187.抑えつけても死ではなく
……呼ばれている。
誰に、なんてわからない。どこからだって認識できない。
自分がなにをしていたか、どうしてここにいるかも理解できないまま。
地面の感覚がない。まるで宙を浮いているようだ。目を開いてもなにも見えず、手を伸ばしている感覚さえもない。
息苦しさに口を開いても楽にならない。まるでどこかに開いた穴から抜けているような、陸にあげられた魚のように多すぎる酸素に溺れているような。
暗いのに明るくて、冷たいのに熱くて。静かで、うるさい。
矛盾している。どれでもなくて、どれでもある。これは……一体、なに?
逃げなければいけない。それだけは分かっているのに、苦しくて、辛くて、考えられない。
水とたとえたそれは、まるで無数の腕のようにも感じられる。
力尽くではなく纏わり付くように。締め付け、絡みつき、叫ぶ口の中にさえ群がられる。 ごぼりと、粘性のある液体に吹き込むような音は幻聴だ。
実際にこの肺は萎みもしていなければ、逆に膨らませる異物さえもない。なにもない、なにも、与えられない。奪われていくだけだ。全部、全部。……全部。
それがどれだけ恐ろしいことか。泣き喚き、がむしゃらに走り、逃げ出したくなるほどのことか。そんな恐怖すら、ディアンを留めるそれらは撫でつけ奪っていく。
嫌だ。嫌なのに、こんな終わりなんて、こんな別れなんて嫌なのに。
どうしてそう考えたかさえも奪われ、ほどけて、わからなくなる。
だけど、こうなってはいけなかったことだけは覚えている。覚えているのに、その理由を思い出せない。
耐えなければならなかったのに。捕まってはいけなかったのに。死にたく、ない、のに、
ああ、そうだ。これは死だ。命ではない。それよりももっと大切で、恐ろしいもの。奪われたくなかったもの。失いたくなかったもの。
なによりも守りたかったのに。そうだと約束したのに。
消えていく。消えてしまう。僕は。ぼく、は、
「……ディアン」
それすらも形を失い、蝕まれ、そうして――最期を迎えるその間際。その声は、届いたのだ。
謝る声が、赦しを請う声が。されど、許されたくないと望む声は確かに、彼の名を呼んだのだ。
そう認識した途端、息ができる。
否、それは注ぎ込まれているからだ。暖かく、柔らかく。優しい光が惜しみなく。
この温かさを。この優しい感覚を覚えている。忘れるはずがない。忘れたくなんて、ない。
だって、これは……これは、あの人の――!
「ディアンッ!」
――景色が、弾ける。文字通り一瞬で。全てが幻であったように。
明滅する視界が徐々に色を取り戻す。だが、見えるのは一つだけだ。たった一つ。己の腕を掴み、必死に呼びかけるエルドの姿だけ。
数拍遅れて世界が形を取り戻す。見覚えの無い部屋。深い皺が刻まれたシーツ。その上で身を縮ませていた自分。
張り付く服の不快感に、汗をかいていたと気付く。頭の奥が重く、鈍いのは息苦しさのせいだと自覚しても、荒い息を止めることはできない。
なにが起きたのか、考えればすぐに記憶が追いついてくる。
ここにいるはずのない者たち。門を不正に使用した事実。
負荷魔法をかけられ、エルドからもらった首飾りで意識を保ったこと。
ペルデが彼女に抗い、そして……そして、自分が意識を、失ったこと。
「……ぁ、」
滲む。滲んでいく。なにも抵抗できなかった恐怖が。叩きつけられた死の気配が。ディアン自身が覚えていなくても、その身体は全て覚えている。
「ディアン」
掴まれた腕が痛い。だけど、それ以上に温かくて、熱くて、与えられる魔力の感覚に息ができる。
そばにいる。エルドのそばにいる。彼がここにいる。自分の隣に、確かに今、ここに。
待ち望んだ相手が。帰りたかった場所が。ここに。
「える、ど、」
力が緩む。解放された腕を必死に伸ばして、しがみ付いた背中の感触だって知っている。
それでも確かめたくて。本当に夢ではないのだと信じたくて、何度も何度も、その名を呼ぶ。呼んでしまう。
「エルド、エル、ド……っ……エルド……!」
「っ……ディアン」
抱きしめ返され、身体が潰される。だけど苦しくない。怖くない。
ここにいる。自分はまだ、ここにいる。この場所に、エルドのそばに、確かに存在している。
もう会えないと思っていた。もう二度と、こうできないと思っていた。
別れも告げられぬまま終わりを迎えるのだと。抗い、拒絶し、それでも敵わなくて。
「大丈夫だ。……もう、大丈夫」
呼びたいのに、呼び続けたいのに嗚咽が止まらない。
会いたかった。待っていた。帰りたかった。この場所に、ここに。彼のそばに。
逃げられないと分かっていた。勝てないと知っていた。だから耐えるしかなくて、それすらもできなくて。
信じていた。エルドが帰ってくることを。自分のところに、戻ってくることを。
それでも怖かった。怖かったのだ。恐れていた。彼のそばを離れることを。彼に二度と会えないことを。
なにも伝えていないのに、伝えられないまま終わってしまうことを。自分が自分でなくなり、彼との誓いを果たせぬナニかに成り果ててしまうことを。
込み上げる感情に名を付けることはできない。恐怖も、安堵も、後悔も。全てが混ざり合って言葉にならず。
「無事でよかった……っ」
絞り出すような声に、いよいよ喉が引き攣ってしまう。
不安にさせてしまった。悲しませてしまった。たとえディアンのせいでなくとも、彼を……傷つけて、しまった。
謝罪は言葉にならず、掻き抱く腕に力がこもる。
そうしてどれだけの時間、互いに確かめ合っただろうか。
昂ぶりが落ち着けば、ようやく現実が疑問と共に帰ってくる。どちらからともなく離れ、指で涙を拭われる頃には思考するだけの余裕も戻っていた。
自分が助かったことは分かる。だが、その前後は? サリアナはどうなった。メリアは……ペルデは、無事なのか。
「水は飲めるか?」
「……は、い」
自覚すれば、喉が渇いて僅かに痛む。座り直し、エルドに横抱きにされた状態で横から差しだされた水を受け取ろうとして、目を開く。
今までの一連を見られていたこともある。だが、それ以上に……そこにいた人物に対しての驚きが勝っていた。
「グラナート、司祭……?」
まだ一ヶ月前。だが、まるで何ヶ月も会っていないように思えたのは、あまりにも多くの出来事があったからだろう。
だが、目の前にいるのは記憶通りの人物だ。ここにいるはずのない……あの夜、それこそ二度と会わないと思っていた相手が、そこに。
男の手ごと水が揺れる。呼ばれたグラナートの表情は硬く、再会を喜ぶ様子には到底見えない。
「どうして……」
「ディアン、先に水を」
困惑するディアンに代わり、受け取ったエルドが口元でグラスを傾ける。
問いを口にすることはできず、言われるまま開いた唇に滑り込む温度は冷たく、まるで身体の底に染み込んでいくようだ。花の蜜のような甘さに、僅かに残る苦味。
味わったことがあるのに馴染みがないのは、船の上で飲まされた時より違和感がないからだ。嚥下するごとに満たされていく感覚は、むしろ心地良さすら感じる。
よほど身体は求めていたのだろう。気付けば夢中で飲み干し、吐いた息には力が感じられる。
やはり特別な水なのかと、浮かんだ疑問に気を取られるディアンの目に、苦々しい表情のエルドは映らず。故に、その理由を考えることも。
「なぜ、司祭様がここに? あれからなにが起きて――」
殿下は。妹は。ペルデは。あれからどれだけの時間が経って、そもそもここはどこなのか。
混乱が勝り、順序立てることのできないディアンをグラナートが見下ろす。
狭められた眉は怒りを抱いているようにも見えて、されどそうではないのをディアンは知っている。
その赤を。いつも自分を見つめ、なにかを押し殺していたその赤を。……その、苦しそうな、表情を。
「――『候補者』様」
聞き馴染みのある声から、聞き馴染みの無い言葉が呟かれた。身が強張り、息を呑む。
それでも、男の顔は変わらない。変わらないまま手は胸へ当てられ、頭は深く、深く下げられていく。
「子細は後ほど、女王陛下からご説明があります。……どうか、ご同行を」
それは、まるで鋭い刃物のように。深く、強く、ディアンの心臓に突き立てられた。
呼吸が止まったことを自覚し、唇は震えるだけ。
グラナートが命じられた任務は、『候補者』を聖国……もとい、女王陛下の元にお連れすること。
名前ではなく、その名称で呼んだのなら。それはもう、その時が来たということ。
息苦しさよりも鼓動の強さに翻弄され、無意識に見上げたエルドの表情は……あまりにも、苦々しく。
瞳が揺れるのは葛藤のせいだ。体調が回復するまで、あるいはもう少しだけ待って欲しいと。そう言いだすことができないことも、理解している。
協定を破ってまでディアンを追いかけてきたサリアナ。明らかに魔術にかけられ、強要されていたペルデ。なぜ同行してきたか分からずとも、本来ならこの聖国で過ごさなければならなかった妹。
彼女たちに襲われ、死にかけていたことを考えれば……待てとも、留まれとも、彼は言えない。
そうだと理解している。だから、その気持ちだけでディアンにはもう十分だったのだ。
「……エルド」
伸ばした手を頬へ。一度瞬き、より狭まる眉を見ないようにして。押し当てられる温もりに、微笑んだ顔は決して歪ではなく。
「大丈夫です」
「ディアン、」
「僕はもう、大丈夫」
分かっていたことだ。最初からこの日が来ることは分かっていた。
どれだけ先延ばしにしようと、抗おうと、この日が来ることからは避けられなかった。そうと分かって進み続けた。そうと分かって……エルドは、彼をここに導いたのだ。
あの日の約束通り。その宣誓を守るために。
本来ならエヴァドマの時に。その次は、ラミーニアの街で迎えるはずだった運命だ。
それを今日まで延ばしてくれた。何度も何度も、その最後を遠ざけてくれた。
楽しいことだけではなかった。辛いことだってあった。悲しくないわけじゃない、惜しくないわけがない。
……それでも、なんの覚悟も決めなかったわけではないのだ。
「エルド」
この名で呼べるのも、これが最後だろう。それでも、声は震えない。涙は滲まない。ただ真っ直ぐ、紫はその光を見上げ、笑う。
「あなたと一緒に過ごせて。あなたと出会えて……僕は、幸せでした」
一層強く、顔が歪む。それを見てしまえば己の中が揺らぐ気がして、咄嗟に瞑った瞳で熱を押し止める。
泣いてはいけない。……泣く時では、ない。
ディアンは十分満たされた。満たされたのだ。本当に。
……その思いだけで生きていこうと。そう自身を抑えつけられるほどに。
込めた拳に握るのは、未練がましく出てくる己の欲か。
我が儘なんて、言えるわけがない。だって、もうエルドは十分叶えてくれた。
だから、だから……自分は、自分の意思で選択するのだと。
「――あなた方と共に向かいます」
再び開いた紫は。彼のその瞳は、揺れることはなかったのだ。
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