20.空き教室
「あっ、ディアン!」
挨拶もせず背を向けるのは不敬であろう。
だが、残っていても立ち去っても結果が変わらないと。そう気づいた時には足が動いていた。
追いかけようとするサリアナを、ラインハルトが止める声が響く。その間も身体は野次馬の輪へ近づき、作られた隙間を縫って前へ。
廊下を進み、角を曲がり。どれだけ騒ぎから離れようと、人の目からは逃れられない。その全てが己を非難しているものではないと、分かっているはずなのにわらい声はいつまでもいつまでもディアンの鼓膜にこびり付いてくる。
夢中で足を進めるうちに、外とは真逆に向かっていることに気づいても歩みを止められない。今から向ったところでサリアナたちに出くわす可能性があるし、そうでなくてもあの騒ぎを見た者たちが残っているだろう。
人気が無くなるまでは近寄れないと、無意識に入り込んだ先に人影はない。既に全員が帰ったか、最初から使われていなかったのか。
どちらにしてもありがたいと、適当な椅子に腰をかけ……そこで、呼吸が荒かったことを自覚した。
意識していなかったが、それほどまでに去りたかったのか。いや、留まりたいと思う方が異常か。
サリアナのことだ、ディアンがいる限り彼女は庇い続け、ラインハルトも引き剥がそうとする。そうすれば更にサリアナは躍起になり、悪化の一途を辿るばかり。
立ち去って良かったのだ。良かったのだと思わなければ、言い表せられない不安が重くて、息苦しさから解放されなくなってしまう。
深く、深く息を吸って。ゆっくりと、吐く。
それでも身体は怠く、心臓は鈍い。思考は不鮮明なままで、どれだけ掻き混ぜても晴れるどころか気持ち悪さが増すばかり。
空腹。精霊門。朝から囁かれ続けている非難。原因になり得るものは、それこそいくらだって上げられる。
だが、そうではない。最もディアンの心にのし掛かっているのは、そんな単純なものなんかじゃない。
そうであれば、こんなにも……悩み、揺らぎ。泣きそうになんて、なっていない。
騎士になれるのよ、とサリアナの声が響く。
英雄の息子として恥じぬ行動をと、父の声も響く。
どちらも幻聴だ。ここに二人はいない。だからこそ、耳を塞いでも首を振っても、その声が剥がれることがない。
他者の目を気にしている限り騎士にはなれないと。だからお前は弱いのだと。何度も。何度も。
相応しい行動を求めながら、それを気にするなと父は言う。その矛盾の答えを、どれだけ時間を費やしても導き出せないのだ。
それがわからないこそ、自分は騎士に相応しくない人材なのだろう。それでも、わからない。わからないのだ。求められていることが、現状とあまりにも噛み合わない。
騎士に相応しくないと責めながら、騎士になることを認めている。誰にも勝てぬ弱者だと知りながら、強者である騎士になることを、認めている?
王女が望んでいるだけで認める男ではない。出来損ないであろうとディアンは彼の息子だ。真意が分からずとも、その根本たる理念を違えることはない。
間違いを許さず、誠実である。だからこそヴァンは英雄となり、この国を救った。そんな男が、姫の頼みだけでそれをねじ曲げるとは思えない。
そして、この程度で王命が下るなど考えられない。
いくら親友の息子に関することとしても、ディアンは平民であり、なに一つ功績を立てていない。そんな男を、娘愛しさに権力を使うような愚かな王ではないはずだ。
それなのに、なぜ。陛下もヴァンも、それを認めているのか。認めて、しまっているのか。
ディアンが騎士として相応しくないのは、ヴァン以上にディアン自身が理解している。
どれだけ本を読み、知識を取り入れ、自信を持っても平均点以下の座学。
文字通り血が滲むほど剣を振り、筋肉を付けることも怠けることなく、己を高めても誰にも勝てない実技。
どれだけ集中しようと、的にかすりもしない魔術。
誰にでも優しいわけじゃない。己を制御しきっているわけでもない。好かれるどころか厄介者扱い。なにより――加護だって、ない。
誰もが授かっている祝福を。人間であれば、誰もが賜っている力を、ディアンだけが持っていない。
どれか一つでもあったなら。なにか、一つでもディアンにあったなら。
知力でも、筋力でも、魔力でも。いいや、普通の人と同じく、加護だけでもあったなら。
だけど、なにもないのだ。ディアンにはなにもない。誇れるものはなに一つでさえ!
それなのに! ……どうして、騎士になれるというのか。
今からでもいい。質の悪い冗談だと言ってくれ。嘘だったと、そう嘲笑ってくれ。この苦悩も、迷いも、全てが無意味であると。どうか。
ああ、だが知っている。知っているのだ。幾度願いを込めたって、どれだけ祈ったって、ディアンに救いなど現れない。
今までも、これからも。そして、この先だって、ずっと。
誰も認めない。誰が認めるものか。いいや、自分が。なにより自分自身が、こんなこと。
これが、正しい姿だというのか? 騎士として、英雄の息子として、恥じぬ姿であると?
なにも誇るところがないまま、騎士の試験も免除され、父の名声のみで得た地位が……相応しい立場であると?
それとも、卒業までに相応しい人間になれと。そういうことなのだろうか。そうなると、本気で思っているのか。
六年。六年だ。この学園に入ってから、六年間。絶えず努力を続けてきた。全力を尽くしてきたはずだ。
全ては騎士になるために。そう望まれたから。それ以外に、道はなかったから。
それでもこうなってしまった。長い月日の末、手に入れられたのは自分では騎士にはなれないという確信だけだ。
あと数ヶ月でどうにかなるものではない。それこそ奇跡が起こったって不可能だ。もはや周囲の目は欺けない。
英雄の息子は、出来損ないであったと!
……こうして諦めているから、強くなれないのか。
弱音を吐いてしまうからこそ、自分は……出来損ないなのか。
だが、これは本当に弱音なのだろうか。何年も言い続けられた評価は、本当に、自分の思い過ごしなのか?
これを否定することこそが……間違っているのでは?
額を抑えた手が崩れ落ちる。重すぎる頭が机に落ち、ぐしゃぐしゃになった前髪が指に絡まる。
抜けた痛みで目が熱くなり、跳ね返った息は熱く、湿り気を帯びる。
答えは出ない。出るわけがない。だって、指し示された答えを無視しているのはディアン自身だ。
望まれたとおりの姿になれないディアンが、期待に応えられないディアンが、正しい道から反れている。だから、答えなんてない。ないのだ。どこにも。
分かっている。だけど、どうすれば応えられるかなんてわからない。父の望む姿が、誰にも恥じぬ姿が、どうやったって思い描けない。
正しくあればいい。弱きを助け、姫を守り、間違いを犯さず、真摯であること。
……それは、どれだけ妹が無礼を働こうと咎めず、今以上の努力を重ね、迷うこともためらうこともなく弱音さえも吐かず。そうして、無心のまま突き進めば……本当に、そうなれるのか?
妹の、このまま迎えるであろう結末を予想しながら正そうとせず。全ての苦痛から遠ざけ、甘やかして。そうして泣かせることなく接することは……本当に、父の望む正しい姿なのか……?
頭の中が、世界が、心が滲む。かんがえられない。かんがえたくない。わからない。
かんがえなければいけないのに。また、おこられてしまうのに。
それでも、やはり答えは出ず。救いが差し伸べられることもなく。吐いた息は、静かに鼓膜を震わせた。
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