206.エルドの選択
見開かれた紫は、エルドの瞳にはどう映っていたのだろう。
否、見えていたとてなにを抱けたというのか。
その視線の先にあるのは、かつての光景。あの洞窟で、エルドがディアンに魅入られたあの一時なのだから。
たき火に照らされたあの瞳を。輝きを失わぬ、あの黒を。
「死を恐れ、これから先を楽観することなく。それでも前に進むと……無謀と知りながらも己の信念を貫くことを選び、誰に強いられるのでもなく、自分の意思で決めたお前を。……お前自身が失われてしまうことを、惜しんでしまった」
「……ぼ、くを……?」
確かめるように囁いた言葉は、エルドには届かない。それでも、それは嘘ではないと声は続く。
隠すことなく、躊躇うことなく。秘め続けてきた想いはここに。ディアンの目の前に。
「精霊王が諦め、他の精霊が娶ることを許しても意味はない。だが、俺が加護を与えても娶らなければ、お前は人のまま生きていける。『候補者』として位置づけられたお前が今後、教会の外で暮らしていける保証もなかった。ならば、一ヶ月とはいえ外の世界を知ってからでも遅くはないと……本当に、最初はそれだけだった」
それ以上の意味はなかったはずだと。なるはずがなかったのだと。声にならぬ訴えは、揺れる薄紫がなによりも伝えてくる。
「選択する権利はお前にしかない。だが、今の状態で知ってもお前は選べない。全てを明かすのは聖国に着いてからだと……それがいつか、ここに着くまではと言い訳するようになり。結局、ここまでされなければ明かすこともできなかった」
卑怯者だっただろうと、わらう顔は見えない。光は交わらない。震える指だけが、ディアンに見える全てだ。
求めていたのは彼も同じだと。望んでいたのは、自分だけではなかったのだと。湧き上がる感情に、それでも視界を滲ませることはなく。
「欲がなかったとは言わない。成り行きとはいえ初めての愛し子だ。だからあの時、お前がそう決めたときに俺も……得られるのだと、錯覚してしまった」
なにを、と。掠れる声が問えば、ゆるりと顔が上がる。その光はやはり定まらず、されど強く。込み上げる畏れは人ではない存在に対してで。
それでも逃げなかったのは。逃げようと思わなかったのは、あまりにも……泣きそうな顔を、していたからで。
「――人に、望まれた事実を」
噛み合う音はディアンの中にしか響かなかった。それはずっとズレていて、合っていないことにすら気づいていなかった。
どうして違うと思っていたのだろう。彼はそうではないと決めつけていたのだろう。
精霊は、自分の存在を留めるために……人々に忘れられないために、加護を与えるのだと。
求められている事実を。必要だと思われている証明を。だからこそ加護を与え、愛し子とし、人間を伴侶に求めるようになったのだと。
ああ、どうして。彼はそうではないなんて思い込んでしまったのか。
誰よりも人を求めていた彼が。だからこそ遠ざけ続けた彼が、それを望んでいたはずなのに。
「かつてのデヴァスのように。畏れ、怯え、それでもあいつを求めた人間のように……そうだと自ら選択したあの意思を。ずっと憧れてきたあの瞬間を。求めたからこそ与える加護を」
加護の始まり。デヴァスの炎に触れた人間。その光景がいかに美しく、眩しく。そして、胸をかきむしりたくなるほどに焦がれたか。それはエルドにしかわからない。わかるはずがない。
それこそが、彼が人に魅入られ、囚われた瞬間なのだから。
「……だが、結局は他の精霊と同じだった。加護を一方的に押しつけ、満足していただけだ」
「っ、エル……」
「お前は! ……俺を選んだわけでは、ないのに」
張り上げられた声に喉が引き攣る。否定など聞きたくないと、誰が言ってもそうなのだと。項垂れ、額を押さえ、呻くような声に。どうして言葉が返せたのだろう。
事実だ。エルドは加護を与えたが、それはディアンから望んだのではない。真実を明かさぬまま手を差しだしたのはエルドで、それを掴んだのはディアンだ。
彼が焦がれていた加護の与え方ではない。
……それでも、選んだのは。彼に洗礼で誓ったのは、誰でもなく。
「……ディアン」
呼ばれ、目を戻し。それでも光は交わらず。額を押さえたまま、俯いたまま。彼は紡ぐ。
「本当に、お前が盟約を守る必要はない。お前は、当人たちの契約に巻き込まれたに過ぎない。お前が人として生きていくことを、誰も責める権利はないのだから」
女王にも、そしてグラナートにも言われたことだ。だが、違うと感じる理由を考えるのはあまりに愚か。
見つめる紫に宿る感情を知らぬまま、エルドはただ、言葉を続けるだけ。
「そのために教会が存在している。ロディリアも、トゥメラ隊も。ゼニスだって、お前が人として生きていけるよう守るはずだ」
「……あなたは」
羅列される名に、最も聞きたい響きはなく。問いかけたそれに返されたのは沈黙と吐息。
「……全ての責任は俺が負う。お前はそうだと伝えるだけで自由になれる。名簿士になるのも、他の場所へ向かうことも。もう、お前を妨げるものはなにもない」
答えは与えられる。ディアンの望まぬ形で。言葉にしなければ気付かないと、疑いもしない男によって。
「今までのことも、これからのことも全て。謝ったところでお前から奪ったものを返すことはできない。俺にこそ、こんなことを言う資格はないだろう。……それでも、」
声が途切れる。言葉にできぬと、表せられないと。言いよどみ、噛み殺し。それでも伝えなければならないと足掻き、溺れ。薄紫はディアンを見上げる。
彼の愛した人間を。唯一の愛し子を。その姿を焼き付けるように。
「――すまなかった、ディアン。……お前の幸せを願っている」
その言葉に嘘はない。たとえすぐに項垂れようと。その視線が噛み合わなくなろうと、心からの願いだと……懇願であると、ディアンだって理解している。
ディアンは人間だ。精霊に近づいているとはいえ、それでもまだ、人だ。そしてこれからも、その精神は決してその枠を外れることはないだろう。
人である限り、精霊であるエルドの葛藤を本当の意味で理解することはできない。
愛し子を求めながら定めるわけにはいかない矛盾も、己の意思に関係なく伴侶を娶るように強要され続けたことも。そうして、実際にディアンを巻き込んでしまったその後悔も。
彼がどれだけ人を思い、その幸福を願い続けたかだって。たった十八年しか生きていないディアンに、何百年の苦痛が理解できるはずがない。
人は人のまま生を終える。それが幸福であるという結論だって、ディアンが容易に否定していいものではない。
実際に人でなくなったからこそ苦しんだ者がいる。望まず求められたからこそ、苦しみ続けている者がいる。
自分のせいでディアンがそんな目に遭うのを恐れたことだって、ディアンは理解できる。その想いを。決断を。呑み込むことだって、できる。
それでも渦巻くのは熱だ。抑えきれぬ感情が、腹の奥から脳を焼く。焼け付き焦げるは理性か、辛うじて残っていた良心か。
縄の筋が弾けるように、怒りという名の圧に耐えきれなくなった心が足を突き動かす。
彼の苦悩を。千年以上に及ぶ葛藤を。望みながらも得られなかった渇望を、ディアンは理解できる。納得もしよう。そうだと受け止め、微笑みかけることだって、彼のためなら苦ではない。
だからこそ、伸ばした腕が胸倉を掴むのは。引き寄せ、見下ろし、睨むのはそうではない。
彼が自分を騙し続けたことでも、後悔していることでもない。心からの謝罪だって、その事実に比べれば無にも等しい!
ああ、そうだ。ディアンはエルドを許せない。許せるわけがない。こんなこと、許すわけにはいかない。
その言葉こそ、まさしく――ディアンに対する裏切りなのだから。
「――勝手に決めつけるな!」
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