244.彼らの選択 ★
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WEB連載分の区切りが付きましたので、明日から完結まで毎日更新いたします。
なにを、どこで間違えたのだろう。
繰り返される疑問。与えられる断続的な痛み。反射的に動かそうとする腕の先、そこにあるはずの感触は与えられないまま。
包帯で巻かれた丸みに本来あるべきはずの手はなく。この部屋に押し込められて、もうどれだけの時間が過ぎたか。
目を開こうと閉じようと、それこそラインハルトが望まずとも悪夢は蘇る。
己の父が連行される日、サリアナから渡されていたローブを纏って聖国に潜り込んだまではよかった。
断罪の場であればメリアも連れ出されると、そう判断して時を待ったのがいけなかったのか。時間がなくとも彼女を探し出し、そうして共に逃げ出せばよかったのか。
罪人と称しようと、『精霊の花嫁』であるメリアを傷付けるはずがない。そんな思い込みを抱いたことが……そもそもの、過ちだったのか。
助けを求める彼女を救い出すことも、処罰を防ぐことさえもできず。無力なラインハルトの前で、メリアは焼き印を押された。
それだけでも耐えがたいというのに、本来の『花嫁』はあの加護なしだったという。
ああ、本当に。これを悪夢と称さずしてなんだというのか。
あいつが『花嫁』ならば、メリアが受け続けた苦しみは。自分が諦めようとした感情は、なんだったのか。
メリアに『花嫁』たれと、そう押しつけたあの男のせいでメリアはなにもかも失ってしまった。
あの愛らしい姿も、『花嫁』としての宿命も。普通の人間としての幸せですら!
どうしても許せなかった。どうしても、あの男に報いたかった。
メリアから全てを奪ったあの男に。それこそ、この命を違えてでも!
怒りにかられようと無策ではなかった。誰も邪魔が入らぬところで息の根を止めるため、帰還用に持っていた魔法具だって犠牲にした。
メリアの救出と天秤にかけてあの男の命を取ったのは、今でなければ殺せなかったからだ。
あの男がメリアを犠牲にし、そうして得た地位で精霊界に召されれば、それこそラインハルトにはどうしようもない。
メリアは最悪、命の保証だけはされる。それがあの憎々しい教会の者によってであろうと、それ以上にラインハルトにはディアンが許しがたかった。
……なのに、彼はまだ、生きている。
自分は腕どころか全てを失い、惨めに生かされたまま。愛する人をこの手で助けることもできず、裁かれる時を待つことしかできない。
胸に抱く憎しみさえ痛みに邪魔される。血を失い冷えていた身体は、その温度を取り戻そうとしているのか、今は脳までその熱に脅かされて思考さえ朦朧としている。
己の首を締め付けた手はもうそこにはないのに、気道が狭まって息苦しい。
だが……何よりもその胸を占めていたのは、愛おしい彼女の声。
――わたしの、おうじさま。
甘く、甘く。囁き、蕩けるあの声。自分ではなく、突如現れた異物に対して彼女はそう語りかけた。
まるで恋する少女のように。彼こそが、待ち望み続けた存在だと、隠すこともなく。
否、隠す必要などない。最初からメリアが求めていたのは……自分では、なかった。
いくら王子と言われようと、彼女は『精霊の花嫁』。
ああそうだ。ラインハルトだって分かっていたはずだ。自分と彼女は、結ばれないのだと。
彼女が『花嫁』でなければ、なんて。ありえない妄想を何度抱いたことだろう。
自分を唯一、本心から認めてくれた彼女と。なんのしがらみもなく生きて行けたら。そんな許されない夢を、何度見てきたことか。
実際にそうだと言われて、喜んでしまって。……だが、結局はこの様。
彼女を苦しめたあの男に報いることも、彼女自身を助けることもできず。彼女の理想の王子でなかったことを突きつけられて。
地位も名誉も、加護も。もはや、ラインハルトに残っているものはなにも無い。
――否、唯一。その胸の底。決して消えることのない、メリアへの感情だけはそこに。
諦めきれない。たとえ離ればなれになろうと、罪人として互いに引き剥がされようと、それでも彼女への想いを捨てきれない。
理想の王子ではなくとも、彼女が求めているのが自分ではなくとも。たとえ、そこに至るまでの過程が勘違いから始まったのだとしても。
あの言葉が。『私の王子様』と、そう告げられたあの声が。これまでのラインハルトを支えてきた全てだったから。
サリアナに比較され、ディアンの実力に脅かされ、周囲の期待に応え続けて。それでも今日まで挫けずにいられたのは、彼女がいたからだ。
諦められない。諦められるはずがない。忘れられるわけがない。
真実を知ってもなお、ラインハルトはメリアを愛しているのだから。
この想いだけは誰にも奪えない。誰も変えることなど、できやしない。
――本当に? と、漠然とした疑問が頭をよぎる。
それは己の声のようにも、他者の声にも聞こえたもの。
甘く囁くような、正気を問うような。もっと意識すれば、それが少女とも大人とも思える女の声と判別できただろう。
だが、ラインハルトに浮かぶのは疑問ではなく確信だ。
愛している。自分はメリアを愛している。そう強く意識するほどに、問いかける声はより鮮明になる。
――彼女はあなたを愛していないかもしれないのに?
浮かぶ否定。愛していないかも、なんて。実際にメリアは自分を愛していない。
彼女が求めたのは精霊だ。彼女が本来嫁ぐはずだった、顔も知らぬ存在。自分がその代替に納まることはない。
たとえ誤りであったとしても、彼女は最後まで『精霊の花嫁』だったのだ。
そんなメリアだからこそラインハルトは愛した。愛してしまったのだ。
――全てを捨てなければいけないとしても?
あまりの愚問に、もはや笑みさえ出ず。
地位も名誉も、未来も、もうラインハルトの中には何一つだって残っていない。
仮に彼女を助け出せたとて、この身体では彼女をろくに守ることもできないだろう。最悪は二人で野垂れ死ぬことになる。
自分ではメリアを幸福にすることはできない。分かっている。ラインハルトは分かっている。
……それでも。否、だからこそ。もう彼女しかないのだ。
彼女との想い出。かけられた言葉。彼女自身。メリアさえいれば、もうあとはなにもいらない。
ずっとずっと求めていた。彼女だけを求め続けていた。
メリアさえそばにいるのなら、他になにを差しだしたって構わない!
愛している。愛しているのだ。ラインハルトは、メリア・エヴァンズを、愛している!
途端、光が満ちる。それは比喩でも幻でもなく、実際にラインハルトの視覚を奪うほどの洪水。
まぶたを伏せても押し寄せる白の中、甲高い耳鳴りに混ざって聞こえる声がようやく自問自答でないと気付く。
『素敵。ああ、とっても素敵だわ』
うっとりと微睡むような、恍惚するような。
柔らかく、優しく、そして温かな声は喜びに満ちている。
これこそが自分が求めているものなんだと。それこそが、見たかったものなのだと。
『なら、私が助けてあげる。ここから先はあなた次第。大丈夫、彼女を思うその気持ちがあるのなら、きっと乗り越えられるわ』
だから頑張ってねと。ラインハルトの意思を聞くことなく、声も光も遠ざかる。
その正体も、意図も分からぬまま。ようやく目蓋を開いて……まだ、その夢が続いているのかと疑ったのは、そこが今までいた部屋ではないと気付いたから。
「……おにいさん、だあれ?」
横たわっていた身体はいつのまにか立っていて、ベッドに座っている存在を見下ろしていた。
見慣れない黒い髪、きょとんと見上げる同色の瞳。鼻先から広がるそばかす、荒れてしまった肌。
だが、そう問いかける声だけは……それだけは、メリアのまま。ラインハルトの愛した彼女のまま。
これは夢なのか。いよいよ幻を見ているのか。もう二度と会えないと思った彼女は目の前にいて、自分を見上げている。
「わたし、メリアっていうの。おにいさん、王子さまをしらない?」
動揺するラインハルトに対し、問いかける少女のニコニコとした笑みは、なにも知らぬ無垢なまま。
「わたし、『花よめ』だから。せいれいの王子さまとけっこんするのよ」
「……しって、いるよ」
絞り出した声は、あまりに小さく情けないものだ。
そう、知っている。彼女はずっと……ずっと、それを望み続けていたのだから。
たとえそれが勘違いだったとしても、それが周囲による押しつけであっても。彼女もそれを望んでいたのだから。
「王子さま、ずっとまっているのに、おむかえにこないの。どうしてかなぁ」
早く会いたいのにと、そう呟く彼女にラインハルトの反応は目に入っていないのだろう。
それは今までも、そしてこれからも同じ。メリアがラインハルトを愛することはない。
……それでも、彼女を愛した男はその手を伸ばす。共にいるために。彼女のそばに、いるために。
「……それなら、こっちから迎えに行こう。一緒に探してあげるから」
見上げる瞳は、緑ではなく黒。大きかった目は面影もなく、造形なんて一つも重ならない。
だが、その笑みは。喜び笑う顔も、声も。やはり、ラインハルトが愛した彼女のままで。
「王子さまにあえるの? ほんとうに?」
「……ああ」
「うれしい……! ありがとう、おにいさん!」
両手を合わせ、無邪気に喜ぶ少女へ。いつかのようにラインハルトは跪き、微笑む。
「……おにいさんは、ラインハルトというんだ。君なら、ライヒと呼んでいい」
「……らいひ?」
パチパチと瞬く黒。そこに映る男の悲しげな笑みは、満面の笑みによって細まり、見えなくなる。
『うん、よろしくね! ライヒ!』
その光景は、最初に出会った時と同じ。いつかの記憶の通り。
「――うん、よろしくね! ライヒおにいさん!」
手は重なっても、その答えだけはどうしても重なることはなく。
二つの手は、やがて光に呑まれて見えなくなった。
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