227.ペルデの叫び
「正直、お前がどうなっていたって、俺にはどうでもよかった。どこかで野垂れ死んでいようと、なにもかも忘れて幸せになっていようと。俺の目の前から消えるのならなんだってよかった」
咎められると理解しながら零したなら、それこそ失望される。だが、口にしなかっただけで、それはペルデの中にずっとあったものだ。
このバケモノがいなくなればとどれだけ願い、望み続けたか。そうして、それが否定された時、いかに絶望したか。
このバケモノはわからない。わかるはずもない。現に、ディアンはその怒りを受け止めることしかできないのだから。
「お前が憎かった。それ以上に恐ろしかった。お前がいなくなって清々した。なのになにも終わらなかった。ますますひどくなって、滅茶苦茶になって、なのにそうした本人はいない」
「っ……ペルデ……」
「俺はそれでもよかったんだ。お前が二度と現れなければ。あいつらの手の届かない場所まで逃げていたなら、それで」
ディアンは知らない。彼が去った後の学園のことも、自分の父親がどうなり、メリアがどのように過ごしてきたかも。
情報として知っていても、その光景をみたわけではない。見ていない者が真に理解することはできない。
紫に含まれるのは同情か、哀れみか、謝罪か。だが、そう抱かせているのは感情が補完したものだ。
だからこそ、それは違う。ディアンが想像するのは的外れのもの。ああそうだとも、まだ誰一人でさえペルデが真に畏れた正体を知らないのだ。
「なんで今なんだ」
込み上げる吐き気を抑え込むように、腕はディアンを揺さぶる。もうペルデ自身にも、自分がなにを口走っているかわかっていないのだ。
吐き出した言葉を繋ぎ合わせることもできないまま、指は強く、深く。それはもはや、縋る姿に酷似している。
「いつだってできたはずだ、お前は、いつでもよかっただろう、なんで今なんだよ、なんでっ……!」
言葉が詰まる。息が苦しい。最後の最後で何かがペルデを止めようとする。
それは僅かに残った良心なのか。この期に及んで、まだ失望されることを恐れていたのか。
否、それは何年も塞ぎ続けてきた疑問を口にすることで、何かが変わることを畏れていたのか。
それでも、繋ぎ止めるは薄皮一枚。内側から押し上げれば、簡単に破れてしまう。
そしてそれは、ようやく言葉として形を得ることが許されたのだ。
「――なんでもっと早く逃げなかったんだ!」
見開いた紫に、涙ににじむ鷲色が映り込む。頭を殴られたような衝動に言葉を反芻するのがやっとで、実際はまだ胸元を掴まれているだけなんて認識できない。
そう反応することをペルデは知っていた。そうなると、ペルデだけが分かっていたから!
「どうして諦めなかったんだ! あんなの普通じゃなかっただろ! あれだけされて普通はおかしくなるのに、なんでお前は耐えきったんだ!」
答えは得られない。そんなもの求めていない。答えられるはずがない。だって、このバケモノにその自覚はなかったのだから。
ディアンに行われていた教育も、大の大人が取り囲んで騎士になれと強要する光景も、『精霊の花嫁』というだけで全てが許される環境であったことも、なにもかもが異常だった。おかしかった。そうだと口に出すことすら許されないこと自体がなによりも!
努力を重ねる程に否定され、抑えつけられ、矛盾する中で求められ続けて。普通は、普通なら何かが折れてしまうはずだ。
反抗できなくたって、なにかがおかしいと思うはずだ。声に出せずとも、隠そうとしても、その違和感はどうしたって表れるはずだ。
ペルデがそうであったように、どれだけ隠したくとも曝かれたように。
普通は、普通なら狂っていたっておかしくない。それだけディアンの扱いは酷かった。
幼い子どもですら、そうわかったのに。そうだと理解していたのに。
「耐えられるわけないだろ、あんなの。なんでお前は普通なんだ。なんで受け入れたんだ。どうしておかしいって気付かなかったんだ!」
揺さぶろうと、叫ぼうと、ディアンの口から言葉は出ない。紡がれない。ああそうだ、ディアンにとってはそれが普通だ。だからこそ、ペルデはディアンをバケモノと称した。
耐えられるはずのない環境に耐えてしまったから。それを受け入れてしまったから。
己を認めないくせに騎士になれと強要する父親の矛盾も、『花嫁』だからと全てが許されている妹の環境も、自分を慕い傍に置こうとするサリアナの執着も。
それがおかしいと気付かないまま、それがあるべき形であると受け入れて! そんなの、できるわけがないのに!
だけどできてしまった。為しえてしまった。ディアンは諦めなかった。諦めてくれなかった。
そうして世界は回ってしまった。なにもかもがおかしいのに、ペルデばかりが否定されて! おかしいのは自分だと、そう嘲笑うように!
狂っているのは自分ではないのに。おかしいのは、ディアンに執着するなにもかもなのに!
ああ、なにより! 今だってそうだと気付いていない、このバケモノこそが、なによりも!
「諦めてよかったんだよ、お前は! なんで諦めなかったんだ、なんで耐えてしまったんだ! なんでっ、助けを求めなかったんだ!」
揺れる紫が滲んでいく。喉が裂けんばかりの叫びは、十数年押さえつけてきた全てだ。
言えなかった。言いたかった。言葉にできたって意味を成さないとわかっていたって、その刃はディアンの心臓を刺し続ける。
「父さんたちだって言ってただろ。逃げてこいって、逃げていいって! そうすれば全部綺麗に終わったのに! こんなことにはならなかったのに!」
相談していい。辛かったらここに来てもいい。なんでも相談してほしい。そう言われ続けたことを、その言葉に縋れなかったことも思い出す。
ディアンが数え切れないほど言われたその救いの言葉を、ペルデは今まで何度耳にして、何度そう思ってきたのか。
なぜその手を取らないのかと。どうして、終わりにしてくれないのかと。
「お前はっ、諦めてよかったんだ! 怒ればよかったんだ! なんで耐えたんだよ、おかしいだろっ!」
揺さぶられるたびに、吐き付けられるごとに、頭を殴りつけられる。
強張る指では耳を塞ぐことはできず、息もままならぬ喉で制止を叫ぶことだってできない。
「なんで今なんだ! 今更っ……お前も、お前の父親も、妹も! あの悪魔も、学園の奴らだって……俺の父さんだって! 誰もまともじゃなかっただろ! なんで俺でもわかることがお前にはわからないんだよ!」
最後のそれは、もはや絶叫と変わらず。口走った言葉に、誰よりもそう告げた本人の顔が歪む。
いつだってそうだった。
誰も彼もがディアンを求め、拒絶し、肯定し、否定した。愛して、憎んで、押しつけて、奪って。その思惑も、理由も異なっていても、全てがこの男に集約していた。
騎士になれと言いながら評価させないように仕向けたヴァン。
『精霊の花嫁』だからと、全ての我が儘を通そうとするメリア。
ただディアンを欲するためにここまでの事を実行に移したサリアナ。
自分のプライド故にディアンを認めたくないと、彼を否定し続けたラインハルト。
そんな彼らも、ヴァンの暴挙も許していた国王。
異常だと気付きながら、教会の命令だからと言い訳し、ディアンを助けなかったシスターも。
……十数年以上、そうして関わらせておきながら、本気で巻き込むつもりがなかったなんて思っていたグラナートでさえ。
本当に、誰も。誰もまともじゃなかった。そう喚く自分自身すら、もう何かがおかしいのだ。
狂わされてしまった。おかしくなってしまった。どうしてディアンだけが普通でいられるのだ。ああ、それこそ本当におかしいのに。あり得るはずがないのに。
それに気付かなかったディアンが、誰よりも、なによりも、ああ、ああ、
「なんで、いまなんだ」
指から力が抜けていく。しがみ付くのがやっとで、声も足も震えていく。その肩を支える腕はなく、与えられる答えもなく。ゆえにペルデの身体は崩れ落ちていく。
「なんでいまさら、遅すぎるんだよ、なんでもっと早くにげなかったんだよ、どうして……っ……」
いつだってよかっただろうと、いつだってそうできただろうと。いつだってその準備はできていた。十二年。十二年間ずっと、ずっと。
その手は差し伸べられていた。その救いはそこにあった。彼が気付くだけで、この地獄はそこで終わったはずなのに。
もう遅いのだ。もう、もう何もかも。ペルデの全ては、もう。
もはや指は縋り、掴むのは胸元ではなく服の裾。項垂れ、漏らす言葉に意味はない。ちくしょう、と漏れる声だって、もはや誰に対するものであったのか。
少なくとも、ディアンはその言葉に反応できない。胸元を開放されても肺は苦しく、ようやく吐いた息さえ浅い。
血潮はけたたましくディアンの鼓膜を揺さぶり、すすり泣く声すら掻き消していく。
……怒りを。彼の言葉を、受け止めなければと思っていた。
ペルデが今まで募らせてきた恨みを聞くことが、彼に対する贖罪であると。ディアンが意図せず奪ってきたことに対する償いだと思っていた。
ペルデだって理解している。これをディアンに伝えたところでなにも変わらなかったと。今更……そう、本当に今更なのだ。
なにもかもが遅くて、なにもかもが手遅れ。それでも喚かずにいられなかった思いを、確かにディアンは受け止めた。
その上で、彼は瞳を伏せる。もうその指は首にはかかっていないのに、狭められているのは気道だけではなく心臓まで。
搾られたその奥底。煮え立つそれは、本来なら抑えなければならないものだ。
ペルデに聞かせるべきではない。彼も被害者であり、巻き込まれた者だ。これを伝えたところでなにも変わらない。それこそ、今更ではないか。
だが……否、ならばこそ。ディアンもそれを吐き出すべきなのだ。
どうしてと。そう問いかけたペルデのためにではない。自分自身のために。
「そんなの、できるわけないだろ」
――己の、怒りのままに。
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