236.サリアナ・ノースディア
サリアナにとって、この世界はあまりにも空虚なものだった。
人々は月と魔術の精霊から加護を賜ったからこそ天才だともてはやしていたが、実際にはもっと前。それは彼女が物心ついた時からその兆候はあった。
並外れた記憶力。幼子とは思えぬほどの魔力。頭の回転も速く、実際にサリアナについていた教育係も驚くほどに、彼女はあまりにも優秀すぎた。
男であればと、何度そう嘆かれたことだろう。あるいは、女であったからこそ余計な派閥が生じずにすんだと安堵されたことか。
明瞭な頭脳に、恵まれた美貌。今でこそ思い出話となっているが、当時の唯一の欠点は、全く笑わなかったことぐらいだ。
本も、教育も、魔力の制御も。数度見れば大抵を理解できたサリアナに苦労という文字はなく、同時に、なにも夢中になれるものがなかった。
教育で身に付けた愛想笑いこそ完璧であったが、心から楽しくて笑った経験は、彼女が覚えている限り一度も無い。
それが当然だと思っていたし、そういうものだと受け入れていた。そもそも楽しいという概念が分からなければ、疑問を持つのは難しいものだ。
与えられるものを、与えられただけこなす。覚えなければならないこと、知らなければならないことを、決められた通りに。
何かが欠けているとも思わなかった。必要なものは全て与えられ、求めるものなどないと思っていた。実際、その日まで彼女は完璧であったのだ。
あの日を迎えるまでは。彼と、出会うまでは。
ああ、そうだ。今でも彼女は鮮明に思い出せる。
父の旧友だと言う男の訪問。それまで幾人もの貴族に令息に引き合わされてきたが、その誰とも違っていた。
緊張し、たどたどしく震える挨拶。男の息子と名乗りながら、全く似通わぬ黒髪。なにより、サリアナを真っ直ぐに見つめる瞳を。
忘れるはずがない。忘れられるわけがない。
あの時、あの瞳に見つめられた瞬間。灰色だった世界は、ようやく色を与えられたのだ。
それはもはや予感ではなく本能。衝動は全身を駆け抜け、初めて鼓動を得たとさえ錯覚した。
なぜこの身が震えるのか、どうしてこんな感情に襲われているのか。
初めての疑問は、共に連れてこられたメリアが『精霊の花嫁』と紹介されたことで理解し、同時に混乱した。
……彼らはなにを言っている?
確かにその外見も、与えられた魔力の強さも、ただの人では得られないものであった。メリアだけを連れてきたなら、サリアナも納得しただろう。
だが、彼女は気付いている。気付いてしまった。
理屈も理由もない。それでも確信したのだ。
選ばれるべきは彼であり、妹ではないことを。この目の前にいる彼こそが、精霊の伴侶になる存在なのだと。
そして……自分に必要なのは、まさしく彼自身であるということを。
ディアンと出会い、サリアナの世界は一変した。
彼のことを考えるだけで心が弾み、別れを考えるだけで胸が締め付けられる。
大人たちのどんな賞賛よりも彼の一言の方がずっとずっと嬉しくて、それだけで光に満ちあふれた。
いっそ知らなければよかったと恨みを抱いたことだって。だが、それ以上にディアンの存在はあまりにも大きすぎたのだ。
年相応の反応を見せる彼女を、周囲は微笑ましく見守っていた。
甘酸っぱい初恋。幼い頃の記憶として、いつかは笑い話となる。そう大人たちは笑っていたが、実際はそんな微笑ましいものなんかではない。
もはや、彼のいない人生など考えられない。彼さえいれば、他にはなにもいらない。彼のためならなんだってできる。
そんなおぞましい感情も、所詮は幼子が初めて抱いた独占欲。いつかは諦めと共に昇華されるはずだった。
実際、サリアナ自身も理解していた。
大人たちは気付かずとも、ディアンはいつか伴侶となる存在。洗礼を迎えたその日に、彼は精霊の元へ嫁ぐために自分の傍から離れていく。
そうでなくとも自分は王女であり、ディアンは平民。本来なら存在すら知ることのなかった二人が出会えたのも、英雄としての繋がりがあったからこそ。
いつかは離れてしまう。もう二度と、会えなくなってしまう。
それでも、それはよい思い出になるはずだった。長い年月をかけ、摩耗し、そうして過去となるはずの感情と想い。
その日が来たとしても、彼を想いながら生きていくのだと。この記憶を胸に過ごしていくのだと。
サリアナにはそれができた。できるはずだった。そうしなければならなかった。
――あの洗礼を、目の当たりにするまでは。
ディアンが伴侶だと知られ、そうして引き剥がされると諦めていたあの日。
いつまでも宣告しない司祭の強張った顔も、見守っていた周囲の困惑も。跪いたまま不安そうに見上げるディアンの表情も。
あの時に感じた高揚感だって……全部。彼女は覚えている。
恐れていた光景はどれだけ待っても訪れることなく、司祭の呟いた言葉で広がる動揺にあの黒が滲む姿だって、今でも昨日のように思い出せる!
加護を授からなかったと。英雄の息子は加護なしなのだと。精霊から見放された存在なのだと。心ない言葉にディアンがどれだけ傷付いたことか。
そんなはずがないと、彼こそが伴侶になるのだと。そう叫び訂正すれば、きっと何かが変わっていただろう。
いいや、たとえ王女であろうと当時幼いサリアナの声に誰が反応したというのか。
それでも、彼を庇うことはできたはずだ。何かの間違いだと、やり直しを求めることだってきっとできた。
だが、そうしなかった。できなかったのではない。サリアナは明確に、そうしたくないと望んだ。
この世界の生き物は、例外なく精霊の加護を授かる。それは全ての命が精霊の元に還るからだ。
命ある者はすべて精霊のもの。それは己の腹から産んだ子であろうと変わることはない。
血が繋がろうと、婚姻を結ぼうと、その根本を覆すことはできないはず。
だが、ディアンは伴侶に選ばれなかった。それどころか、加護すら授かることはなかった。
それは、精霊が彼を手放したことも同然。今まさに、彼は誰のものでもないと証明されたのだ。
……ならば、彼を私のものにできる?
諦めかけていた感情が息を吹き返す。疑問は光となり、そうして世界を眩しく照らしてサリアナに道を示した。
そうだ、精霊のものでないのなら。誰のものでもないのならば、私のものにできる。私だけのディアンにできる!
『彼がほしいのね?』
どこかから響いてくるのは、少女のようにも、美女のようにも聞こえる囁き。
耳の後ろ、正面、頭の中。木霊する甘い甘い誘惑に、サリアナは無意識のうちに答えていた。
ほしい。ほしいのだと。彼がいなければ生きていけないのだと。
精霊さえも手放したのなら、私がもらってもいいはず。だから、彼を手放してはいけないのだと。
『彼を愛しているのね?』
頷くことはできずとも、そうだと肯定することはできる。
愛している。いいえ、そんな言葉では到底片付けられない。そんな感情では収まらない。
耳鳴りがサリアナを支配する。今思えば、それは本能からの警鐘だったのだろう。
聞いてはいけない。受け入れてはいけない。その衝動に従ってはならない。
だが、サリアナはその声を払いのけることができなかった。否、聞かなければならなかった。
それこそが彼女にとっての救いの手。彼との未来を掴むために得なければならない光そのもの。
『なら、私が力を貸してあげるわ。私があなたを愛してあげる。可愛い可愛い――私の、愛し子』
愚かだと、哀れだと、仕方ないと。だからこそ、愛おしいのだと。だからこそ、手を貸さずにはいられないのだと。
顔も見えぬ存在がわらう。その羽のような吐息を感じたのは、ほんの一瞬。
目の前が、世界が、全てが回り、狂い。覚えた吐き気もすぐに歓喜の底に沈む。
今までとは違う、己の中に渦巻く魔力の感覚。
一つ、二つ。瞬き鮮明になった世界で。戻ってきた喧騒の中で。絶望するディアンの顔を見て、彼女は全てを理解した。
自分が二人目の精霊に加護を賜ったことを。自分が愛し子として選ばれたことを。
――そして、ディアンが自分のものになったことも。
もうなにも諦めなくていいことを彼女は、理解してしまったのだ。
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