229.『精霊の花嫁』の王子様 ★
――どうしてこんな目に。
もはや、そう繰り返した回数も数え切れない。美しく整えられていた爪は噛まれ続けたことで歪に欠け、それでも抑えきれぬ感情はなおも己を痛めつける。
テーブルに椅子、そして眠るための寝台。
最低限の家具しかないこの空間は、良く言えば清潔であり、悪く言えば殺風景である。そして、この部屋に押し込められた少女の印象は後者。
装飾の施されていないテーブルセット、天井のついていないベッド。
窓もカーテンも、暇を潰せる娯楽の類だってなければ、自分の目を楽しませる装飾品だって。
身に纏っているのは白一色のワンピースだけ。色などなければ、レースすらついていない。
服だけにとどまらず食事まで。与えられるのはパンと芋、それから豆だ。それも木製の器に入れて出されるなんて、屈辱でしかない!
苛立ちを募らせるメリアには、纏っているその服が見た目は地味でも最高の素材で作られていることも、エヴァンズ家で監視していた際に癇癪を起こし暴れたことへの対策だとも理解はできないだろう。
ただただ、現状への苛立ちを募らせ、自分の指を囓り、身を揺らす。
痛む喉は叫び、喚き、それでも聞き届けられなかった名残だ。肌は涙で荒れ、赤く染まっても気遣う存在はいない。ここには一人。たった一人だけ。
どうして。どうして。どうして。
こんなはずではなかった。こうなるはずがなかった。
あの日、部屋に閉じ込められていたメリアをサリアナが助けてくれて、ようやく終わると思ったのだ。
メリアを虐げる意地悪な女たちを懲らしめ、こうなった全ての理由を説明してくれた。
父が言われている任務というのが、ディアンを探すためのものであること。母もそれに同行していること。
渡された腕輪が魔除けのためではなく、罪人を拘束するためのものであること。ラインハルトも嘘をついていたこと。
なにより、ディアンのせいで……ディアンがこの家を出て行ったせいで、こうなってしまったこと。
そして、彼は今聖国にいて、そのまま戻るつもりのないことだって。全部、サリアナが教えてくれたことだ。
ディアンが戻らないこと自体は、メリアにとって良いことのはずだった。
いつも小言を言って偉そうにするだけ。あれをしろ、これはしてはいけない。『花嫁』なのだからと、いつもいつもメリアにひどいことを言ってばかり。
そんな兄がいなくなって幸せになったはずだ。なのに、その兄がいないせいでこうなっているなんて!
それも全て、お兄様が私に謝らなかったからだと。全ての責任はやはりディアンに押しつけられる。
兄の様子を窺おうとした父を止めたのも、暫く顔を見たくなかったからだ。少し泣いたふりをすれば、父はいつだってメリアの言うことを聞いてくれた。母だってそうだ。
兄さえいなければ完璧だった。兄さえひどいことを言わなければ、自分はなにも辛いことなんてなかった。
ディアンさえ言うことを聞けば。『精霊の花嫁』だというのに、あんなことをするから。
全部全部、兄が悪いのに。私はなにも悪くないのに。どうして、自分は今ここにいるのか。
メリアはただ迎えにいってあげただけだ。兄が悪いことを示し、全てがディアンのせいだと説明し。そうして、全てを元通りにしたかっただけ。
自分が行けばディアンは戻ってくるとサリアナが言ったから。そうすれば、全部元通りになると彼女が言ったから!
なのに! 罪人だと言われ、部屋に押し込まれ。自国に戻ることさえ許されずに、ここでこんな仕打ちを受けさせられて!
メリアは『精霊の花嫁』だ。誰もがそう讃え、羨ましがり、大切にしてくれた。
望むものはなんでも与えてくれたし、望むことはなんでもしてくれた。そうされるだけの存在だから。『精霊の花嫁』は、それが許されているのだから!
なのに、どうして。ここの女たちは誰もがメリアを虐げる。
お茶も入れてくれない。本だって渡してくれない。与えられるのは、みすぼらしい服と粗末な食事だけ!
ズカズカと入り込んではどうやってこの国に来たとか、なんの目的でとか。メリアの話も聞かずに質問攻めにするばかり。
私は『花嫁』だと主張しても鼻で嗤い、あまつメリアを怒鳴りつける。こんな仕打ちが許されていいわけがない。
自分を守り、兄を連れ戻すはずだった兵士も、手伝うと言っていたペルデだって、なんの役にも立たなかった。
それどころか、ペルデだって自分を水で濡らし、さらには氷付けにしてきたのだ!
おかげで寒かったし、きっと風邪をひいたせいで調子だって悪かった。なのに奴らは気遣う様子もなく、メリアをこの部屋に押し込めたのだ。
風邪ではなく、門を立て続けに通った故の不調だとは、やはりメリアにはわからないし、説明されても聞かなかっただろう。
彼女の中にあるのは、ここに閉じ込め続けている彼らへの不満と、こうなる原因を作った己の兄への恨み。行き場のない怒りに、爪はますます歪になっていく。
指先に走る痛みさえも、メリアを苛立たせる要因でしかない。
私は『花嫁』なのに。大切にされなければならない存在なのに。兄さんが出ていなければ、私に謝りさえすれば。
どうして、どうして、なんで。
……だが、メリアは知っている。そう、わかっている。いつまでもこの状況は続かないことを。こんなひどい日々も、もうすぐ終わりを迎えることを。
だって、本にも書いてあった。囚われたお姫様を助け出すのは、いつだって王子様の役目だ。
メリアは正確に言えばお姫様ではない。それはメリア自身だってわかっている。だが、王子様にとって『花嫁』は、お姫様と同じぐらいに大切なはずだ。
王子様は自分がこんなひどいことになっていることを知っているはず。だから、今にきっとメリアを助けてくれるはずだ。
だってメリアは『精霊の花嫁』なのだ。
とても強くて、かっこいい精霊の王子様がもうじきメリアを迎えに来てくれる!
そうすれば、あの鎧を着た意地悪な女たちも、メリアにひどいことを命じているじょうおうへいかとやらも、メリアに心から謝るだろう。
そうしてディアンを連れ戻し、謝らせて。ようやく元の生活に戻れるのだ。
お父様がいて、お母様もいて。メイドたちも戻ってきて。それから、ライヒと一緒にお茶をしたり、サリアナと話をしたり。いつものように幸せで、楽しい日々が。
『精霊の花嫁』として、大切にしてくれる人たちに囲まれる、いつも通りの日常が。
そうして、あの意地悪な兄だって懲らしめてくれる。今までのこと全て、間違いだったと謝らせて、もう二度とあんなひどいことを言わなくさせてくれるだろう。
そうだとメリアは知っている。知っているのだ。
だからこそ、彼女の指先からは血が滲む。
早く。早く早く、早く。もうずっと待っている。待ち続けているのに。
――どうして、まだ王子様は来てくれないのか、と。
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