190.女王陛下
永遠に続くと思われた廊下も、いつかは終わりを迎える。
ディアンたちを迎えたのは、身長の二倍はあるだろう両開きの扉。両側に立つトゥメラ隊の足元、床に彫られた溝から流れる水はその先の空間から続いている。
辿った先は床の下。それは廊下の裏を流れているのか、それとも地下に通じているのか。そもそも、なんの理由でそうしているのか。
抱いた疑問は、守っていた二人が扉に手をかけたことで消散する。
「り、リヴィ様」
「……いかがなさいましたか」
記憶に残っていた名を呼べば、扉を開ける手も止まる。
今更怖じ気付いた訳ではない。ここで拒んだところでなんの意味もないこともわかっている。
だからこそ、止めたのはそうではなく。
「あ、歩きます……歩かせて、ください」
「陛下は寛大な御方です、このまま謁見してもよいと仰せになっております」
「いいえ」
だから大丈夫だと、なおも扉を開けようとする彼女をもう一度止める。
失礼だと考えたのも嘘ではない。だが、そうではない。そうでは、なく。
「歩きます。いえ、自分の足で向かいます」
「『候補者』様」
「お願い、します」
連れてこられたのではなく、自らの意思で来たのだと示すために。それでなにも変わらずとも。それが、なんの意味を持たずとも。
自分は、自分の意志で、ここに来たのだと。
「ですが……」
「リヴィ」
困惑する緑が、名を呼ばれて鋭さを取り戻す。
視線の先、囲まれたエルドの表情に変化はなく。……ただ、ディアンを見つめる瞳だけは、変わらず、優しく。
「頼む」
叶えてやってくれと続く言葉は音にならずとも、それがディアンに伝わったなら向けられた女だって同じ。
「……お支えします」
「ごめんなさい。……ありがとう、ございます」
苦笑され、僅かに申し訳なさが込み上げる。
おろされた両足に靴を履いていないことを自覚し、されど足裏に伝わる温度はなく。それが緊張のせいだけではないと、今のディアンが気付くことだって。
ゆっくりと扉が開いていく。差し込む光もなければ、吹き付ける風もない。だが、肌を刺す威圧感は間違いなくそこにあった。
これまでの内部と同じく、青と白を基調にした空間。その最も奥、数段しかない階段の頂点。
薄い布で覆われた先、透ける景色がなくとも、そこにいる人物が誰であるかも。
穏やかな水の流れはその両側から。扉に続く溝は壁から伝い落ちているものだと知っても、やはりなにも意味は無い。
布で隠された横に立つのは、トゥメラ隊と同じ鎧の女性たち。
段の下には、グラナートとゼニスの姿も。見知った存在に安堵できる状況ではなく、肩を支えられながら進む足が遅いのは、疲れだけのせいではない。
ようやく半ば頃まで辿り着き、そこで止められる。
王族に謁見する機会など。ディアンの記憶の中でも多くはない。
ノースディアでは、サリアナの父として話す機会こそあっても、このような場で会った記憶はそれこそ一度だって。
「膝を折る必要はありません」
正しい所作は思い出せず、されど立ったままではいけないと。屈みかけた身体を止めたのは美しい声だ。
透き通った、芯のある響き。それは高貴さを窺わせる高齢の女性のようでもあり、花が開いた少女のように可憐でもある。
己が虫なら花の蜜のように。干からびた大地であるなら、染み込む水のように魅惑的で……だけど、どこか無機質で。
頭の奥でなにかが警鐘を鳴らしている。まともに聞いてはならぬと、己の中のなにかが拒絶しているのを、ディアンは確かに感じている。
だが、それはサリアナに抱いたものとは違う。
もっと本能的な……そう、これは、人としての恐怖。
「陛下、代弁も無しで話されては……!」
動揺したのはディアンだけではなく、そばにいたトゥメラ隊も同じく。
代弁がなにを示唆するかはわからない。おそらく、彼女の代わりに誰かが話すことなのだろう。
「ここまで加護を賜っているのなら、隠す必要などありません」
慌てる周囲に対し、本人は穏やかなままだ。
言い終わるや否や布が裂け、それが水で作られたものだと知ったのは飛沫が上がったからこそ。
本物の布と見間違えたと、目を見張る間などない。取り払われた先、王座に座るその姿に目を奪われたからだ。
月の雫をかき集めたような銀の髪。顔こそ身に付けた布に隠され見えずとも、その姿形が想像よりも若いことは隠しきれない。
少女と呼ぶにはいきすぎて、されど女性と呼ぶには若すぎる。
愛らしく、美しく。されど、湧き上がるのは畏れだ。
人が見てはならないもの。認識してはならないものだと、己の本能が訴えかけている。
この人が……この存在こそが、人と精霊の間に生まれた最初の愛し子。
父を加護する精霊。シュラハトの、娘。
「よくここまで来ました『候補者』。私がオルレーヌ女王、ロディリアです。……ようやくお会いできましたね」
待ち望んでいたと、その声は隠さない。やっと会えたと。ようやく、この地に連れてこられたと。
それは目的のためか。あるいは、ディアンの安全を確保できたからか。
その真意はわからず。知れずとも、ディアンがすべきことは変わらない。
「……ディアン・エヴァンズと、申します。どうか、この先の無作法を、お許しください」
「許します。そして、許しを願うのはあなたではなく」
見てくれだけはなにも変わらず。首も振らなければ、俯くことも。
だが、その視線が。その見えぬ光がディアンの後ろ……そこで立っているエルドに向けられていくのを、その声だけで知る。
「そこの男でしょうが」
あまりにも冷たい声だ。非難し、責め立て、憎々しさすら感じさせる。
「ディアン」
思わず振り返ろうとしたディアンを引き止めるのは、名を呼ぶ声だ。先ほどの温度が嘘のように、何事もなかったように声は続く。
「全てを話す前に、あなたに確かめなければならないことがあります。嘘偽りなく、誠実に答えるように」
「……なに、なりと」
鼓動が強まる。それは女王の圧におされているだけではない。エルドを責めるその声を聞いたからでもない。
今まで目を背け続けていた予感。今はその時ではないと逸らし続けていた答え。その真偽が明かされる時が来たからだ。
受け止めなければならない。その為に……自分は、ここにいる。己の足で、ここまで来たのだから。
「あなたは、ここに連れてこられた理由をどのように聞かされていますか」
背筋を正し、息を吐く。大丈夫、これはエルドから聞いたことだ。知っている。だから、大丈夫。
「……僕が『候補者』であること。そして、王国の協定違反を証明するために必要だと伺っています」
ディアンが知らないことこそが、その証明になるのだと。彼らの……自分たちの父の罪を曝く、確固たる証であると。確かに、あの時エルドは教えてくれた。
なぜそうであるかは、それこそ今、明かされるのだと。
「では、『候補者』の役割とは」
だが、返されたのは望んでいた答えではない。そして、ディアンが知っていることですら、ない。
鼓動が跳ねる。指先が強張り、息が乱れる。
「それは……」
「なにをもってして『候補者』と呼ばれているか。なぜ、我々が長期にわたってあなたを監視し、保護しなければならなかったのか。……そこの男から説明はされましたか」
答えられない。……答えられる、はずがない。
それは全て、ここに着いてからとエルドは言った。聖国に、そして女王陛下に会った後に、全てを説明するのだと。
だから、ずっと胸に秘めていたのだ。己がなんの『候補』であるか。どうして、教会は自分をずっと観察していたのか。
異常だと知りながらメリアを放置し、グラナート司祭に自分を保護するよう任務を授けたのか。一つだって。
全てエルドの口から語られると信じていたから。だから聞かなかった。否、聞けなかった。
そうだと約束したから。そうだと彼に、宣言したから。
彼を、エルドを信じるのだと。彼自身に。そして自分に誓ったから、だから、
「なかったのですね」
「っ……せ、宣言を。女王陛下に謁見した後に、全てを説明してくれると……」
「つまり、あなたは『候補者』の意味も、彼の正体についても、なにひとつ聞かされていないのですね」
咄嗟に出た言葉は、ただの言い訳にしか捉えられなかった。否定できない。だって、聞かされていないのは事実だ。
エルドは嘘は吐かなかった。答えられないことは答えられないと明言し、気付かなくていいことは誤魔化し続けた。……それは、説明から逃げ続けたと解釈されて当然で。
だが、違う。それは答えられなかったからだ。言えないなにかが、あったからだ。
そうだと信じたいだけなのか。それこそ、目を逸らしているのか。ただ盲目になっているだけなのか。
どうしてこんな焦りにかられているかわからない。
それでも、答えなければ。否定をしなければ。そうだと認めては、きっといけない。
「エルド……っ、いえ。『中立者』様が、人でないことは知っています」
「そう察した、の誤りでは?」
指先が強張る。服を握りかけて、すぐにほどく。
目を逸らしてはいけない。気付かれてはいけない。
否、もう知られている。それでも、続けなければ。沈黙しては、だめだ。
「あなたが聡明であることは、グラナートの報告でわかっています。勘のいいあなたのことです、たった一ヶ月といえ、共に過ごしたなら説明されずとも気付いたことでしょう」
「いいえ。自分は『中立者』様の口から確かにそう伺いました」
嘘ではない。嘘など、吐ける度胸はない。
確かにディアンは聞いた。エヴァドマを下りたあの夜に。
愛し子ではないと否定しても、半分は当たっていると。確かに、エルドはそう言ったはずだ。
人ではない。そして、あの時目を逸らしていた答えは、もう補完されている。
嘘ではない。嘘では、なくて、
「では、彼の正体について話せますね」
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