223.悪夢 ★
「知っているかしら、ペルデ。人がなにも摂取せずに生きられるのはほんの数日らしいけど、時間の経過が分からない場所で正常でいられるのも同じ期間らしいの。あなたが死ぬのと、狂うのと、誰かがあなたの存在に気付くのと……一体どれが早いのかしら?」
少しだけ興味があるわと、サリアナはわらう。本当にこれが脅迫であれば、奥歯を噛み締め怒りを抑え、屈辱に震えただろうに。
麻痺しかけていた恐怖が胸底を揺さぶるのは、それが本当に……それ以上の意味を有しないからだ。
「ねぇ、ペルデ」
名前を呼ぼうと、その瞳がペルデを見ようと、それは全て仮初めのものだ。
その行動は全てあのバケモノに収束する。そうだと知っている。ああそうだとも、思い知っている。
「私はどっちでもいいの。あなたがいてもいなくても私の目的は達成される。……でもね?」
浮かんでいた笑みが深くなる。だが、それは演技ではない。
瞳は輝き、頬は上気する。名案だと疑いもせず、紡ぐ声はそれこそ少女のように無邪気なもの。
「あなたが来てくれたほうが、きっとディアンも喜ぶと思うの!」
その姿だけなら恋する少女だ。天才と謳われ、王女と呼ばれ。そして、悪魔と呼んでいる存在と同一とは思えない。
キラキラと光る瞳の中、映っているのは表情一つ変えぬペルデの顔ではなく、愛しい愛しい彼の姿。
ここまでして欲した、こうまでしてまで決して手に入ることのない、たった一人を。
「メリアは途中で置いていくけど、あなたはお兄様と違って危害をくわえるわけではないから一緒に連れて行っても問題はないし、私を止められるだけの実力もない。本当は私だけを見てほしいけど、あなたには一応恩があるから助けてあげてもいいわ」
「……いったい、なにを」
「どうするかはあなたが好きにすればいいわ。でも、」
高揚しているせいか、話が飛躍している。
メリアも連れて行くのに途中で置いていく? ここに再び戻ってくるのではないのか? そのために自分を連れて行こうとしているのではないのか。
「――ペルデは私のお願い、聞いてくれるわよね?」
疑問はどれも声に出せず、遮る声だけが耳に届く。
それは今までと変わらぬ響きだった。脅迫でも命令でもなく、そうだという事実を述べるように。
その羅列のどこにも強制する言葉はないのに、心臓が締め付けられる感覚に襲われる。
吐き気に似たなにかが込み上げ、咄嗟に口を押さえても出てくるのは己の呻きのみだ。
その場にうずくまり、突然の不調に混乱を隠しきれず咳き込めば水音が混ざる。指の間から飛び出たそれは赤く、一瞬でペルデの鼻腔を鉄の匂いで満たした。
それが血であると認識できぬまま、目眩と息苦しさに喘ぐ。
苦しいのに、痛いのに、頭の奥が呆けるような矛盾に恐怖を抱いても、それすら霞んでいってしまう。
「あら……それだけ身体が弱っているなら無理もないわね」
淡々と告げる内容も、自分の事だと理解しているのに頭の中を通り抜けてしまう
自分の身になにが起きているのか、どうなっているのか。されど口にできるのはその疑問ではなく、赤黒い命の源だけ。
「それで、返事は――」
促す声が途切れる。だが、それはペルデの意識が飛んだからではない。固く弾かれる音から数秒遅れ、倦怠感が薄れていく。息苦しさがなくなり、靄の晴れた頭へ一気に情報が流れ込み、気管に入った己の血にむせる。
鈍い頭痛と手足の痺れ。まだ鈍いままの脳で状況を理解しようとすれば、真っ先に目に映ったのは障壁を展開するサリアナの姿だ。
弾かれたらしい魔力の球が壁にぶつかって消えるまでは一瞬。眩しい光が収まってもサリアナの笑みは崩れず、その姿だけを見ればなにもなかったかのようだ。
「いつ出てくるのかと思っていたけど、ずっと見張っていたのかしら?」
「――その子から離れなさい」
気付かなかったと語る彼女の視線は通路の奥、不意を狙ってきた何者かに注がれたまま。
ペルデの位置からでは見えぬ姿。だが、その声はあまりにも聞き馴染みのあるものだ。
間違いない。もう十何年も聞き続けた声だ。
だからこそ、ここにいるはずがない。そこにいるはずがない。
それでも、鉄格子に縋り覗き込んだ先。その姿は、ペルデが思い描いていた通りの姿で。
「ミヒェル――っげほ……!」
叫んだはずの声が吐血に変わる。見慣れぬ鎧。見慣れぬ数名の女性。だが、その先頭に立っていたのは間違いなく彼女だ。
誘拐されたあの日から安否の知れなかった相手。無事であってほしいと願っていたその姿が、どうしてここにあるのか。
答えは得られず、与えられることもなく。対峙する両名の表情は、やはり相容れぬもの。
「いつだって助けられたでしょうに今更出てくるなんて……女王陛下は、随分と冷酷な御方ね」
「……サリアナ・ノースディア。お前を協定違反の容疑で連行する」
まるで挑発するような言葉も、彼女にとってはその意図はないのだろう。そして、侮辱されたと理解しながらも、ミヒェルダたちの顔は変わらない。
双眸は目の前の悪魔を睨み、ぶれることのない剣先に蝋燭の灯りが反射する。
「それは困るわ。今からあの人を迎えに行くところのなのに」
答える声に焦りはない。武力を突きつけられた恐怖もない。含まれるのは、言葉通りの意味だけだ。
今は忙しいから無理なのだと。構っていられないのだと。
とても教会への態度とは到底思えない。それも、仮にも王族であるのに。
だが、その違和感すらサリアナというだけで許されてしまう。
相手が教会であろうと、精霊であろうと、その目に映るのはディアンだけ。それ以外は全て、ただのモノでしかないのだ。
ペルデも、教会も……いいや、ヴァンギルド長も、自身の父も、ラインハルトだって。彼女にとってはなんの価値もない。
求めるのはただ一人。欲しているのは、ただ一つ。
「だから、邪魔はしないで?」
その願いに対する応答は、剣のひらめく光であった。
ペルデの肉眼では捉えられぬほどに早く、音すらもなく。その切っ先は彼女の喉元に突きつけられるはずだったと理解できたのは、その凶器が僅かに届かぬまま止められたからだ。
展開した障壁を貫く剣先。破壊された壁が甲高い音を立てて割れても、それが彼女の身を貫くことはない。勢いを付けたままの姿で硬直していると認識した瞬間には、その身体は壁に叩き付けられていた。
本当に一瞬で。瞬く間もなく。視界の外で誰かが倒れた彼女の名を叫び、間髪いれずに光の球がサリアナに向けて放たれる。
閃光に目を塞ぎ、それでも貫く光と魔力の消散する音は立て続けに何度も。だが、それだって数秒のことだ。
崩れ落ちる音は一つ。そして、からんと響く金属の音も、一つ。
焼かれた瞳では正しく世界を映すことはできず、網膜に残り続けた光は明滅を繰り返す。それでも捉えられたサリアナの姿はなにも変わらなかった。
佇み、微笑んだまま。前を向いて、その先に居るモノを見つめている。手を伸ばせば届く距離にある、苦痛に歪む顔を。
「ミヒェルダッ……!」
叫び、飛びついた身体が鉄格子に阻まれる。どれだけ掴んだところで鉄が歪むこともないし、縺れた足が彼女の元に辿り着くはずもない。
「やめろサリアナ! やめてくれ!」
藻掻く足が宙を切る。見えないなにかに首を絞められているのだと理解したって、見ているしかできないペルデになにができたというのか。
叫び、喚き、懇願する以外に、一体なにが。
呻く声と気道が狭まる音が響く。その勢いは、もはやその細い首を折らんばかりに強く、強く。
指先が喉を掻き、空気の行き交わぬ喉から異音が漏れる。もう猶予はないと、突きつけられるにはそれで十分過ぎた。
ミヒェルダを。否、シスターたちを憎く思ったことがないと言えば嘘にはなる。
ディアンのために遣わされ、父親の任務に関係している者たち。
今まで親しくしてくれた人たちと入れ替わりになったことに、理不尽さと怒りを抱いたことだってある。
それでも、十年。十年以上も一緒に過ごしてきたのだ。ずっと険悪だったわけではない。ペルデに対して良くしてくれたことだって、決して少なくはないのだ。
信頼しているかといえば難しい。家族とは呼べぬ存在。どうしたって憎んでしまう部分はある。
それでも、このまま見殺しになんてできない。そんなこと、できるはずがない!
「手伝う! 手伝うからやめてくれ! なんでもするから!」
声を張り上げれば、衰えた喉が痛みを訴える。だが、引きつる感覚などに構ってはいられない。
どれだけ叫ぼうと、どれだけ手を伸ばそうと、サリアナはペルデを見ない。耳にすら入れてないだろう。
今の彼女は、邪魔な目の前の存在をどう処理するかしか考えていないのだ。ペルデの意思など、それこそなんの関係があるのだろう。
わかっていても叫ぶしかできない。理解していたって、それ以外にはなにもできない。
いよいよ藻掻き方は尋常ではなくなり、首筋が血で赤く滲んでいく。開いたままの口から漏れる音さえ小さく、見開いた瞳が虚ろになっていく。
死んでしまう。殺されてしまう。このままでは、このままじゃ。
身体が震える、頭が回らない。それでも止めなければ。あの悪魔を、あいつを、そうでなければミヒェルダは……!
「――ディアンを迎えに行くんだろうっ!?」
それは今までで一番大きな悲鳴だった。これ以外に彼女を止められないと、ペルデはどこかで理解していたのかもしれない。
そう、サリアナが何よりも優先するのはディアンだ。彼以外はどうでもいい。彼以外は、サリアナにとって無価値だ。
ディアンの名を出せば。ここで時間を潰す暇などないと、そう理解させれば止まると。それは口走ってからの理解であり、ほとんど無意識からの行動だった。
でも、それは間違いではないと確信している。教会に知られた以上、彼女にとって猶予はない。一刻も早くディアンを連れ戻したいと考えるはずだ。
トドメを刺す時間さえも惜しいと。だから、すぐにでも向かおうと。
それは、今までサリアナと接してきたペルデだからこそ導き出せた正解だ。
間違ってはいない。そう、決して間違えてはいなかった。
ただ――そこに至るまでが遅すぎたのだ。
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