ指を伸ばし、感じた温もりに自分の方が冷えていると気付いても笑うことはできない。
ずるいと自分でも分かっている。こう言えばエルドは折れるしかないのだと、そう理解して彼に強いているのだ。
傷付けていると理解している。自分を守るための行為なのに、これは裏切りにも近いことだ。
……それでも、こうしなければ彼は諦めきれず、より苦しんだだろう。
「……ディアン」
囁く声に恨みも怒りもなく、諦めと悲しみの音に胸を刺される。
……それでも、彼がどちらも選べず苦しむぐらいであれば、互いに傷付く方がずっといい。
「それに、あなたが傍にいてくれますから。……ゼニスも」
そうだろうと見守ってくれていた彼を見上げれば、言葉はなくとも同意を示され、もう一度向き直ったエルドから漏れるのは深い息。
全ての感情を呑み込み、吐き出し。それでも消化しきれないことは沈黙が示すとおり。
重々しい感情に比例するように俯いた顔が、再びディアンを見るまでどれだけの時間がかかっただろう。
そうして見つめる瞳は、今にも泣きそうなもので。
「……すまない、ディアン」
締め付けられる胸に、咄嗟に否定しかけた言葉を押し止める。
むしろ謝るのは自分の方だ。だけど、それを伝えるのは今ではないと、同じく見守っていてくれたロディリアへと向き直る。
「謁見はいつになりますか」
「明日の正午、太陽が真上に差し掛かる時だ」
話が早すぎる。否、これはロディリアが期日を明示しなかった結果だろう。
そうでなければ、彼女だってもっと早く告知したはずだ。
……それができなかったからこそ、今、こうなっている。
「こちらでできることは全て整えてある。……明日に備え、今日は休むように」
退室を促され、エルドに背を押されて扉へ向かったのも名を呼ばれるまでの数歩まで。振り返り、見つめた彼女の顔は、辛く苦しいもので。
「……すまない」
「いいえ。……僕が、選んだことです」
繰り返した言葉は、どこまで彼女に伝わっただろうか。
その答えは得られることなく、背後で扉が閉まる音が聞こえた。





