184.その誓いは揺るがず
「だったらなんだっていうのよ!」
あまりにも呆気なく肯定される絶望を、ここにいる誰が理解できただろう。
どよめきは輪の外から。助けに入れず、しかし見過ごすこともできない観衆でさえ、それがなにを意味するか理解している。
城の地下に存在する精霊門。精霊界へ迎える唯一の手段。人のためではなく、その地に留まる精霊のための、魔力の供給源。
国王と教会の許可がなければ、くぐる以前に近づくことすら許されない。
それが人を守るために定められた教会との盟約だ。それを破った者は必ず罰せられる。極刑にかけられても当然だ。
それは精霊の怒りに触れる行為。人々の生活を脅かすほどの禁忌。
まだディアンが王都にいた頃、彼女には度々注意してきた。自分自身の在り方を考えることの切っ掛けとなったのもそれだ。
『精霊の花嫁』であろうと、それだけは破ってはならない。『花嫁』と呼ばれようと、例外では無いのだと。
理解されずとも、それで自分が咎められようと、ディアンは咎め続けた。止めなければならなかった。それが彼女だけの処罰で済まないと知っていたからだ。
「私は『精霊の花嫁』なのよ、門ぐらい使ったって――!」
……それなのに、目の前にいる彼女は、なんだ?
胸を張り、当然であると主張し。咎められることこそ不快だと怒鳴り、事の重大さを理解しようともしない。
これが、『精霊の花嫁』など。これが精霊の望む、愛し子の姿であるだなんて。
「――お前はっ」
軋むは奥歯か、握り締めた指か。それだけはしないという、最後の希望であったのか。
込み上げるそれを抑えられない。怒りも、絶望も、呆れも、全てが混ざり合って噴出する。
己の中のなにかが許すなと突き動かす。止められない。否、最早止める気すら。
「自分がなにをしたかわかっているのか!」
ベールに隠れていなければ、その紫の瞳は彼女を射殺していた。そうでなくとも、響く怒声に息を呑む悲鳴が血潮の巡る音に紛れて聞こえる。
それがメリアだけではないと、ディアン自身が知ることはない。
幾度も怒られ、叱られ。それでも、これほどまでに怒られたことは、こんなにも背筋が震えるほどに怯えたことなど一度だって。
それはディアンを蔑んでいたこともある。その助言が的外れであると、ただの口やかましい説教だと聞き流していたこともある。
だが、それを許さない威圧感に。今すぐ逃げ出したいほどに衝動にメリアの顔が歪み、そんな妹の姿を見てもディアンの内は変わらない。
サリアナが手引きをし、メリアの……『精霊の花嫁』のなにかが、門を通るだけの力があったとしよう。それでも、まだ説明がつかない。
門には見張りが存在する。不正に使用されないよう、誰かが近づかないよう。盟約を守るために、教会の者が必ず。
たとえ国王陛下が許したとしても、グラナート司祭までが許すはずがない。
いや、そうだと信じたいだけか。実際に彼女たちはここにいる。門を使い、この地まで来てしまっている。
司祭の目すら欺いたとして、ならばペルデがここにいる理由は?
自分よりも、この重大さを理解しているはずの彼が、なぜここにいる?
彼女たちのように連れ戻すためではない。ただ単に、いつものように流されて来たのでもない。
やつれ、衰えた姿。薄汚れた服。生気のない瞳。まるで囚人のような……。
「……ペルデ」
呼んだ名に返事はない。反応すらされない。
それは聞こえているのか、無視されているのか。判断はつかず、故に言葉を続ける。
「グラナート司祭は、この事態を――」
「黙れ!」
肩が跳ね、問いが遮られる。虚ろだったのが嘘のように瞳は鋭く、強い憎悪が滲む。
嫌われているのは知っていた。だが、ここまで露骨なものは今まで一度だってない。
怒りではなく、恐怖の滲む視線。それこそが、なによりもディアンの予感を肯定する。
グラナート司祭が知っているかは分からない。だが、少なくとも……これはペルデの意思ではないことを。
ゼニスの唸り声が一層強くなる。手を出すわけにはいかない。だが、このままではいけない。
エルドを呼ばなければ。だが、自分一人でこの状況を脱せるとは思えない。抗戦しようとしたが最後、病はディアンの動きを封じるだろう。
泣き声が響く。せめて彼らだけでも逃がさなければ。だけど、どうやって、
ぐるり、回るのは視界か、吐き気か。必死に前を見据え、息を続ける。
落ち着け。考えろ。どうすればいいのか、どうすれば一番いいのか。
……いや、違う。なにもしてはいけない。そして、なにもさせてはいけない。
エルドが帰ってくるまでこの状況をたもつのだ。逃げることも、戦うこともできないのなら会話を続けなければ。エルドが来るまで耐えなければ。
「……サリアナ」
殿下、と続けなかったのはわざとだ。幼い頃、騎士になるように命じられる前。あの幼い日々でだけ許された呼称。彼女が望み続けた呼び方に、笑みが綻ぶのを見る。
心の底から喜び、感嘆の声を上げる姿は少女のようだ。この一時だけ、まるで年相応の……王族とは思えぬ姿で。
だからこそ異様で、拒否感が勝る。それでも、彼女の気を惹かなければ。この会話を、続けさせなければ。
エルドが来るまで。エルドが戻ってくるまで、絶対に。
「どうして――」
「うるさいっ、うるさいうるさい、うるさい!」
甲高い拒絶。それはディアンが呼んだ彼女ではなく、妹の口から。喚き、叫び、がなり立てる声に理性は無い。
まるで化け物に対峙したように何度も繰り返し、ディアンを指す手は哀れな程に震えている。それは怒りか、恐怖か、混乱か。その全てだったのか。
間違いなくそれは正気ではなく。そして、理性を失った生き物に言葉など通じるはずがない。
「お兄様が悪いの! お兄様さえ戻れば全部元に戻るのよっ! ……はやく、捕まえてっ!」
金属の擦れる音が多重に響く。輪が縮まり、凶器はディアンだけでなく夫婦にも。
「やめろっ、彼らは関係ない!」
彼らを庇っても、包囲網は崩れない。淀んだ瞳に映る色はなく、顔の筋肉は失われたようにだらりと弛緩している。
明らかにおかしい。説得しても無駄だ。言い聞かせるべきは、やはり彼女たち。
「落ち着いてディアン。メリアも、そんなに興奮してはいけないわ」
まるで子どもの悪戯を咎めるように柔らかく、幼い喧嘩を見守るように優しく。どこまでも場違いな声は大きくないのに、どうしてここまで鮮明に響くのか。
「こんなことをしなくても、ディアンは帰ってくるんだから。……ねぇ、ディアン?」
そうでしょうと、彼女は笑う。愛らしく、そう疑いもせず。それが真実だと言うように。
それでも剣を納めさせようとせず、兵士への制止を呼びかけない矛盾。本当に言葉が通じないのは、誰であったのか。
「……まずは、彼らを解放してください」
「どうして? そんな必要はないでしょう?」
あなたがついてくれば、そもそも解放などと呼ぶ行為はしなくてもいい。ディアンさえ言うことを聞けば、危害はくわえない。
彼らを逃がすためには言う通りにするしかない。無関係な彼らを巻き込むわけにはいかない。
口先だけでも同意し、隙を見て逃げるのがまだ現実的だろう。
……だが、
「私は、帰りません」
衝動が突き動かす。言わなければならない。否、言わずにはいられない。
たとえ嘘でも帰るなどと、声に出したくはない。
「私が帰ると称せる場所は、既にあの国にはありません。私の帰るべき場所は私が決めます」
元より、二度と戻らぬつもりで家を出た。名簿士を目指すために始めた旅。もうノースディアには帰らぬと、そう覚悟を決めて飛び出したのだ。
あの国に、ディアンの居場所はない。彼が望むのはたった一つ、エルドのそばだ。
たとえ父が謝り、妹が改心し、全ての真実が明らかになり。
今までの評価が正当になったとしても。全てがあるべき形になったとしたって、帰りたいと望むのはあの人の隣。
たとえあと僅かな時間しか過ごせないと分かっていても、その時が来るまで、ディアンの居場所はそこなのだ。
他にはいらない。他など、いらない。
それは紛れもなく、ディアン自身の意思。
「まだ今なら引き返せます。これ以上の罪は――」
「大丈夫よディアン」
説得は微笑みに遮られる。
それだけなら、その言葉だけなら、本当になにも心配することがないと思えるほど。だが、違う。違うと知っている。ディアンは知っている。
彼女の肯定は、いつだってそうではないと。
「あなたが不当な評価をされていたことは証明されているし、学園のみんなも……いいえ、街の人もみんな分かっているわ。帰ればあなたは正式な騎士になって、本当に評価されるの。もう誰もあなたを馬鹿になんかしない。もうあなたを、落ちこぼれだなんて笑う人もいない。だから、なにも心配しなくていいのよ」
変わらぬ笑顔。変わらぬ主張。理解されぬことに対して息すらも出なかった。
確かにそれも一端だろう。不満を抱いていなかったと言えば嘘になる。傷付かなかったなんて言えない。
真実を知ったあの時、どれだけ絶望したか。それを言葉にすることだって不可能だ。
だが、違う。あの家を出たのは、あの国を出ようと思ったのは、自分が自分でなくなることを恐れたからだ。
父の言う通りに騎士となり、妹の我が儘を全て肯定し、異常だと知りながらもそれに従い続け。最後には、ディアンの意思とは関係なく彼女の隣に立つ。
疑問を抱くことすら許されず。ただ、望まれるままに従い続けるだけの……そんな傀儡などにはなりたくないと、そう望んだから。
名簿士になれずとも、たとえ逃亡の果てに命を落としたとしても。それでも自分が選んだことだから、だから!
評価されようと、過ちが正されようと根本は変わらない。あの忌々しい日々に戻るだけだ。
そう分かっていて、なぜあの国に行くなど思えようか。
悔いなく生きると。この生を全うするのだと、エルドに誓ったのだから!
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