207.ディアンの選択
研ぎ澄まされた空気の中、怒りは響く。その心臓に打ち付けるように。甲高い耳鳴りのように、強く、強く。
身体の震えは寒さではない。胸倉を掴み、引き寄せる力が緩むことだってない。
見下ろした瞳が見開かれる。当然だと受け入れた薄紫に光が戻り、網膜を焦がす。
睨み付ける紫。爛々と燃える炎。その光こそ、まさしくエルドが求めていた輝きで。
ディアン、と。呼ぶ名は音にならない。なったところで、それは掻き消されていただろう。
どうして許せるというのか。その矛盾を。意思を尊重すると言いながら狭める男を。選ぶ前からそうだと諦める男を……どうして!
吐く息は獣のように荒く、ディアンの思考を鈍らせる。突き刺さる冷たい空気は、もうなんの抑止にもならない。
「……メリアが『花嫁』ではないと言われ、本当は僕だったと知った時、確かに戸惑いました。今だって信じられません。資格だって……『花嫁』としての教育を受けていない僕が伴侶になり、精霊の抑止となるよう導くことだって、できるわけがないと思っていました」
いいや、今だってそう思っている。自分に精霊と人間の均衡をたもつ重責など務まらないと。己の身すら守れない存在が伴侶になるなど。自分自身だからこそ、今だって許すことは難しい。
語る口調は感情に比例せず静かで、だが掴む指は震えたまま。白く変色する指が本当に掴みたいのは服なんかではない。
「だけど……っそれ以上に、僕は……」
喉が詰まる。抱いてはならなかった感情を、否定せねばならなかったそれを、口にするのはこんなにも恐ろしい。
だが伝えなければならない。彼が明かしてくれたように、ディアンも隠すことなく。彼に。
「――嬉しかった」
じわり、溢れる。言葉が、感情が、今まで隠そうとしてきた全てが網膜を覆って、溢れ出してしまう。
止められない。止める必要なんて、もうない。
「あなたと共にいられる理由を、あなたと一緒にいられる可能性があることを。こんな邪な感情、抱いてはいけないとわかっていた。それでも……僕は、嬉しかったんだ」
見つめ合ったまま絞り出した声は小さく、震えて聞きづらいものだったかもしれない。それでも、それは心からの声。
ああ、そうだ。あの時抱いたのは紛れもない歓喜だ。もう一緒にいられないと思っていた相手の傍にいられる理由ができたことへの。
そんな私欲で判断してはいけないと、義務を果たさなければならないと。そうわかっていたからこそ抑えつけていた感情は、もう隠すことができない。
溢れる。伝えなければあふれて、溺れてしまう。そうして藻掻き苦しみ、それでもこの想いを捨てることもできないまま。ずっと、抱え続けてしまう。
「諦めるつもりだったんです。一緒にいられないとわかっていたから、ここに着けば終わる旅だとわかっていたから。約束が果たされた後は、もう二度と会えないことにも納得しようとした……っでも、無理だった……!」
ずっとずっと言い聞かせていた。言い訳にしていた。約束が終わるまでは一緒にいられるのだと、だから旅が終われば離れなければならないのだと。
精霊でありながらこの地に留まることを決めたエルドと、ただの人間であるディアン。本来なら姿を見ることさえ許されなかった相手。
この想いを伝えたところでエルドを困らせるだけ。これ以上を望むのは、身に過ぎていると。
だから諦めようとした。諦めるはずだった。旅は終わり、彼と離れて、そうして生きていく。彼を思いながら、この選択をずっと心の奥に残しながら。
……そんなこと、できるはずもなかったのに。
「もしこのまま離れれば、僕はずっと後悔します。あなたが望むように人として生き、誰かと巡り会い、結ばれ。そうしてあなたが思い描く幸福の果て、この生の終わりで想うのはあなたのことだ」
彼の言う、人としての生をディアンは想像しきれない。
伴侶を得ずに生涯を終える者もいれば、大勢の孫に恵まれる者もいる。子を成さず、二人で慎ましく生きていく者だって。
人として終えるのなら、エルドはどれでもいいのだ。
精霊にさえならなければ。人として死ねるのであれば、それが幸福なのだと。
……そうだとディアンに押しつけて、決めつけて。選択するのはお前だと述べるのと、同じ口で。
矛盾している男はディアンの訴えを受け止めている。それはまだ衝動から抜けきっていないだけかもしれない。
それでもいい。それでも、ディアンは伝え続けなければならない。
この臆病で、卑怯な者に。それでも愛してしまったこの男に。
「いつだって、どんな時だって、僕はあなたを想うでしょう。ここであなたと離れたことを、死ぬその時まで後悔し続ける。どんな幸福に恵まれようと、僕はあなたに伝えるべきだったと、ずっと」
思い出す度に苦しみ、考える程に辛くなる。どれだけの月日が流れようと、決してその痛みが薄れることはないだろう。
己の瞳を見る度に。彼が注いだ想いの欠片を確かめる度に深く、強く、刻み込まれるのだ。
それこそ、耐えられるはずがない。
「僕はあなたに誓いました。悔いのない生を全うすると。自らの意思で選ぶのだと。あなたの手をとったあの日に、あなたが僕を選んでくれたあの夜に!」
あの洞窟で、あの嵐の後で誓った言葉を忘れない。洗礼ではなく、己の意思として伝えた約束を決して忘れることはない。
それが欲しかったのだと抱きしめた腕の強さも、あの温もりだって、ずっとディアンの中に残り続けている。
それなのに、どうして。そうだとわかって、この選択を受け入れられるというのか。
後悔するとわかっているまま別れ、生きて。生き続けて、死ぬその時まで悔やみ続ける。それこそ彼への裏切りではないのか!
「その誓いをっ……他でもないあなたが破れと言うのか!」
光が沈む。だが、ディアンは腕を放さない。決して彼から目を逸らさない。
ずっと求め続けてきた答えが、待ち望んでいた答えがこれだなんて許せない。許さない。このまま突き放すなんて絶対に、許してはいけない。
許せばそれこそ恨み続けてしまう。そうだと言い切り突き放した彼も、諦めてしまった自分自身も。ずっと、ずっと。
それこそ、死が訪れるその時まで!
「……お前は知らないからそう言えるんだ」
寄せられた眉が、合わさらぬ薄紫が、呟く声が地に落ちる。跳ね返る響きは低く呻くように、耐えるように。
「人であるお前が俺と同じ存在になっても、その根本は人のままだ。自分を知る者が死に、お前がいたという証すら風化し。残るのは精霊に嫁いだという事実が語り継がれるだけだ」
今までもそうだったと。そうして、これからもそうなのだと。語る言葉はディアンが受け止める以上に重いものだ。
それを理解できぬと知っている。知っているからこそ、エルドは引き止めるのだ。その過ちを犯すことを。決してディアンが後悔しないように。彼を、守るために。
「この地にどれだけ想いを馳せても戻ることはできない。戻ったところで、お前を知る者はもうどこにも存在しない。死を望んだとしても叶えられず、苦しみながら生き続けるしかない。番うことを選べば、それこそ取り返しがつかない!」
「――だが全員がそうではない!」
だから諦めろと、見上げる瞳を睨む紫は鋭く、険しく。引き寄せた顔に浴びせる叫びは止まらない。
「たとえその経緯が同意ではなく、強いられた者が多くとも、受け入れた人間だっているはずだ! 婚姻が規制されてからは、それこそ納得して嫁いだはず! 全員が耐えられたとは言わない。だけど、全員が狂ってしまったわけでもない!」
精霊界がどうであるか。嫁いでいった人間たちがどうなったか、ディアンにはわからない。
だが、アピスのように耐えた者もいる。自ら望んだ者もいる。今も受け入れ生き続けている者だっているはずだ。
全員が絶望したのではない。全員が、エルドが恐れた結末を迎えたはずがない!
「それはっ……だが!」
「人は弱くないと、そう言ったのはあなたじゃないのか!」
詰まる音。その風にも似た異音はエルドの喉から。否定になりそこねた息が、ろくに吐き出すことも許されず。
強いと言いながら守らなければならないと言い、選ぶのはディアンと言いながら片方を塞ぐ。矛盾している。でも嘘ではない。どちらも彼の本心だ。
人のため、ディアンのため。人を思い続けてきたからこそその強さを知り、されど精霊である故に守りたいとも願う。それらは両立できず、それでも望んでしまうのだ。
人に誰よりも寄り添ってきた彼でも、根本は変わらない。精霊としてディアンの選択を尊重したいのと同じぐらい、そうであるのがディアンの幸福だとエルド自身が願っている。
だからこそ突きつけなければならない。この想いを。ディアンの選択を。その決意を彼に。自分を想い続けるエルドに。
「……人は、何度だって間違える。その度に悔やんで、惜しんで。それは僕だって同じだ」
誓いを守るためと言ったその口で否定するなんて、矛盾を指摘する立場にはない。だが、事実だ。
何度でも何度でも、人は……否、自分は繰り返す。
「悔いなく生きたかなんて、最期にならなければ証明できない。そもそも精霊でさえ選択を誤るのに、ただの人間が一度も誤らずに生きていけるはずがないんです」
本当に愛した者を失ったタラサのように。あの夜、傍にいなかったことを後悔し続けているように。
精霊でさえ嘆き、悲しみ、狂ってしまうのに。ただの人が、ディアンができるはずがない。
そうだろうと、問いかける男は答えない。答えられない。
ただ、その瞳はディアンを見上げる。見上げ続ける。ディアンの抱く決意を、伝える意思を。
「あなたと一緒になって、結局後悔するかもしれない。人のままでいればよかったと嘆く日が来るかもしれない。……だけど、あなたと離れるぐらいなら、それでいい」
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