22.訪問
夜になっても、王都は光に溢れている。
昼にしか営業しない店もあるが、夜にこそ本領を発揮する店のだって多い。
酒場や食堂、ギルド員や兵士の憩いの場。笑い声にグラスをぶつけ合う音、歌や踊りも聞こえ、その賑やかさは日を跨いでもまだ終わらないほど。
道行く足取りはどれも穏やかだ。
……ただ一人、その光に照らされながら駆け抜けていくディアンを除けば。
肩に提げていた荷物はどこへいってしまったのか。持っているのは隠されていた成績表と、差しだされた王家の書簡。断りもなく持ち出した罪悪感など、掻き混ぜられる感情の中に存在しない。
店から出ようとした誰かとぶつかりそうになり、慌てて避けても怒号は容赦なく浴びせられる。
謝らなければと、そう分かっていても足は止まらない。まだ止めてはいけない。
学園からずっと走り通した足は疲れ、肺は限界を訴えている。掴んでいる書類は汗に濡れて、いつこの手から滑り落ちてもおかしくはない。
酸欠で頭が飽和し、ろくに考えることだってままならず。それでも、もはやディアンの意思では止められないのだ。
水の音が近づき、目的地が近いと知った身体が広間に躍り出る。そんな姿を見た誰かが指を指し、いつものようにディアンがいると囁き合う姿など目にも入らない。
視線は東へ。暗がりの中、周りの光にうっすらと照らされる目的地を――教会を見上げ、躓きながらも走り続ける。見やった扉は閉ざされていたが、他に入り口があることをディアンは知っていた。
正面から左へ、そのまま大きく回って裏側に。途端、人影のなくなった通路を走り抜けて、やっと足が止まる。
「っ……ま、せ……! すい、ません!」
叩きつける拳こそ強く、されど叫んだ声はあまりにも聞き苦しい。呼吸が追いつかずに屈みそうな身体を叱咤して、膝に付きそうになる手は扉にしがみ付いたまま。
「し、さい、さま! グラ……ット、司祭、さま!」
何度も、何度も。叩きつける扉が開く様子はない。当然だ、本来ならここから来る訪問者などいないし、通るとしても教会の者以外は許されない。
礼拝時間はとっくにすぎている。普段からここに寝泊まりしているとはいえ、グラナートがいるとは限らない。
もう休んでいてもおかしくない時間だ。迷惑だとも理解している。いくら司祭様でも許してはくれないだろう。
それでも、ここに来なければならなかった。彼でなければ答えられない。彼でなければ、聞けない。
成績を秘匿していたのが本当に王家の命であるなら、サリアナに聞くわけにはいかない。その命令が下されていたことを知っていようと知らなくとも、ディアンにとっていい結果にはならないだろう。
彼女自身が関与している可能性は低い。いや、低いと思いたい。だからこそ、確かめることはできない。陛下に直接伺うなど論外だ。
陛下をよく知る人物。そして、自分の話を聞いてくれる相手。そうなれば……もう、グラナート司祭だけだったのだ。
彼しか頼れる人がいない。父親ではだめだ、証拠を見せたところでまともに話も聞いてくれないだろう。
ああ、違う。そうだという予感が当たってほしくないから、ここに逃げてきただけだ。
臆病者の意気地無しめ! 責める声が木霊して、頭が今にも割れそうだ。その痛みよりも強く、強く扉を叩き、叫ぶ。
「お願いします! 司祭様……っ、グラナート様!」
このままではディアンの拳より自分が割れてしまうと、耐えかねた扉がやっと開く。
見上げた視線。だが、そこにあったのは同じ茶でも異なる色。違う瞳。しかめられた顔。求めていた姿はそこにはなく……ディアンを見下ろしているのは、ペルデだった。
「……こ、こんな時間に、なに」
迷惑だと、その表情は隠そうともしない。いきなり裏口から怒鳴る声が聞こえていればそう思うのも当然。それが嫌っている相手だったなら余計に。
ただでさえ狭い扉は最低限の隙間しか空けられず。些細なきっかけで簡単に閉ざされてしまうだろう。
見上げながら足先を忍ばせ、息を整える。まだ呼吸は苦しい。だが、伝えなければならない。言わなければ、ならない。
「夜分、に、すまない……っ司祭様に、話が……!」
「……もう開放時間は過ぎてる。こ……こっちに来られたって、困るよ」
帰ってくれと、閉められる扉を自身の足で塞ぎ、指も割り込ませる。
そこまで強引に入るとは思っていなかったのか、見開かれた瞳が大きく揺れるのを見ても引くわけにはいかない。
「迷惑なのは分かっている! だが、どうしても聞かなければならないことが……!」
「っ、騒がないで! ……父さんはここにはいないんだ。い、いくら言われたって、会えないよ」
背後から殴られるような衝撃に、身体が崩れ落ちそうになる。
司祭様がいない。予想していなかったわけではない。だが……よりにもよって、今日とは。
「そんな……っ、どこへ向かわれたかだけでも教えてくれ」
「きょ、教会の関係だ。部外者には教えられない」
「頼む、ペルデ! どうしても聞かなければならないんだ!」
扉に力がこもる。靴に守られているとはいえ、挟まれた爪先の痛みは耐え難い。それでも閉じさせるわけにはいかない。どうしても、どうしたって!
「ペルデ――!」
「迷惑だって言ってるだろ!」
彼もこんな声を出せたのかと、驚けなかったのは指先に感じた強烈な熱さのせい。赤い光に目が焼かれ、魔法で火を放たれたと理解したのは仰け反った後のこと。
目の前で扉が閉まる。握り締めた拳の中、焦げた指先の痛みに呻いても、諦めるわけにはいかない。
今しかない。今でなければいけないのに。明日では手遅れなのに!
「ペルデ! お願いだ、司祭様と話をさせてくれ!」
叩きつけた拳に返る言葉はない。だが、まだそこにいるはずだ。まだ、聞いているはずだ。
どうしても諦めきれない。今を逃せば全てが有耶無耶になってしまう。なかったことになってしまう。
この違和感を失ってはいけない。この疑問を、わからないまま放置してはいけない!
なにかが、もう少しでなにかが掴めそうなんだ! ずっとわからなかった答えが、ずっと抱えていた感情の答えが、やっと!
ずっとずっと探し求めていた答えが、そこにあるはずなのに!
「ペルデ――!」
振り上げた手が宙を切る。それはディアンの願いが届かなかったからではない。
叩きつけるはずだった先。……その扉が再び、開いたからだ。
勢いを殺せないまま、拳がなにかに受け止められる。思わず見上げた先の、赤い光に浮かぶのは恐怖ではなく、安堵。
「し、さい、さま」
叫び疲れた声は掠れ、とても呼んだとは言えない。それでも、見慣れた笑顔は。いつものあの微笑みは、ディアンの目の前に。
「こんばんは、ディアン。……なにかあったんですね?」
支えられた手首を引かれ、身体は呆気なく中へ率いられる。
踏み込んだ足の痛みなど、この現状に比べれば些細なものだ。視界の端で顔を俯くペルデの姿も、遠くに見えるシスターの姿も、今のディアンの目には映らない。
だって、いたのだから。彼が……グラナートが、いま、ここに。
「いらっしゃらない、の、では……?」
嘘を吐かれたと理解しているのに、呆けた口は勝手に言葉を紡ぐ。それでも見えるのは動揺する幼なじみではなく、目の前にいる彼だけ。
「……その件は、私が後で言い聞かせます。ああ、これもですね」
握り込んだままだった手をそっとほぐされ、赤くなった皮膚が眼下に晒される。今はまだ変色しているだけだが、じきに水ぶくれに覆われてしまうだろう。
空気に触れただけでヒリヒリと痛む表面が、温かな光に包まれていく。溢れる洪水は、痛みの引いた皮膚と共に跡形もなく消えていった。
何度か握り、もう一度顔を上げる。その顔が滲みそうになって、無意識に吸った息は落ち着かせるには程足りず。
「っ……突然の訪問を、どうかお許しください。ですが、どうしても聞かなければならないことが……!」
「大丈夫」
続きが、肩に当てられた手によって遮られる。小さくなる背は、見上げた顔が徐々に下がってきたからだ。
まるで幼児に対するように膝を折り、視線を合わせる表情に怒りも面倒くささもない。
いつも通り。いつも通りの笑みだ。
それが、隠し通した表情であろうと……どれだけ、ディアンが安心できたことか。
「……大丈夫、分かっています。よく来てくれました」
繰り返し言い聞かされ、鼓動が落ち着いていく。建前だとわかっているのに、本当だと信じてしまいそうになる。迷惑でないはずがないのに。面倒でないはずが、ないのに。
「随分と走ってきたようですね。まずは部屋で休みましょう」
「っ、いえ! 答えが得られればすぐに……!」
「ディアン」
しぃ、と。僅かに細められた目蓋より、狭められた唇の隙間は細く。空気だけが行き交い、その音だけでなにも言えなくなってしまう。
本当に子どもに対するそれだ。周りが見えず、癇癪を起こす子どもを宥めるものと同じ。
「焦っていては、あなたもちゃんと説明ができないでしょう。少しお茶を飲んで、それからでも遅くはないはず」
「ですが、」
「そうしないなら、私は話を聞かないよ」
そこで、初めて笑みが崩れる。眉尻が下がり、口調が乱れ。少しだけ強く握られた手と、労るように触れられた傷跡。
己惚れでも、勘違いでもない。それで十分だった。心配させているのだと自覚するには、それで十分すぎたのだ。
いいね、と拒否を許さぬ声すらも優しく。どうして頷かずにいられたというのか。
「……ペルデ、お前は部屋に戻りなさい。これはお前が聞いていい話ではない」
そこでやっと、今までの一連を見られていたことを思い出す。
呼ばれた男が肩を震わせ、司祭を見つめる姿が己の幻覚と重なる。違うのは、その目に浮かぶ隠しきれない不満。
「ですが……!」
「話なら後でする。下がれ、ペルデ」
縋る瞳が地に落ち、握り締めた拳は痛々しいほどに。
そうして遠ざかっていく背を追いかけた目は、再び肩を叩かれたことで引き戻された。
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