211.儀式の後で
耳鳴りは収まり、吐いた息は荒く、深く。
やがて支配していた白が引き、戻ってきたはずの色はぼやけたまま。エルドの顔も、見つめる薄紫も、全てが煌めいて、眩しくて。
心の底から満たされている。満ちていると自覚できている。温かくて、優しくて、だけど少しだけ苦しくて。切なくて。
嬉しいはずなのに、嬉しすぎて辛いなんて。こんな感情があることさえ、ディアンは今まで知らなかった。
これが加護を与えられるということなのか。これが……幸福と、呼ぶものなのか。
「……ディアン」
呼ぶ声はどこまでも優しく、柔らかく。いよいよ涙腺が壊れてしまったのか。
返事をしなければいけないのに喉が引きつって、顔が見たいのに涙が止められない。昨晩で枯れ果てたと思っていたのに、まるで無限に湧き続けているようだ。
「す、みませ……っ……う、れしいのに、止められなくてっ……」
早くおさめなければと、目を擦ろうとした手は遮られ、代わりにエルドの親指が何度も拭う。
少しかさついた、分厚い皮膚。その感触さえも嬉しくて、嬉しすぎて、本当におかしくなってしまったみたいだ。
「いいんだ。……そのままでいい」
頬を包まれ、肩を引き寄せられて。抱きしめられた腕の中で、顔を強く押しつけて。
背も頭も撫でられて、ようやく落ち着くのにどれだけの時間を要しただろうか。
もう大丈夫だと、伝えようと離した顔は、顎を捉えられて動かせぬまま。
そうして近づく唇に、自然と目蓋は落ち――。
「――そこまでです」
想像していた柔らかさとは違う感触に目を開けば、互いを遮るのは差しだされた手の甲。
いつ隣に並んでいたのか。あるいは、洗礼が終わった時には既にそこにいたのか。
妨害したゼニスに抱くのは怒りではなく、人がいるという事実を忘れて触れ合っていたことに対する羞恥。
赤くなっていた頬が、違う意味でまた染まっていく。穴があったら入りたいところだが、むしろ引き摺り出す勢いでエルドから離され、温もりを惜しんでしまうあたり手遅れかもしれない。
「……ゼニス」
唸る声に、普段の呆れは混じっていない。なぜ遮ったのかと恨みがましい視線も、相手を見上げているだけでこんなに威力が減ってしまうのか。
ダガンの時にはそうは思わなかったのに、相手が違うだけでこんなに捉え方が変わるとは。
……いや、単にこの姿のゼニスが大きすぎるというのもあるかもしれない。
「一度目はともかく、二度は許容しかねます。気持ちはわかりますが、それ以上の接触は彼女たちも許しませんよ」
自分だけではないと咎める間にも、段の下に待機していたトゥメラ隊に囲まれ、ハンカチで顔を拭われ戸惑う。
なんというか……ここに来てからずっと子ども扱いされている感が拭えない。
年齢を考えれば確かに子どもなのだが。間違えてはいないのだが。一応成人しているのにと思うのは不満ではなくなけなしの自尊心からか。
「今のはそういう流れだっただろうが」
「事が終わればいくらでも。ですが、許されても抱擁まででしょう」
恨みがましい目も、蒼い瞳に刺さることはない。冷静さを取り戻せば、人前で抱き合うことも恥ずかしさが込み上げるが、エルドはそれでは満足できないらしい。
今だって抱きしめられてはいないが、手は一度だって離されず。むしろますます力強くなるばかり。
この程度の接触なら普段からしているはずなのに恥ずかしくて、嬉しくて。温かいのに心の中は複雑だ。
「婚前交渉を防ぐためです。愛しさ相まってやらかさないとは言いきれませんので」
「いくら愛し子とはいえ、手を出されるのであればヴァール様とて容赦いたしません」
ゼニスを援護するように、リヴィもその部下もエルドを睨む。態度は少し柔らかくなったようにも思えるが、向けられるのが剣先ではなく鋭い視線に変わっただけで大差ないのか。
なんて思考を逃そうとしても、突きつけられる単語にいよいよ顔を隠したくなる。
婚前交渉。……つまりは、性行為。
いや、愛し合っているのだからそういうこともするだろうが男同士だし……でも精霊の伴侶に性別は関係ないから、いつかはするのかもしれないが。でもそれはエルドだってわかっているはずで、だから今は考えるべきではなくて。
必死に頭の中から煩悩を消そうとするが、そんな努力も手を握り直されることで無に帰す。
だが、過剰に意識しているのはディアンだけだ。エルドが次に口にする言葉は決まっている。そんなことするか、あるいはどこまで信用がないんだ。
そうやっていつものように呆れた顔でゼニスを見上げ――。
「……これでも手を出すなっていうのか?」
「……!?」
これ、と称されたディアンは再び腕の中に。首まで真っ赤に染まった肌はどう足掻いても隠しようがなく。否定ではなく理不尽さを訴える言葉に頭の中まで真っ白だ。
先ほどとは違う意味で涙が溢れそうになる。穴の代わりになりそうなものはあるが、しかし彼の肩に顔を押しつけるのはそれこそ逆効果というもの。
……つまり、彼の手に頭を押さえられている今、ディアンは限界を迎えている。
「逆になぜ許されると?」
姿は見えずとも、響く声は今までで一番低く。それこそ、ぐるぐると唸る声まで聞こえてきそうな勢いだ。
リヴィ隊長もいつ抜剣してもおかしくはない。止めなくてはと思うのに、恥ずかしすぎて顔を上げられないし、体温からどうしても連想してしまい、ますます動けなくなる悪循環。
「そこまで。まだ儀式は終わっていませんよ」
収拾がつかないと危惧した状況は、軽く手を叩く音で静寂が戻る。
ようやく離された身体は未だ熱く、しばらく冷めそうにないと思っていた頬の赤みが、彼女の姿を捉えて一気に引いていく。
それは冷たく睨まれたのでも、呆れた顔をされたのでもなく。深く、美しいカーテシーを目にしたからで。
「――ディアン・エヴァンズ様」
陛下、と呼ぶ声は強いなにかに遮られる。それは人ではないと感じさせる響きでもあり、彼女自身の持つ美しさでもある。
滲むのは本能からの畏れ。人が目にしてはならないと、聞いてはならないと。それでも、聞き届けなければならないことへの緊張。
「この時よりあなたは、ヴァール様の婚約者……すなわち『選定者』となります。かの御方に嫁ぐまでの間、御身を守り通すことをアピスとヴァールの名に誓います」
気付けば、隣に並んでいたリヴィも、ついてきていた彼女の部下も膝を折り、ディアンへ頭を垂れている。
今、この瞬間。ディアンは誰よりも守られる存在となった。エルドと結ばれるまで、彼と精霊界へ向かうまで。
その日までなんの憂いもなく、傷一つ付くことなく。いままで嫁いだ人間と同じように。
姿勢を戻し、見据える金に向き直る。実感はない。自覚も、まだ追いつかない。だが、この言葉は深く受け止めなければならない。
精霊と人間の均衡のために。これからの自分たちのために。
「本来であれば、その日が来るまでグラナートを専属にする予定でしたが……代わりにトゥメラ隊を護衛につけます。……そして、ヴァール様」
耳慣れぬ響き。だが、これから何度も聞くことになるその名に反応した男も女王と向き直り、金を見下ろす。
「『選定者』を得られたこと、人間を代表しお慶び申し上げます。されど、我々教会もまた人を守る立場。……どうか、ようやく得られた愛し子を悲しませることのなきよう、お願い申し上げます」
深く、深く下げられる頭は形式以上の意味を持っていただろう。
どうか道を誤ってくれるなと、心からの願いはエルドにどう響いたのか。
見つめる薄紫だけではわからない。いや、言葉にしてもディアンには伝わりきらない。
それこそ何百年という月日の中。互いに渦巻くものは、それぞれ違うのだから。
なんて、温かな気持ちで見守っていられたのも束の間。顔を上げた女王の目は、じっとりと睨み付けるもので。
「貴方様におきましては、節度のある対応を重ね重ねお願い申し上げます」
「……わかった」
「初めての愛し子だからという見苦しい言い訳などせず、過ちを犯さぬよう、くれぐれも!」
「わかったわかった! もうキスはしないから!」
だからいい加減にしろと、両手を上げて降参の意を示すもロディリアの視線はなおも強い。
否、むしろ先ほどよりも険しさを増している。
「すでにしたのですか。このケダモノが」
「お前な……一応まだ外向けのテイはたもっとけよ……」
もう手遅れだろうが、と。吐いた息は自身か彼女に対してか。割合にすれば、エルド自身に向けての方が多いのは間違いない。
滲んでいた畏れが引き、代わりに増すのは違和感。否、こちらが本来の彼女の口調であることは、昨晩の雰囲気からも察していたこと。
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