197.恩人
その言葉に積み重なった年月に吐いた息は音として聞こえず、静寂は続く。
ディアンが洗礼を受けてから今まで十数年。子どもが大人になるには十分過ぎるほどの年月を彼は……その任務を果たしてきたのだ。
加護が与えられていない理由も、メリアが本物の『花嫁』でないことも知りながら、それでも助けることはできず。本当に見守り続けただけ。
それを裏切りと称することもできる。騙していたのかとなじることもできる。
あなたがそうしなければ、もっとマシに過ごせたかもしれないとつめることだって、ディアンには許されている。
目を伏せ、向き合うのはグラナートではなく己の内。今自分が抱いている感情に対して。
怒りではない。悲しみではない。だけど、仕方なかったのだと己に言い聞かせる慰めでもない。
「……あなたが、僕にしてくれた行為が全て任務のためだったとしても。それが僕への罪悪感から行われたものだったとしても……僕は、あなたに感謝しています」
顔が上がる。覚悟を決めていた瞳が揺らぐのは、その言葉が予想できていなかったからだろう。
恨みでも怒りでもなく、穏やかな表情を浮かべて感謝を告げられるなんて。だが、ディアンには彼をなじるつもりはなかった。
慰めではない。本当に、彼はグラナートに感謝しているのだから。
「僕に精霊についての知識を授けたのが任務の一環だったとしても、それがなければ僕は名簿士になろうとは思わず、あの家を出ようとも考えられなかった。僕に騎士を目指す以外の道を示してくれたのは、あなたが褒めてくれたからだ」
グラナートにそこまでの考えはなかっただろう。単に、落ち込んだディアンを慰めるためのものだったかもしれない。
それでも、あの言葉がなければ。今までの教育がなければ、その選択肢だって切り捨てていた。
自分程度ではなれないと。到底受かりはしないと。そうして諦めた後に……本来あるべき流れで自分は保護されていた。
教会にとってはそれでよかったかもしれない。それでも、名簿士になろうと思わなければ家を出るなんて行動もできなかった。
あの言葉がなければ、今の自分はいない。彼がそう言ってくれたから自分は……エルドに、出会えたのだ。
「名簿士を目指そうとしなければ、僕はあの人に会えなかった。あの人と共に過ごすこともできなかった。自分の目で見て、感じて、疑うことだってできないまま。……こうして、真実と向き合うことだって」
保護されていても、知ることはできただろう。だが、それはディアンが望んでではなく、一方的に突きつけられる形でだ。
なんの覚悟もできぬまま、訳も分からずに。そんな状況ではきっと拒絶していた。否定し、嘆き、そうして折れてしまっただろう。
今だって傷付いていないなんて嘘だ。エルドと共に過ごしたからといって、苦しんだ過去がなくなるわけではない。
それでも、ディアンは誓ったのだ。後悔しないと、悔いなく生きるのだと。
だから、前を向くしかない。今はまだ立ち止まることはできない。
知らなければならないのだ。どんな辛いことであっても、どれだけ信じがたいことでも、その先に進むためには全て必要なことなのだから。
そうだと思える今があるのは……その最初の切っ掛けは、やはりあの言葉。
だからこそ、恨みはない。怒りもない。彼の求める許しを、ディアンは与えることができない。
「たしかに、僕が苦しんだ切っ掛けはあなたの行いだったかもしれない。任務を放棄して、私情で保護すればどこかで変わったかもしれない。……それでも、僕をあの家から助けてくれたのは、あなたの言葉です」
「ディアン……」
「だから……今まで、ありがとうございました」
揺れる。揺れる。見据える紫を見返す赤が、大きく揺らぐ。
眉を寄せ、歯を食いしばり。込み上げるなにかを押し殺して……そうして、ふと力が抜ける。
それは、報われたというよりも、何かを諦めたような顔で。
「……私も一度だけ、自分に加護をくださった精霊に……デヴァス様にお目にかかったことがある」
遠い記憶だ。二十年前、聖剣を授かるために精霊界へ赴いた時のことを言っているのだろう。
数多の精霊に見られている中、盟約を交わしたとされる。その中に、オルフェン王の分身である彼がいないはずがない。
それは本来は会うことの許されない人間への興味か、己の愛し子に対する特別な何かだったのか。
「教会に属している者でも、精霊にお目にかかれるのはほんの一握りだ。トゥメラ隊どころか、女王陛下でさえその機会は少ない。喜ぶべき状況ではなくとも、誇るべきことではあったはずだ。……だが、実際に対面した私の中にあったのは畏れであった」
声が震えている。長い年月が経とうと、その衝撃は忘れられないのだろう。
あの強い光を。己の内から込み上げる感情を。本能からの恐怖をディアンは、知っている。
「あの時は人智を超えた存在への畏怖だと思っていた。だが、近づいてはならないものだと……あれ以上対峙していれば、自分が自分でなくなってしまうと、私は本能的に畏れていた。ただ遠くから一目見ただけなのに、今だって思い出すだけでこの有様だ」
乾いた笑いは自身に向けて。だが、赤は……悲しむ目は、ディアンに向けて。
「でも、君はそうではないんだね」
既に違うのだと。もう、根本からして『人』から離れかけているのだと。そう確かめるグラナートに肯定はできない。
それこそ嘘だ。恐ろしさを抱いたことは何度もある。
洗礼を受けたときも、旅の途中で助けられる時も、怒られた時も。その鱗片が見える度に身体は震えたし、逃げ出したくなった時もある。
でも、否定だってできない。だってディアンは知っているのだ。
それだけではないことを。エルドと共に過ごしてきた日々を。彼の優しさを。どちらも、彼のあるべき姿なのだと。
言葉はない。首を振ることもない。だが、苦笑するその顔が何よりの答えであった。
「――そうか。……そう、か」
繰り返される単語。同じ響きは、きっと違う意味をもっていた。
瞬き、開かれる赤にもう先ほどまでの感情はない。そうして微笑む顔は、ディアンの記憶通りのもの。
あの教会で、あの書庫で。いつも彼が浮かべていた優しいもの。
「君は、もう大丈夫なんだね」
「……わかりません。でも、どうするかは決めました」
答えは出ない。まだ分からないことばかりで、結論を出すにはあまりにも足りないことばかり。
だけど、すべきことは分かっている。あとは、それに向かって進み続けるだけだ。
「女王陛下も仰っていたが、盟約のことは考えなくていい。……君の人生だ、君が決めなさい。そうするだけの力は、もう君にはある」
もう助言は必要ないと、扉に向かった彼が立ち止まる。躊躇う気配は一瞬だけ。僅かに振り返った顔に、もうその名残はなく。
「少なくとも、あの男の見る目は間違っていない」
おやすみ、と。別れの挨拶が落とされて、扉が閉まる。
静寂の戻った部屋で一つ息を吐き、目を伏せ、耳を澄ます。
遠ざかる足音。扉の前にいるトゥメラ隊の気配。……そして、鈴のような可憐な音。
意識を研ぎ澄ませば、微かな光が浮かび上がる。たとえ少女の姿をしていなくとも、今は言葉がわからずとも、ディアンの声は届くはずだ。
伸ばした手の上、ふわりと揺れる光を乗せたまま立ち上がる。
「……僕をインビエルノ様のところまで案内してくれる?」
微笑み返すように、柔らかな光は僅かに揺れた。
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