196.グラナート司祭
待機していた護衛に止められることなく、扉が閉まる。
紅茶の申し出を断ったのはグラナートだったが、彼が言わずともディアンが断っていただろう。互いに長居するつもりがないことはわかっていた。
明かりを付け、テーブルの元へ向かう。蘇るのは国を出る前に駆け込んだあの夜のこと。
あの時とは違いソファーではないし、お茶だってない。もう一ヶ月。まだ、一ヶ月。体感は互いに違えど、過ごした時間は同じ。
「……ディアン」
席につき、言葉を切り出すことはできず。されど沈黙が続かなかったのは、その名を呼ばれたから。
俯くことなく、赤はディアンを見つめる。自身の罪に向き合うため。彼への思いを晴らすために。
「こんな言葉で片付けていいとは思っていない。だが……今まで君を騙し続けたことを、謝らせてほしい」
「司祭様……」
「……本当に、すまなかった」
拳を握る音はどちらから響いたのか。強まる鼓動に遮られ、ディアンの耳には届かない。
俯き、それから抱く感情と向き合う。
怒りではなく、されど悲しみでもない。あまりにもたくさんのことが起こりすぎて、感情も麻痺してしまったのだろうか。
裏切られたとも、騙されていたとも感じない。実際そうであっても、ディアンの内にあるのは恨みではなく……純粋なまでの疑問。
女王の話だけではまだ明かされていない詳細。なぜそうなるに至ったかの真相。ディアンはそれを聞かなければならない。
「……妹のことですか」
「いや。……それもあるが、私が犯した過ちはそれだけではない」
確かめるため呟いたものが否定される。視線は上がり、寄せられた眉へ。そうして細められた赤へ、再び。
「そもそも、事態がここまで捻れてしまったのは……君が加護を賜らなかったことを、陛下に報告しなかったからだ」
「……え?」
ぐるり、頭が回る。加護を賜らなかったというのは、言うまでもなく最初の洗礼のことだろう。
思い出したくもない。だが、色褪せることのない記憶。
英雄の息子という理由で衆人の元で行われた洗礼。期待と好奇の目に晒されながら、いつまでも跪いていた自分。
悲鳴じみた声に顔を上げ、加護を賜っていないことに焦った司祭の顔も。周囲の動揺も。父の、あの冷たい視線も。
一つだって忘れていない。一つだって、忘れられない。
だから、司祭様が立ち去る前になんと言ったかも。ディアンは確かに覚えているのだ。
「でも、当時の司祭様は……報告しなければと、確かにそうおっしゃって……」
あまりの想定外に、ディアンを放置したまま廊下へ駆け出す程だ。グラナートが庇ってくれなければ、あのまま晒し者になっていた。
そう、だからそれはあり得ない。意図して隠そうとしたなら、それを口走ることだってないはず。
「そう、彼もそのつもりだったはずだ。思い返しても、彼が隠蔽するような人物とは思えない。女王陛下からの信頼も厚く、優秀な人だった」
ディアンだって、会った回数こそ少なかったがそれでも覚えている。丸い眼鏡に太い眉、いつだって温厚な笑みを浮かべていた優しい人だった。
メリアに対しても注意してくれた数少ない人で……なのに、なぜ。
「洗礼が終わった後、再会したあの人は……明らかに様子がおかしかった。当時の私は動揺しているからと思っていたが、あの時点で何者かの魔術にかけられていたのだろう」
「……魔術」
「他人を操る魔法は禁忌とされているし、我々教会の者はその対策も行っている。だが……報告しないことを指摘された彼は逆上し、なにかに怯えるようだった。洗脳されていたと考えれば辻褄が合う」
グラナートの脳裏にもまた、当時の光景が蘇っているのだろう。
目を見開き、唾を飛ばし、逆上する司祭の姿。その言葉に従うしかなかった、当時の後悔も。
「当時助祭だった私が女王に申告する手段はなかった。いや、探せばあったのかもしれない。だが、私は彼を疑いきれず……なにか考えがあってのことだと、見過ごしてしまった」
「……でも、そんなの……隠そうとしても……」
当時の彼に、そこまで気付くのは不可能だ。彼を責めるつもりもないし、もちろん洗脳されていただろう司祭への怒りもない。
だが、あまりにもお粗末すぎる。ただの一般人ならともかく、ディアンの洗礼には盟約が絡んでいるのは女王の話からも明らか。
そんなの、いつまでも隠し通せるはずがない。
「その通り。術者がどんな狙いで司祭を操ったかは確定してないが……適当な精霊の名を告げさせただけでは騙せるわけがなく、すぐに陛下も気付くこととなった」
「それ、は、」
精霊の加護を意図して誤るのは、それこそ教会としてはあってはならないことだ。それがディアン本人ではなく、女王陛下に対してであっても、罪には変わらない。
怒りを抱くのは彼女ではなく、そう偽られた精霊だ。裁かれても仕方のない行い。
「その時点で精霊たちの意図がわからなかった以上、洗礼をやり直すこともできなかった。司祭を洗脳した術者の特定も、その狙いさえもが不明。結果として、メリアの洗礼が終わり次第、彼は司祭の地位を降りることになり、私は君の観察を命じられた」
「メリアの洗礼を待った理由は……」
「教会も把握できない相手が絡んでいる以上、こちらが感づいたのを知られるのは避けたかった。それに、まだその時はメリアが『選定者』となる可能性が残っていた。どちらを娶るか判明するまで、我々は手出しができなかった」
教会まで、精霊が『花嫁』を求めていると勘違いしたわけではないだろう。ただ可能性があっただけ。
子孫を娶るとは言われたが、それがどちらかまで明言されていなかった。ならば、それも仕方のないこと。
「直接精霊に問うこともできず、されど加護がないだけでは保護もできない。我々ができたのは、その日が来るまで君を見守ることだけだった」
「……そうして、メリアに資格がないと判明したのは、洗礼の日だったのですね」
返事はない。だが、その視線が何よりも肯定している。
「彼女の洗礼を公開しなかったのは、司祭を洗脳した犯人を特定する狙いもあった。万が一メリアが『選定者』であった場合に危害がくわえられないよう……だが……」
「……メリアが、洗礼を嫌がった。その結果、フィリアの加護を賜っていることがわかった」
事実を繰り返しても、まだ受け止めきれない。その力のせいで、父も母も彼女を許し続けていた。
言葉にすれば、こんなに簡単なのに。それ以上事実は変わらないのに。
「メリアが洗礼を嫌がった理由は」
「……私は『花嫁』なのだから、する必要はないと主張した。服が汚れるからと、跪くのが嫌だったんだろう」
深い溜め息はグラナートの口から。ディアンから漏れる音はなく、にわかに痛む頭を押さえることもない。
当時、まだ八歳の子どもだ。普段よりも綺麗な服を着せられ、ご機嫌だったことだけは覚えている。
そんな理由でと、呆れる気持ちも湧かない。当時の彼女にとっては、確かに嫌なことだったのだろう。
加護の力がなければ、父も咎めたのだろうか。必要なことだと、『精霊の花嫁』なのだから受け入れろと。ディアンの時と同じように、彼女にもそう強いたのだろうか。
加護の力に呑まれて許容してしまった今、その答えは得られない。
聞いたところで……なんの慰めにもならない。
「もしデヴァス様の加護がなければ、私も彼女の我が儘を許してしまっていただろう。……いや、結果的に彼女に洗礼を受けさせられなかったのだから同罪だ」
「ですが、それはフィリアの加護があまりにも……」
「いいや、そこでメリアに資格がないと証明できれば、君が今日まで苦しむことはなかった。……君が、ヴァンに躾と称して虐げられることも、不当な評価をされることだって」
息が止まりかけて、だけど呼吸は続いている。
……おかしなものだ。あんなにも否定したかったはずなのに、こうして受け止められるまでになっている。
自分の為を思ってのことだと。諦めずに努力し続ければ、そうして騎士になれば……やっと認めてもらえるのだと。
そうだと信じなければ惨めだったから。そうだと思わなければ、それこそなにもできなくなってしまったから。
そうやって自分を誤魔化しても、他者の目は欺けない。
「父は、僕が出て行ってからどうなりましたか」
「君への虐待容疑で監禁している。それもメリアの加護が関係なかったとは言わないが……」
「それは僕が出て何日後のことです?」
言い切らない理由を。そして、言いよどむ理由をディアンは気付いている。
そこに父の意思がなかったなんて、それこそ本人でなければわからないこと。
いなくなったのに気付いたのだって一日二日ではない。少なくとも一週間……いいや、教会が動いた結果だとすれば、父たちだけならいつになったのか。
まるで他人事のように考えてしまう。否、そうでなければこの異常性には気付けなかった。
自分が至らないのだと。だから、悪いのだと。あの頃のように全てを受け入れただろう。
「……そうですか」
胸に滲む冷たさに目を伏せる。
ああ本当に、なんてひどい呪いだろう。理解しているはずなのに、どうしても感情が伴ってしまう。
頑張ったのにと、辛かったのにと。苦しくても悔しくても、ずっと耐えてきたのにと。
あの時言えなかった言葉が突き刺さって、いつまでも抜けてくれない。
この痛みがなくなることはない。忘れることもできない。
……だけど、楽になることはできる。
あの川のせせらぎを。抱いてくれた腕の強さを。言い聞かせてくれたあの言葉を。
認めてくれたあの人の声だって忘れはしない。忘れることは、できない。
「当時のメリアの加護についてだが……ヴァンたちが魅了されたのは、メリアだけの力ではないと考えられている」
「……黒幕」
目を開く。話題は戻ってもグラナートの表情は戻らず、歪む瞳に混ざるのは後悔だけなのか。
「たしかにフィリアの愛し子には他人を魅了する力があり、制御の方法を学ばなければ他者に害を成す。だが、対策を施した教会の重役を二度も術に嵌めるなど、メリアだけの力では不可能だ」
教会だって馬鹿ではない。万全を期してメリアの洗礼に挑んだはずだ。その上で力に負けたならば……愛し子とはいえ、ただの人ではあり得ないこと。
ディアンの洗礼から二年経っても特定できず、今も断言できぬその相手。
いや、ディアンが予想できるほどだ。もう既に断定されているだろう。あとはその確信を得るだけ。
「それから十年間、犯人を特定しきることも、君を保護に踏み切ることもできず……我々にできたことは、君の安全を確保することだけだった。メリアを『精霊の花嫁』のまま放置していたのも、囮として利用していたにすぎない」
それではまるで道具ではないかと、反論する気さえ起きない。
逆の立場であったなら……まだ『候補者』である対象と、潜んでいるだろう犯人を欺くために利用しなかったとは言い切れない。
教会がなんの対策もせず、ただメリアを囮にしたとも考えにくい。ディアンを見守るのと同じく、彼女の監視も行っていたはずだ。
フィアナの愛し子として。その強大すぎる力が、我が儘の域を出ないように。
「我々が観測しているのは、一般人に対しての範疇を超えている。故に、保護するためには命の危険に脅かされるか、君から助けを求めてもらう必要があった。君があの環境に……ヴァンに耐えられなくなった時に受け入れられるよう、そして万が一『選定者』になった場合に備えて教育を施すこと。それが、私が女王陛下から下された任務……いや、君の洗礼が下される際に、選択を誤った私への罰だ」
ディアン、と呼ぶ名が俯く。頭が下がり、視界から赤が消え、鷲色しか映らず。それでもグラナートがどんな顔をしているのかディアンは知っていた。
だからこそ、返事はせず。その言葉を静かに待つ。
「君が苦しんでいると知りながら助けられなかったこと。そして、君が苦しみ続けてきたことも。……本当に、すまなかった」
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