240.束の間の安息
「ここにいたか」
思考に沈みきっていたディアンを引き戻したのは目の前で奏でられる水音ではなく、後ろからかけられたエルドの声だった。
聖水の源流、その泉の淵に腰掛けたまま。視線は像から後ろへ流れ、探すまでもなくその姿を捉える。
緑の溢れる空間も、天から降り注ぐ星の光も、ここに来てからすっかり見慣れてしまった。
どれだけこうしていたか。冷えないこの場所で知ることは難しくとも、きっと探しに来るほどには呆けていたのだろう。
月の傾きで朝が近づいていることを知っても、それがディアンの心を落ち着かせることはない。
眠気が来るにはほど遠いと、浮かべた苦笑に隣に並んだエルドがつられるのを見ても、それは同じ。
「……どうにも落ち着かなくて」
サリアナたちの一件から何時間も経っているのに、寝ようとすればするほどに考え込んでしまい、逃げるように部屋を出てからどれほど経ったか。
一連を見た者がいたなら、それこそ彷徨い歩いているようにしか思わなかっただろう。
最後に辿り着いたこの場所でさえ考え込んでしまったのだから、もうなにをしても無駄だったかもしれない。
それこそ、こうしてエルドと会うまでは、きっと。
「色々あったからな、無理もない。……ディアン」
予測できたことだと笑うエルドの顔から笑みが消え、僅かに薄紫が逸れる。その一連が示す意味も、もうディアンは覚えてしまった。
「……俺の妹が、すまなかった」
エルドにとっては妹だったのか、なんて今更認識する程度には現実から目を背けようとしているのか。あるいは、これ以上考えたくないという防衛本能だったのかもしれない。
この一件の、全ての元凶。洗礼を待たずしてメリアに加護を与え、既に他の精霊の加護を賜っていたサリアナに力を与えた張本人。
数多くある精霊記の中でも、様々な逸話のある愛の精霊。
……そして、いつか自分も出会うこととなる存在。
「フィリア様は、どんな方なんですか」
眉間の皺が濃くなり、ぐ、と息の詰まる音が聞こえる。
僅かな静寂は数秒にも満たず、吐かれた息は説明の手間ではなくその人物自体を思い出すのも嫌だと表すもの。
「端的に言えば狂っている。昔からそうだったが、付き合いの長い俺やデヴァスさえ奴の思考は理解できない。それは生み出した精霊王ですら同じだ」
「オルフェン王でさえも?」
「咎めても、愛とはそういうものだという一点張りでな。だというのに俺らの中でも一際強い力を宿しているせいで、抑えようとしても気付けばなにかしらやらかしている。奴の暴走を止められないのもそのせいだと言えば簡単だが……それは単なる言い訳にしかならない」
首を振ったところで苦い思いは振り払えないし、起きてしまったことは元には戻らない。
それではやりたい放題ではないか、と。文句を言ったところで当事者には届かないし、受け入れてもらえないだろう。
精霊の思考は人間には理解できないものだ。エルドがこちらに理解を示してくれているのも、それは長年人間を見守り続けてきた彼だからこそ。
露見していないだけで他にも理不尽を強いてきた精霊は多数いるだろう。わかり合える、ということ自体がそもそも難しいのかもしれない。
「お前の妹の件も、あの王女の件も。気付かなかったのは精霊側の不手際だ。……本当に、すまなかった」
繰り返される謝罪に、ディアンは首を振るだけ。
もう全ては終わったことだ。たとえその過程がどれほど理不尽で、人間にどうすることができなかったとしても、それでエルドを責めることは違う。
謝罪ならもう十分過ぎるほど聞いた。あとは、その結果をディアンが受け止めるだけ。
「父さん……いえ、ヴァン・エヴァンズはどうなりますか」
「この一連の事件は、ノースディアに限らず他国にも公表される。加護の制御までは至らないが、今までの身分は剥奪され罪人として名を刻むこととなるだろう。ギルド長としてはおろか、普通に生きていくこと自体厳しいだろうな」
「……それだけ、ですか?」
「何度も繰り返すが、この一件には精霊側の不手際もある。お前にした仕打ち全てがメリアの影響でなかったとは言いきれないが……極刑に至るまでではなく、かといって無罪というわけにもいかない。収容所送りが妥当だろうな」
この場合の収容所とは、重犯罪人が送られる……それこそ、ダガンたちと同じ場所で合っているだろう。
生涯ということはないだろうが、釈放されたところで前と同じ生活は望めない。その名は英雄ではなく、犯罪者として永遠に残ってしまうのだ。
それが軽いとは思わないし、それだけのことをしたのだって事実だ。
たとえ、ずっと先の未来で、彼の功績すらも忘れ去られてしまったとしても……それは、仕方のないこと。
「ダヴィードも同じく、王座は引き渡されることになる。とはいえ、ラインハルトにも償うべき罪があり、継承権は剥奪となる。正式に次が決まるまでは、教会が援助を行うことになるだろうな」
ペルデを監禁したことも、サリアナの異常に気付きながら報告しなかったことも、教会からすれば同じ罪。
今もノースディアで謹慎されている彼は、事実を知りどう思うか。
ダヴィード王のことも、サリアナのことも。何より、メリアについて。
同一人物とは認識できないだろう。目の前で見ていたディアンでさえ、未だに信じられない。
だが、あの黒髪も黒目も、加護を封じられたのではなく本来の彼女の姿。今までが歪められていたのだと、受け入れるのには時間がかかるだろう。
「……メリア、は」
「彼女の脅威は、加護があってこそ成り立つもの。母親も虐待の罪で投獄されるし、罪人とはいえ未成年を放置するわけにはいかない。今後のことは教会が支援する予定だ。……洗礼を迎えた後は、それこそ本人次第だろうが」
無意識に、息が漏れる。それは意識していなかった母の今後についてでもあり、メリアの生活が保障されたことでもある。
加護だけではなく、今までの生き方さえも失ってしまった彼女に、今後の生活は辛いものになるだろう。
『精霊の花嫁』ではなかったと、衆人からの視線も耐えがたいものになる。
教会の反感を買った者を娶る可能性は低い。しかし、今のメリアに職に就けるだけの器量はない。
彼女がどこまで変われるか。それは、エルドの言う通り、彼女自身の選択にかかってくる。
たとえ明るくはなくとも、彼らにはまだ未来がある。……だが、残る一人は。
「サリアナについては、教会ではなく精霊……というより、アケディアの裁量によって今後が決まる」
問う前に答えられ、動揺するよりも困惑が勝るのは想定していなかった名が紡がれたからだ。
「アケディアの? ……なぜです?」
「今回の件で一番被害を受けたのはあいつだからな。失った妖精の数も把握しきれないし……」
「もしかして、彼女の本来の加護は妖精に関わるものなのですか?」
名前に反応したのか、周囲を飛び交う妖精たちがディアンを見上げ、そうしてまた自由に去っていく。今の反応だけでも答えと同じだが、確信は瞬く薄紫によって。
「あー……厳密には違うが、こいつらを管轄していたという意味ではそうだな。とはいえ、アケディアの怒りは相当だ。人としての死は望めんだろう」
当然の報いだと、口にせずともその目は語る。精霊にとって妖精は、あまり重要ではない存在と思っていたが……それでも、傷付けられて許せるほどは薄くないらしい。
その辺りの話も、また今後習っていくのだろう。だが、今気になるのはそれではなく、あの銀色のローブについて。
「……あれが、その。彼女たちの一部で作られているとはいえ、どうして僕には姿が見えたんでしょうか」
船での一件はまだ記憶に新しい。
普通の人間には見えず、そして精霊の目にも見えにくいとされたもの。
唯一ディアンだけが認識できたからこそ、あの時ララーシュを守ることができたと説明してくれたことだって。
「簡単に言うなら認識の違いだ。今なら分かると思うが、そこにいるのが当たり前になってくると意識しなくなるからな。俺らにとっては景色と同じでも、あの時のお前は見えているけど見慣れていない状態だった。だから違和感に気付くことができたってわけだ」
言われてから、改めて彼女たちの姿を探す。確かに、ここに来てからはずっと姿を目にしているから、いちいち目で追うこともなくなってしまった。
トゥメラ隊に言われた雑踏という例えにも納得する。数多くの存在の中で、一々個を認識するのは難しい。
それが、たとえ彼女たちとは明らかに違う等身だろうと……それはきっと、無意識に。
人間にも精霊にも気付かれない道具。その存在も、製造方法もおぞましいものだ。
そんなものを作って、アンティルダはいったいなにを企んでいるのか。それこそ今わかることではなく、そしてディアンが介入できることではない。
それでも、そうなるに至った原因に自分が関係していることは間違いなく。吐いた息に、視界に入った指先が僅かに動くのを見る。
見上げた薄紫。その感情を表す眉が下がるのを見て、自然と笑みが浮かぶのはその不安を少しでも和らげたいからこそ。
「後悔はしていません」
「……顔に出てたか」
「そう言いたくなる程度には、ですけど」
次はエルドが息を漏らし、うなじをさする。そこまで露骨だったかと恥じるような、悔やむような。
なんとも言えぬ表情に、伸ばした指はためらうことなく彼の手へと重なる。
「たしかに、なにか一つでも違えばここまでのことは起きなかったかもしれません。サリアナ殿下がフィリアに力を賜ることなく、メリアが『選定者』になって、僕は自分の意思で騎士になると決意して……父さんに認められた未来になっていたかもしれません」
想像するにはあまりにも難しい光景だ。誰も傷つかず、誰も犠牲になることなく、皆の願いが叶った世界。
ここに至るまでに正しい方向に戻されれば、あり得たかもしれない未来。
それはかつてのディアンが夢見て……そして、今はもう望まない場所。
「でも、僕にできることは全てしてきました。最後には逃げ出してしまいましたが、それでも、僕がしてきたことが間違っていたとは思いません。あの時に戻れたとしたって、僕が選ぶのはここです」
サリアナの騎士でも、皆の認める英雄の息子でもなく。エルドの隣なのだと。
きっとこれからずっと、それこそ何年も今日のことを思い出してしまうだろう。
これまでの人生を、選ばなかった道のことを。
忘れ去るにはあまりにも深く刻まれた痕は、それでもいつかは消えるはずだから。
「僕は弱いから、またあなたを不安にさせてしまう。だけど……どうか、信じてほしいんです。あなたと生きると願った僕を」
いつかその日が来てしまっても、そうならないように願う自分を。あなたを選び、選んだ存在を。
そう見上げる紫の頬へ添えられる手は、やはり柔らかく、温かい。
「……ほんと、情けねぇな」
吐いた息は、己自身に向けて。そう愛しい相手に言わせてしまった、自分の不甲斐なさに対して。
「信じている。……だが、俺はお前に無理をしてほしいとも思っていない。お前と分かち合いたいのは喜びだけではなく、その苦痛もだ。無理に昇華することはない。お前がそう思ってくれるだけで、俺は満たされている」
親指で目元を撫でられ、もう一度手を重ねれば、身体ごと引き寄せられて抱きしめられる。
温かな腕の中、背を撫でる手に込み上げる感情に、ディアンもまた満たされていく。
ああ、やはりここが。自分が居たいと望むのは、ここなのだと。
「ゆっくりでいい。……ありがとう、ディアン」
そっと腕を回し、抱きしめ返した後。差しだされた手を握ればそのまま引かれて立ち上がる。
今日はもう遅いから寝るべきだと、そう笑うエルドに同じくディアンも笑い返し、進む足取りは来る前に比べてあまりにも軽く、胸の中は温かく。
浮かれていた、と言えば否定はしない。
気持ちが楽になったことにくわえ、もう問題が起きないなんて慢心があったことだって。
だとしても、それは決して言い訳にはならない。先ほども伝えられたばかりではないか。
――それは、今のディアンにも見えにくいものであると。
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