237.理想の未来
初めて力を使ったのは、そのすぐ後のこと。
ディアンを置いたまま聖国に報告しようとする司祭が、彼女の記憶に残っている最初の犠牲者だ。
混乱に乗じ、関係者しか入れない区域に入るのはあまりにたやすく。動揺した人間の心につけ込むのは、それ以上に容易なこと。
ディアンが加護を授からなかったことを報告されれば、保護という名目で取り上げられてしまうかもしれない。
精霊側になにかの間違いがあったのだと、洗礼のやり直しをされてしまうかもしれない。
ディアンをこのまま自分のものにするには、洗礼のやり直しも、聖国への報告も、考え得るありとあらゆる可能性を封じる必要があった。
今思えば、虚偽の報告をさせるなんて発想も、子どもの考えたその場凌ぎ。当時はサリアナも必死で、それ以外に思いつかなかった。
実際、ディアンが加護を授からなかったことは知られてしまったが、ディアンが取り上げられることはなく、彼女は幸せな日々を過ごすことができた。
今までと同じ、だけど明らかに変わっていた世界。
ディアンが自分のものになるという確信。それを揺るぎないものにするための努力は惜しまなかった。
いくら天才と呼ばれたサリアナでも、当時はまだ幼い少女。本来なら聖国の助けを借りてようやく制御できる力。
だが、それはディアンを繋ぎ止める力を失うことと同義。己のものにするまで膨大な時間がかかってしまったが、その価値は十分にあった。
……しかし、得られたのは利点だけではない。
人智を超える力に危機感を覚えたダヴィードが、あろうことかアンティルダとの婚約を結ぼうとしたのだ。
聖国と対をなす、死の国とも呼ばれる遠方の地。精霊の加護の届かないあの場所へ、サリアナを遠ざけようとしたのだ。
それは、継承権をもつラインハルトとの派閥を恐れたからか。由緒正しく続いた、男による王政を危ぶんだからか。
あるいはそのどちらでもあり、『正しい王』の姿に固執した父親が絞り出した解決策だったのかもしれない。
幼いサリアナでも分かるほどに、ダヴィードはそれに恐れていた。王として相応しくないと囁かれることを。民から見放されることを。
今でこそ英雄と呼ばれているが、その経緯だって失望されることを恐れた故の行動だ。民のためと大義を言いながら、結局は自分自身の為。
結果的に世界は救われても、根本たる恐怖は拭えない。無事に王となった今、ダヴィードが保ちたいのは変わらぬ王政。変わることのない平和。
そこに、己よりも優秀な女王が君臨するなどあってはならない。そして、そこに至るまでに起こるありとあらゆる諍いも。
その甘い判断こそが王に相応しくないと、そう囁かれていたことも当人だけは知らぬまま。否、知っていたからこそ、こんな仕打ちをしでかしたのだろうか。
ディアンと引き剥がされるぐらいなら、いっそのこと女王となり国を支配してしまおう、なんて。本気で考えたのはその時だけ。
サリアナがこの婚姻を受け入れ、アンティルダのために尽力するのならばディアンも共に受け入れていい。
彼だけの宮を作り、決して外には出さず。サリアナだけの存在として精霊の目から隠すことに協力すると。そのための力を失わずにすむと。
そんな魅力的な契約がなければ、とっくにノースディアはサリアナの手に堕ちていただろう。
それこそ、実の兄を殺すことだって厭わなかったに違いない。
初見でサリアナの本性を見破り、その願いまで言い当てた男を脅威と思ったのは事実。だが、都合よく使われると分かっていても、それはあまりにも魅惑的な囁きだった。
愛人として連れて行くことは叶わずとも、それは国を出るまでの間のこと。
それこそ、ディアンを自分付きの騎士にすれば連れて行く名目は得られる。後は、彼を頷かせるだけ。
未来は約束され、全ては順調だった。なにも恐れることなどなかった。だって、そうだと信じ切っていたから。
ディアンとの未来を。自分だけのものになったディアンと過ごす幸福を。愛する者との日々を!
彼女の中では、なにもかもが完璧だった。そうでなければならなかった。
だって――そのディアン自身に拒否されるなんて、彼女の計画にはなかったのだから。
『ずっといっしょは、むりだよ』
困ったように下げられた眉。柔らかな否定。それはできないと、叶わないのだと。
現実を理解している少年の言葉が、どれだけ彼女を傷付けただろう。
それが叶うのに。彼さえ望めば一緒にいられるのに。それを望んでくれないという事実は、あまりにも受け入れがたいものだった。
どうして。
ディアンは私のものなのに。どうして、彼はそれを拒む? どうして一緒にいてくれない?
彼女にとって初めての挫折。授かった力を使おうと思いつかないほどに、それはサリアナの心を掻き回し、絶望へ叩きつけた。
どうして、どうして、どうして。
泣きながら問いかけ、一緒にいてほしいと訴えて。それでも頷いてくれないディアンに、ますます彼女は喚き問い詰めた。
一緒にいてほしいのに。ただそれだけなのに。ディアンは、私のものなのに!
一度は諦めた彼と一緒に生きていけると信じていたのに。どうして、彼がそう望んでくれないのか!
集まった大人たちに引き剥がされそうになり、いよいよサリアナは錯乱した。
どうすれば彼が頷いてくれる、どうすれば、彼は私と一緒にいてくれる!?
『――ひどいわ、お兄様!』
悲鳴じみた声に、静寂が戻ったあの瞬間。自分を見ていた大人たちの瞳が淀み、揺らぐあの感覚。
サリアナを泣かせるなんて、一緒にいてあげないなんてひどいと。あの時力を授けてくれた精霊と同じ声。同じ魔力で喚く声。
そんなメリアに合わせ、自分を宥めようとした大人たちがディアンを責め始めた時、湧いた罪悪感は一瞬で歓喜に変わってしまった。
メリアの言う通りだと。なぜ言いつけを守らないと。どうして離れようとするのかと。
なじられ、叱られ、追い詰められ。そうして、ディアンは誓った。そう、誓ってくれたのだ。
サリアナに、サリアナだけに。自分の騎士になると、確かにその口で!
ああ、そうだ。精霊はサリアナを見捨てることなく答えを示したのだ。
自分が願っても頷いてくれないのなら、そうするように仕向ければいい。他の手段を奪い、道を整え、示してやればいい。
そう。これこそが、彼を手に入れる手段なのだと!
大人たちがメリアの我が儘を許し、甘やかしている理由が精霊の加護だと知れば、もうサリアナを阻むものはなにもなかった。
少しずつ、少しずつ。それは遅延性の毒のように、じわじわと。メリアに会う度に囁き、導き、そうしてディアンは孤立していった。
ディアンがメリアを叱ろうとすればするほどに、彼女を『花嫁』として扱おうとする度に、周囲は彼を責め立てた。
メリアにとっては自分が楽しいことが普通であり、なんの苦痛もないことが日常。
小言も、勉強を強いられることも、彼女にとっては『ひどい』こと。
メリアも簡単なら、兄であるラインハルトはもっと簡単だった。
剣術大会で負けて以来、彼はディアンにコンプレックスを抱いていた。
サリアナと比べられ、その上同じ英雄の息子であるディアンとも比較され。ちっぽけなプライドとはいえ、彼にとっては耐えがたいことだったのだろう。
力を使うまでもなく、一緒にいる時にディアンを褒め称えるだけで簡単に兄は彼を見下すようになった。
努力しない加護無し。英雄の息子の面汚し。
そうして蔑み、嗤い続けなければ。ディアンが自分より下でなければ、ラインハルト自身が耐えられなかったのだろう。
メリアを好きになったのはサリアナが仕組んだことではないが……それでよりディアンを憎むようになったのは思わぬ収穫だったと言える。
収穫と言えば、ペルデもそうだ。彼にはディアンの誓いに至る一部始終を見られていたせいで警戒し避けられていたが、それも学園という狭い空間では無意味なこと。
少し『お願い』をすれば、彼はなんでも話してくれた。
聖国がディアンについてどこまで勘付いているかを正確に知ることはできなかったが、それでも大いに役に立ってくれた。
本当に。共にアンティルダに連れて行ってもいいぐらいには感謝していたのだ。
……まぁ、ディアンを必要以上に痛めつけた兄への嫌がらせも含めていたので、連れて行った後はアンティルダ側に任せるつもりだったが。
そうして、ディアンのための道は整えられていった。
教会に通うことは止められなかったものの、それ以外は間違いなく完璧だった。
教師たちに隠蔽させるよう指示したのも、ディアンの実力を必要以上に知られないため。他の者が彼を賞賛し、サリアナ以外に目を向けないようにするため。
騎士としての力を備えるためだと囁けば、ヴァンはすぐに納得した。ダヴィードがそれに頷いたのも、サリアナがディアンを求めていると知っていたからこそ。
彼女がアンティルダに行くのなら手段は選ばなかったのだろう。
たった一人、ディアンを犠牲にするだけでそれが叶うのなら、ダヴィードに躊躇う理由はなかったはずだ。
とはいえ、負荷魔法までは少々やり過ぎたかもしれない。だが、全てはディアンのために行ったこと。
苦悩し、努力し、それでも報われず。嗤われ、蔑まれ、それでも挫けずに立ち続ける姿。
ああ、なんて可哀想で……なんて、愛おしい姿だっただろう。
自分の父に褒められることもなく、妹の待遇に悩みながらもどうすることもできず。分不相応だとなじられ、それでも諦めない彼のなんと、美しいことか。
彼の本当の姿を知るのは自分だけでいい。自分だけがいい。誰も気付かなくていい。
ああ、それでも犬まで奪ったのはいきすぎていたかもしれない。
それでも……やっぱり、彼の笑顔を見られるのは、自分だけがよかった。自分だけでよかったのだ。
私が。私だけが。私だけのディアンなのだから!
だって、彼もそう望んでくれた! 騎士になると誓ってくれたのだから! 私の傍にいるのだと、あの日に!
メリアの洗礼を阻止したのも、ディアンを精霊にとられないようにするため。
安全性を主張し、王城で洗礼を行うようにして。あとは、少し囁くだけでよかった。
せっかくのお洋服を、汚さないようにと。
たったそれだけで、サリアナの目的は達成されたのだ。
ディアンのための居場所を作るため、アンティルダとの関係も築けていた。
彼らが求める材料は、それこそ自分の部屋にいても簡単に集まるもの。
妖精の羽が存在感を薄める効果があると突き止めたのもサリアナ自身だ。
本来なら人間が扱えるものではない精霊門の製造もまだ実用的ではないが、彼女の力がなければ実現しなかったもの。
なにもかも順調だった。彼のための場所は、彼の努力は、もうじき叶えられるはずだったのだ。
……まさか、その最後の日に自分の元から離れようとするとは。
もうあと少し、ほんの数時間のこと。
誕生日を迎え、最後の洗礼を阻止さえすれば、彼は晴れて騎士になれたのに。ようやく彼の望んだ場所へと導くことができたというのに。
だが、それも騎士に相応しくないと思い詰めてしまったが故の行動。そうだと分かって、ディアンを責めることはできない。どこまでも努力家で、だからこそ愛おしい。
生きていることは、ペルデに聞かずとも分かっていたこと。
追跡魔法をかけていたブローチもそれを示していたし、そうでなくとも彼が約束を破るはずがないのだから。
とはいえ、聖国に行こうとするのだけはさすがの彼女も焦り、対応が後手に回ったのは事実。
ギルドの指名手配書の偽装も、アンティルダへ協力を要請して先に連れて行ってもらうのも失敗し、そうして……こうして迎えに来たというのに、それすら失敗してしまった。
なにもかも完璧だったのに。本当に、あともう少しだったのに。
あのままディアンと共に門をくぐり、アンティルダに着きさえすれば、もう誰も自分たちを邪魔するものはいなかったのに!
だけど、まだ間に合う。
彼は私がここにいると知っている。ディアンは私を待っていてくれている。
私との約束を果たすために、私の騎士になるために! そのためにずっと努力し続けた、そのためにずっとずっと頑張ってきてくれた!
私の、私のために。私だけのために!
ああ、ディアン。ディアン、ディアン。ディアン!
――私だけの、愛しい人!
「ディアン・エヴァンズはすでに精霊と契りを交わしている」
ブクマ登録、評価、誤字報告、いいね等。いつもありがとうございます!
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。





