18.馬車
開いた口は、なんと叫ぶはずだったのだろう。
いい加減にしろと叱るはずだったのか。黙れと、感情のままに怒鳴りつけるつもりだったのか。
その声は決して大きいものではなかった。それでも、誰もその声を聞き逃すことはない。低く、唸るような。あまりにも、聞き慣れた声。
それをディアンが間違えることなど、決して。
強張った瞳が意思に反してゆっくりとそこを見る。メリアたちが戻らなければならなかった方向。付き従うメイドの後ろ。
ゆっくりと、されど一歩ずつ確実に近づいてくる姿を見間違うことだってない。
「ヴァン……」
その名を。ディアンの父を呼んだのはサリアナだったのか。それとも、他の誰かだったのか。
「とう、さ……」
「なにを騒いでいるのかと聞いている」
細められた目の中、冷たい金がディアンを貫く。動じることはなにもないのに、張り付いた喉からどうしても言葉が出てこない。
「お父様ぁ!」
悲痛な声で走り寄る妹が、ヴァンの腕の中へ飛び込んでいく。目が下ろされたのは一瞬だけ。それはすぐに、より鋭さを増してディアンへと返ってきた。
「お父様、お兄様がまた私にひどいことを……!」
「ヴァン、違うのです。今回はメリアが――」
なにも言えぬディアンに代わり、声を出したのはサリアナだ。だが、それも向けられた手によって遮られ、最後まで紡げないまま。
「サリアナ様。庇いだては不要でございます」
「違うんですヴァン、ディアンはなにも……!」
「黙っていろサリアナ。……おい」
それでも説明しようとすればラインハルトからも止められ、そのまま後ろに控えていた騎士によってディアンとの距離も剥がされる。
向けられない視界の端、ヴァンを追いかけてきただろう司祭の姿を微かに捉えたが、助けを求めることはできない。
これではディアンが一方的に悪い図だ。
だが、怯んではいけない。今回ばかりは。今回に限っては、咎めなければならないことだった。父だって知ればメリアを咎めるであろう。今回のことを、ただの意地悪で片付けてはならない。させてはいけない。
だからこそ、睨みつける金から目を逸らさず。どれだけ揺れ動こうと、真っ直ぐに見つめ返す。
「ディアン。私は醜態を晒すなと言ったはずだ。それも殿下たちの御前でなど……」
「ですが、今回のことはメリアが――」
「黙れ!」
心臓が掴まれる。そう錯覚するほどに鼓動が跳ね、衝動が頭の先まで広がっていく。声は音にならず、呼吸さえも止まる。
「この期に及んで言い訳など、見苦しい真似をするな」
違うと、否定しなければならないのに声が出ない。弁解ではない、事実を伝えようとしただけだと、どれだけ思っても伝えられなければ意味はない。
「わた、わたしっ、なにもしてないのに、おにいさまがぁ……!」
射殺されると、そう思うほどの視線の下。泣きつく妹の姿に頭の中が鈍くなっていく。
なにもしていない。だからこそ、この程度ですんでいる。本当に実行していれば取り返しのつかないことになっていた。
伝えなければならない。でなければ、彼女は理解しない。理解しなければまた繰り返してしまう。その時になってからでは、遅いのに。
「殿下、サリアナ様。愚息が失礼をいたしました」
「ヴァン、違うの。ディアンは……!」
なにも言わずとも、ヴァンがディアンに求めるものはない。謝罪され、否定しようとするサリアナの姿が騎士に庇われ見えなくなる。
「全くだ。これが『花嫁』の兄では、ギルド長の苦労も忍ばれる。メリア嬢はあとでこちらからお送りしよう。先に戻られてはどうだ?」
「……ご配慮、痛み入ります」
もう一度、深く折られた腰が上がる。メリアをそっと剥がし、ディアンへ向かう足取りは荒く、強く。
見下ろされ、足が竦みそうになる。間違っていない。なにも悪くない、はずなのに。
「謝れ、ディアン」
声が頭の中に響く。重く、鈍く。妹のすすり泣く声に思考が淀んで、考えがまとまらない。
正しいことを、したはずだ。言わなければ罰せられたのは妹で、だからそれを止めなければならなかった。ならなかったのに、どうして。
吐き気に似た不快感が頭を巡り、視界さえ乱れていく。まともに考えられない。なにかがおかしい。おかしいのに、それがなにか、わからない。
だけど――言いつけは守らなくては、いけない。
「……もうし、わけ、ありません、でした」
声を、振り絞る。重たさに任せるまま頭を下げ、強くなる頭痛に眉を寄せる。
いつまでそうしていたか。掴まれた手首に縺れそうになる足を立て直し、引かれるまま歩き続ける。
妹の声がこだましている。うるさい。きもちわるい。わからない。なにか、なにかが、おかしいはずなのに――。
「――ディアン!」
――途端、呼吸が戻る。大きく肺を満たす空気に咳き込みそうになり、掴まれた肩の痛みに寸前で堪える。
霧がかっていた頭の中ごと視界が開ける。掴まれたまま振り返った先。正面から見据える赤にようやく声の主を認識できて、瞬く。
「し……さい、さま」
馴染んだ微笑みはそこにはない。だが、浮かべているのは怒りでもない。
恐怖を感じさせない光はただ強く、深く。まるでディアンの中へ刻みつけるように。
「明日、必ず教会へ」
短い伝言に答えられないまま、口から出たのは悲鳴にもならない小さな息だった。
無理矢理引かれた肩よりも、今まさに折られそうになっている手首の方が遙かに痛む。
息が上がっても足は止まらず、ようやく解放されたのは馬車に辿り着いてからのこと。
呼吸を整える間も与えられず、開かれた扉の中に押し込まれる。実際は腕を引かれ、先に乗らされただけだが、どちらも大差なかっただろう。
扉が閉まるなり馬車が動き出す。閉ざされた空間の中。家まで十数分……その間、向かい合ったまま、二人きり。
暫くは息をするので必死だったが、夢中でいられたのも数分だけのこと。落ち着いてしまえば、あとは苦しい沈黙だけが場を占めている。
視線は膝の上に。握り締めた拳の力は緩められないまま、頭の奥に残っていた霧に思考がぼやける。
今までも度々あったことだ。妹を叱り、咎め、そうして泣かれるといつも頭の奥が重くなる。
罪悪感とは違うはっきりとした違和感。なにかがおかしいと思うのに、それがなにかがわからない。時間を置けば自覚できるのに、そうなっている間はなにも考えられなくなってしまうのだ。
無意識に聞き流しているのか? だが、言われたことは耳に入っている。理解もしている。それなのに、思考を放棄してしまうのだ。
たとえるなら紙に落とされた水滴のように吸い込み、広がり、滲んでいく過程が見えていても止めることはできないのと同じ。考えようとすればするほど、ぐちゃぐちゃになっていく。
普段なら暫くその状態が続いている。というのも、朧気な記憶から掘り起こした記憶でしかない。そんな気がする、という不確かなもの。
だが、こんなにもハッキリしているのは……たぶん、あの場で名を呼ばれたからだろう。
話があると言っていたのに約束を破る形になってしまった。
よほど大事な話だったのだろう。あるいは、父との話し合いがうまくいかなかったのか。
あんなにも必死に伝えようとした姿をディアンは見たことがない。だからこそ、明日は必ず教会へ行かなければ。
司祭がなにを自分に話したかったのか。そうして、これからどうするのか。きっとそれは父にも言えない、自分でなければ話せない大事なことのはず。
希望ではない。それは直感めいたなにかだ。無視してはならない感覚は、胸の奥で蠢いて落ち着かない。
「……なぜ、メリアに辛く当たる」
明日こそ。明日こそ話を聞くのだと。固めた意思が唐突に投げられた問いで大きく揺らぐ。
低い響きだけで肩が跳ね、落ち着いていたはずの呼吸が再び乱れそうになる。悟られないよう……否、気付かれていると知りながら、ゆっくりと顔を上げていく。
窓から差し込む光に反射する瞳は依然厳しい。だが、僅かに目尻が和らいでいるのを見て、話を聞いてくれるのかと僅かな期待を抱く。
「……しては、ならぬことを伝えただけです」
肌がビリビリと痛み、耳の後ろで血流が巡る。ごうごうとやかましい音を塞げる唯一は、膝の上で固まったまま。手のひらに爪を突き立てたまま。
「父さん。メリアは、」
「門を見に行こうとした」
耳を疑い、理解し、目を見開く。ここが馬車の中でなければ、勢い余って立ち上がっていただろう。
「知っていたのなら……!」
「ディアン」
「っ……知っていたのなら、なぜメリアを止めなかったのですか」
勢いを抑えられても、言葉から滲む非難までは消せない。
吐き出された息は呆れか、疲れか。狭い空間では嫌でも強く聞こえて、鼓動は落ち着かぬまま。
「あの時点では止めていただろう。そもそも、殿下の前で咎める必要はなかったはずだ」
まだ頭が重いせいだろうか。信じがたい言葉が聞こえた気がして首を振る。
「……殿下の前ででも止めなければならなかったことです。それに、止めたからといって解決したことにはなりません」
他のことであればまだ見逃した。どれだけ異常でも、どれほど愚かなことでも、両目を逸らし感情を捨て、その場だけでも平穏に終わらせようとしたはずだ。
だが、今回は違う。ただの叱咤ではすまない。どんな結果になるかわからないはずがない。
英雄と呼ばれた父であるなら。実際に精霊王と対峙した者ならば。
ただの想像ではなく、その身で確かに感じたからこそ、最も怒らなければならないはずなのに。
「他に言い方があっただろう。なぜ泣かせるまで言い寄った」
それなのに、口から出るのはディアンを責める言葉ばかりだ。
晴れていたはずの霧が広がっていく。頭の奥で痺れ、痛み、蝕む不快感を振り払うことができない。
「今回のことが、いつもの我が儘と違うのは分かっているはずです。今回は未然に防げたとはいえ、その思考に至ったそのものが危ういと言っているのです」
「ディアン」
「精霊の怒りを買えば、いくら『花嫁』でも罰せられる。いつか嫁ぐと言っても、まだ彼女は――!」
「ディアン!」
空気が震え、目を開く。じわり、広がる痺れに思考までふやけて、考えていた全てが有耶無耶になっていく。
「口を慎め。不快な言い訳しかできぬなら、もう黙っていろ」
睨みつけた金色がディアンから逸らされる。どれだけ見つめようと、もう合わさることはない。
もう聞く価値もないと示され、奥歯が軋む。
咎めた理由ではなく、妹を大切にしないことへの非難。それは、守るべき精霊との誓約よりも本当に重要なものなのか。
問うことはできない。考えることも、できない。なにかが違う気がするのに、どうしても断言することができない。
「どのような理由であろうと、お前は英雄の息子として恥じぬ行動をせねばならん。……わかるな、ディアン」
言葉が、響く。文字通り、何度も何度も頭の中で繰り返される。
分かっていることだ。幼い頃からずっと言い聞かせられて、そうディアンだって努めてきた。
周りの評価が得られずとも、自分の実力が伴わずとも、父の名に恥じぬ人間になるのだと。だから、騎士になって姫をお守りするのだと。
そう信じて生きてきた。そうすることが正しいと疑うことすらなかったからだ。
……だが、父の言う恥じぬ行動とは、なんだ。
道を外そうとする妹を咎めず、泣かぬよう機嫌を取り、甘やかし、辛いことを全て排除する。それが、英雄の息子として相応しい姿なのか?
他人であれば違ったのか? 身内であれば全てを許してもいいと? ならば、今まさに責められている自分は……なんだ?
地面が揺れる。だが、馬車の振動ではない。直接揺さぶられていると、そう錯覚するほどに視界が揺れ動いている。
何かが軋む音は、ディアンの内にしか聞こえない幻聴なのか。
だとすれば、一体なにが、折れそうになっているのか。
「……だからといって、必ずしも騎士になる必要はありません」
言ってから、そう声に出していたことに気付く。失言だったと訂正しかけた口は落ち着く感覚に閉じたまま。
そう……そうだ。恥のないように生きろというのであれば、なぜ騎士になることを承諾した?
ディアン自身でも分かっている。今の自分は到底、その地位に相応しい人間ではないことを。誰もそれを認めないことを。
だが、サリアナの言葉に嘘はなかった。真実であれば、卒業とともにディアンは騎士になる。なって、しまう。
こんな落ちこぼれの入隊を認めてしまえば、どのように言われるか分かっているはずなのに。
入隊するだけが目標ではない。入れただけではダメなのだ。今のままではなにも変わらない。指をさされ、わらわれ、憐れまれる今となにも……なにも!
それならば、やはりあいつではダメだったと。そう笑われたほうがよっぽどマシではないか!
こんな形での入隊など。こんな……こんな、情けをかけられるなど、誰が望むというのか!
「騎士になると、誓いを立てたのはお前だ」
「まだ世間も知らぬ幼い頃の話です。夢を抱き続けるには、私は大きくなりすぎました」
命じた父の声は思い出せるのに、どれだけ頭を漁っても姫の前で誓った記憶を思い出すことはできない。
痛みを増す頭を振り、合わさらぬ目を見つめ続ける。
「これ以上執着したところで結果は変わりません。ただみっともなく縋り付き、現実を見ようともしない姿を晒すことが正しいとは……私には、到底思えないのです」
木霊するのはラインハルトの声か、クラスメイトの声か。名も知らぬ街の人々の声なのか。
今から諦めたところで遅いかもしれない。英雄の息子であるかぎり、嗤われ続ける一生を送ることになるのだろう。
だが、生き方を変えることはできる。簡単なことはない、結局なにも変えられないかもしれない。
それでも……このまま道化として生きるよりは、役立たずと罵られるまま生きるよりは、きっと。
「きっと他に適任が――!」
「もういい」
目は合わない。怒鳴られたわけでもない。だが、呟かれたそれは確かに拒絶だった。
「言い訳しかできぬなら口を閉じろと、私はそう言ったはずだ」
「っ、ですが……!」
「そうやって弱音を吐いている限り、誰にも勝つことはできんだろうな」
深い溜め息が空間を満たせば、胸の重みが増していく。否定したいのに、苦しくて息もままならない。
「評価を得られぬのはお前の鍛錬が足りないからだ。そんな邪心を抱いたまま振るう剣に、なんの力が宿るという」
鍛錬不足。それだけで片付けるには、あまりにも月日が経ちすぎている。十数年。もう十数年、ずっと努力を続けてきた。
精霊王にも誓って、手を抜いたことなど一度もない。一度も……たったの一度だって!
「と、うさん」
「他者の目を気にしている限り、お前は騎士にはなれない。評価されることを望み、本来の目標を見失ったその心そのものが、お前を弱くしているのだ」
言葉が入ってこない。理解が、できない。
だって、矛盾している。父の名に恥じぬよう生きろといいながら、他人の目を気にするなと言う。
英雄の息子として他者に認められるよう求めているのに、評価されることを望むなという。
成り立たない。成り立つはずがない。そう考えていることこそが、ディアンが未熟である証明なのか。
成果をあげ、されどなにも求めず。言われたことを成し、求められるままに生きる。
精鋭の騎士であれば。英雄とも呼ばれた戦士であれば、その感覚が分かるのだろうか。
でも、それでなにも感じるなというのは……なにも、考えるなというのは――まるで人形のようではないか。
「反省するどころか、そんな戯れ言を抜かすとは……明日の朝まで部屋から出るな」
返事はない。拒否は許されない。
怒りでも悲しみでもなく、湧き上がる感情をどう名付ければいいのか、ディアンにはわからない。
首も、指先も、力が抜けて動かない。視線は下へ。揺らぐ床から逸らせぬまま、聞こえてくる音までも遠ざかっていく。
座面から伝わる振動とともになにかがすり減っていく感覚だけが、ディアンの認識できる全てだった。
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