225.バケモノとの再会
それは、確信めいた予感だった。
前触れなどない。予知能力なんてあるはずもない。扉を隔てた先、離れた空間でなにが起きているか聞き分ける聴力だってない。
それでも、ペルデの心臓は高鳴っていく。身体は震え、指先が冷えていくのは脳が無意識に逃走を図っているからだろう。
だが、足は地に縫い付けられたまま。膝は曲がり、全身は椅子に預けられて微動もしない。
逃げられないと分かっているのに、なんて自笑すら浮かばない。理解していても本能はそれを畏れているのだ。その存在を。自分を追い詰めるあの異物を。
逃げ場などないし、救いもない。対処法もなければ、やはりペルデにできることはないのだ。
そう、たとえば控えめに叩かれたノックの音に耳を塞ぐとか。その後に聞こえる声に拒否を示すとか。そんなことは無意味だと、もう十分に思い知っている。
これ以上なにを望むのかと、そんな漠然とした疑問が浮かんだって答えは与えられないのだ。
だから、ペルデはもうなにも考えない。なにも思わない。
否定も、抵抗も、訴えることも、釈明も。そんな無駄なことはもうしない。
全てが望むように動くだけ。ただ、自分は待つだけでいい。それだけで全てが終わるだろう。
だって、ペルデの意思など、そこには一切関与されないのだから。
だが、ただ肯定するだけでは聖国の意にはそぐわなかったらしく、何度も同じことを聞かれ、その度に同じ答えを返した。もうこの数日だけでも数え切れないほどに。
だからこそ……いや、そうでなくともこれは避けられなかったと、ゆっくりと開いていく扉を見つめながらペルデは思う。
この瞬間は。自分が畏れていたこの時は、迎えなければならなかったのだ。
だって、ペルデはどうしたって逃げられない。彼が生きていようと、死んでいようと。それこそペルデが生きている限り逃げられない。
だからこそ、ペルデは待っていた。最も畏れたこの時を、誰よりも会いたくなかったその相手との再会を。
開かれた扉の先。全身を白に包んだ黒髪の男。座るペルデを凝視する、紫の瞳。
漏れた息は諦めでも、恐怖でもない。ようやく長年抱え続けてきた違和感を。その恐怖を視覚できた喜びだ。
ああ、まさしく。彼は――やはり、バケモノであったのだと。
◇ ◇ ◇
どこよりも質素な木製の扉。プレートもかかっていなければ、特徴的な装飾だって見当たらない。
もしトゥメラ隊がそばに立っていなければ、ここが目的地だとは気付かなかっただろう。
大きく息を吸い、呼吸を整えたのは緊張か。あるいはそれ以外のなにかだったのか。
後ろからの視線には気付かないフリをして握ったノブは軽く回り、されど押す手はあまりにも重く。
そうして対面した相手は、すでにそこでディアンを待ち構えていた。
ディアンと同じく、白で統一された服。違うのは自分は靴を履いていて、ペルデは素足であったことか。
この王宮内で寒さを感じることがないのは、魔術によって調整されているからだ。故に、冷たいと感じるのは、なんの温度も感じられないその瞳に貫かれているから。
数日前、冷静に見ていなくともやつれていると認識できた姿だ。こうして改めて対面すれば、その異様さはより際だって見える。
一ヶ月前より若干伸びた髪には艶はなく、肌だって青白い。痩せた頬に浮かぶ表情はなく、光の宿らない瞳は死んだ魚を思わせる。
もしペルデが立ち上がらなければ、生きているのさえ疑ってしまっただろう。それだけに彼からは生気が感じられない。
これが魔術負荷の影響なのかと。それほどまでに、サリアナは彼を蝕んだのかと。そんな考えも、ペルデが膝をつくまでのこと。
「――ディアン様」
やはり体調が優れないのかと、駆け寄ろうとした足はその一言で縫い止められる。
まるで上から杭を穿たれたように強く。それは、拒絶の意も含んでいたもの。
グラナートと同じ鷲色の髪が流れ、顔が俯いていく。それは教会の拝礼ではなく、一般人が行う最上のもの。
「この度は『選定者』になられたこと、お慶び申し上げます」
張り上げているのでも、無理をしているのでもない。声だけならば、なんの不調もないように思える。
だが、明らかに肉が減り、角張った骨を見ればいかに彼が衰弱しているかは明らかだ。
そうでなくとも、ディアンは彼に膝をついてほしいなんて思っていない。
「……やめてくれ、ペルデ」
あまりに弱々しい声に、これではどちらが病人かわからないではないかと、わらう声はない。
今、この空間にいるのはペルデとディアンの二人きりだ。
扉の前では、今も誰かが待機しているだろう。だが、なにが聞こえても入ってこないように頼んだのはディアンからだ。
もし他に教会の関係者がいれば、ペルデはなにも言えなくなっていただろう。今まで通り、自分がしたと答え続けてしまう。
自分が『選定者』になったことは、誰から伝えられたのか。
その意味も、役割も。詳細こそ伏せていたとしても、名称を知っている時点で大半は理解しているはずだ。
されど、ここにいるのは『選定者』としてではない。頭を垂れ、敬われる存在ではない。
今のディアンは、ペルデを苦しめ続けることとなった元凶として。ここに、立っている。
「僕は……それを望んでいない」
「望んでいなくとも、そうされるだけの立場になった自覚を持つべきでは?」
トゥメラ隊が聞けば咎められる発言も、やはり遮る声はない。
一ヶ月前とはなにもかもが違う。彼はいつだって、誰かと話す時はどもっていた。
何かに怯えるように、押さえ込むように。今は、その声に少しも淀みはないし、震えもない。
それこそ女王であるロディリアよりも淡々とした響きに含まれる感情を知っている。覚えている。
たとえペルデ自身から向けられた記憶がなくとも、それはディアン自身が何度も味わってきたものだからだ。
それは……諦めであると。
「なら、そのしゃべり方をやめてくれ。……命令だ」
頼んだところで、彼は顔を上げはしないだろう。卑怯であると理解しながらもそう伝えるのは、それこそディアンの望みを押しつけているだけかもしれない。
故に、鼻で笑う音は深く突き刺さり、よろめきながら立ち上がる姿も、その間に見えた手に巻かれた包帯だって目に痛い。
テーブルを支えにし、椅子に座り直すまでの動作はまるで老人のようだ。
されど、ディアンはその身体を支える権利はないことを知っている。
吐いた息が深く、それが疲労だけからくるものでないことだって。
「それで? 見舞いに来たわけじゃないんだろ」
沈黙は数秒か、あるいは一瞬か。不意にかけられた言葉に反応できずにいれば、呆れた声は続けて吐かれる。
口調は荒く、わざと反感を買おうとしているのか。……否、そうではなく。
こちらが本来の姿か、吹っ切れてしまったのか。その判断がつかずとも、すべきことは変わらない。
ディアンはペルデの瞳を見つめ、ペルデはどこかわからぬ一点を見つめ続ける。
その視線が交わることがなくとも、対話する意思があるのなら伝える意味はあるはずだ。
「……なぜ、サリアナ殿下と、」
「なぜ?」
だが、いざ問おうとした口はひどく渇き、上手く紡げず。
歯切れの悪い言葉は、問い返す声によって遮られる。そうして浮かぶ笑みは冷たく、ひどく歪んだもの。
「自分を見限った父の任務を妨害するため彼女に協力し、お前を連れ戻して全部台無しにしたかった。……とでも答えれば満足か」
淀みなく答えられる言葉が真実でないことをディアンは知っている。
たとえその気持ちが真実であったとしても、それを行動に移せるような人間ではない。門を通ると言うことは、それだけの禁忌なのだ。
仮にディアンだけでなくグラナートを憎んでいたとしても、彼はその罪の重さを理解している。
なにを弁明しても罪は軽くならないと、そう自棄になっているのか。
それだけではないと補足する声はなく、そしてディアンも気付くことなく。ただ、素直に伝えたところでペルデは信じないと結論付ける。
彼をここまで頑なにした理由を推測することも、共感することもできる。だが、真に理解できるかといえば否定するしかない。
ディアンが聞いているのは、彼がこの国に連れてこられるまでの経緯だ。それ以前のことも、それこそディアンがあの家を出るまでの数年間積もった恨みを、ディアンはまだ受け止めていない。
だからこそ、形だけの謝罪など意味はない。それは彼の求める言葉ではない。伝えるべき言葉を誤ってはならない。
その沈黙を、気分を害したと判断したのか。それともなにも揺らがせることができなかったと思ったか。自笑は引き、その唇から表情が消える。
変わらず視線は交わらず、そして声は発せられず。
「……あんたたちがどう思っていようと、サリアナに協力すると決めたのは俺だ。それ以外になにを聞きたいって?」
それが答えだと。もはやこれ以上は無駄だろうと。そこに含まれるのは拒絶ではなく、無駄な行為を咎めるもの。
それでも立ち去ろうとしないディアンに抱くのは怒りか、呆れか。再び浮かんだ笑みは、それすら諦めてしまった自身に向けてなのか。
「それとも、他に言ってほしい言葉が……」
「ミヒェルダから全て聞いた」
「――無事なのか!」
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