175.嵐の後に
『――なぜだ!』
雷の音に眠りから引き上げられる。纏わり付く微睡みの中、それが落雷ではないと気付くのにどれだけ時間がかかっただろう。
まるで宙を漂っているように心地いいのに、聞こえてくる音は激しさを増している。
これは夢を見ているのか。それとも、現実なのか。
その境さえわからぬまま、意識は浮上と落下を繰り返す。
『お前も結局――同じ――!』
風は一層強く、雨は叩きつけるように。それでも、その叫びが紛れることはない。
その感情に比例するように世界が荒れる。だが、聞こえる声に勝るのは怒りではなく悲痛さだ。
『なぜだ、なぜ――』
問いかけに答える声はない。少なくとも、ディアンの耳には聞こえない。
なんて苦しい叫びだろう。信じていたのにと、音にならぬ訴えは直接聞いていないディアンにも痛い程に伝わってくる。
裏切り者と罵る声が遠ざかっていく。微睡みが強くなり、意識を保つのも困難。
そうして、再び眠りに落ちかけ――ふと、鮮明になる。
あれだけ感じていた眠気もどこへ消えてしまったのか。倦怠感も、吐き気も、今やその身に残っている不快は一つも残っていない。
勢いよく開いた瞳が世界を映し出す。水の沁みた床、閉ざされた扉、壁際で寝転がる船員たち、知らぬ天井。
順に辿り、それから身を起こす。支えにした腕は軽く、体勢を保つのだって難しくない。
あまりの変わりように困惑するか、獣に戻っているゼニスになにかしら感じるのが普通だろう。だが、今のディアンが抱くのは戸惑いはなく確信だ。
雨音が止み、風も途切れる。波は穏やかになり、雨雲も消えた。
扉の隙間から差し込む光は眩しく……だが、それが太陽でも月でもないことを、ディアンは知っている。気付いている。
それが本来、直視してはならないものであることも。この身に込み上げる焦燥感が正しいことも。全部、全部。
扉が開き、網膜が焼き付きそうな光に侵され、それでも目を細めずに見上げる。
雨に打たれて濡れた前髪。俯く姿勢も相まって見えにくい目元。だが、その瞳が……その紫が煌めくのを、ディアンは捉えていた。
腹の奥がぎゅうと掴まれたような、冷たくなるような感覚。されど、身体が震えたのは寒さだけではない。
耳鳴りのように甲高く、獣の唸り声のように低い音。嵐は過ぎ去ったのに風は強く、されど轟々と響くのは己の血潮。
だが、それが全て自分の記憶であることをディアンは知っている。あの夜、家を出た日。あの洞窟で……あの、全てが始まった瞬間。
震えは止まらずとも奥歯は鳴らず、そしてこの身を支配するのは恐怖ではない。
ジリジリと焦げていく瞳で、その光を見上げる。見つめ続ける。
息苦しさではなく、僅かに抱いた躊躇いに一度息を吸って。ようやく、声が音となる。
「――エルド」
声は震えなかった。かき消えることもなかった。
たった三文字の羅列に、紫が僅かに開くのを見る。それはディアンが起きていたことに対してだったのか。それとも、我に返ったのか。
数秒とせずに響くのは溜め息だ。否、それは深く息を吸った故の反応。一瞬の動作の間に世界が戻ってくる。
風は止み、音は消え、光が収まる。扉の向こうの景色は全てが赤く、もう一日が終わりを迎えていることを突きつけられる。
あの嵐が嘘のような快晴。名残は湿った床と、エルドの髪先から落ちる滴だけ。
変わらぬはずの足取りはどこか重々しく、そばに来るまで時間がかかったように感じていたのは、その帰りを待ちわびていたからこそ。
「触るな」
伸ばした手が拒絶され、指が揺れる。しかし、寄る眉を見てしまえば傷付くことはない。
「……濡れるぞ」
気遣う言葉に隠れているのは恐怖だ。先ほどまでの一連ではなく、ディアンに触れられることに対して怯えている。
握り、伸ばし。そうして……腕を下ろして触れたのは、彼の手。
跳ねた指先ごと包み込めば、伝わってくるのは氷のような冷たさだ。あれだけ長時間嵐に晒されていれば当然。
船の上で火を焚くわけにはいかず。しかし、なにもしないままではいられない。
たとえエルドが望んでいないと知っていても。素直に聞く気には、どうしても。
「寒く、ありませんか」
なんて声をかければいいか戸惑い、口に出たのはそんな当たり前のこと。
触れた手は微かに震えているし、ディアンの体温程度で賄えるはずもない。
そもそも、こう聞いたところでエルドがなんで答えるか、ディアンはもうわかっている。
「……ああ」
返ってきた言葉は予想通りで、浮かんだ苦笑は己の浅考な問いか、それとも不毛なやり取りにか。
「ゼニス」
誤魔化すように呼んだ相手は、既に布を咥えてこちらへ向かってくるところ。
人ではない手足でそばに来た彼を撫で、受け取った素材はお世辞にも触り心地がいいとは思えない。
それでも無いよりはマシだと広げ、頭に被せた途端に顔が見えなくなる。見えないのであれば、エルドがなにを思っていようと気にすることはない。
そう気付かないフリをしなければ、きっとなにもできなくなる。
「これ以上冷える前に着替えましょう。後でなにか温かい物を用意します」
とはいえ炎は使えないし、スープの材料もない。用意できてもせいぜいお湯ぐらいだろう。
それでも無いよりはマシだろう。彼が本当に寒いと思っていなくても、必要ないかもしれなくとも、気を紛らわせるぐらいはできるだろう。
裏切り者、と。叫ぶ声が耳にこびり付いて離れない。ディアンでそうなら、エルドならもっとだ。
彼と海の精霊の間に何があったか分からない。それでも、信頼していたのはあの叫びだけでも十分に伝わってくる。
信じていたのだろう。信じていたのに……エルドは、彼を裏切った。
真実は分からない。それこそ聞かなければ教えてもらえない。だが、それでエルドを傷つけてしまうことになるのではないか。
手が止まる。それは思考にふけたのではなく、その手を掴まれたからだ。
直接的な拒絶に今度こそ腕が跳ね、踏ん張る間もなく身体が倒れる。ただし、それは突き飛ばされたのでは無く引き寄せられた結果。
背中が固いなにかに支えられ、それが床でないことを知ったのは伝わる温度から。
上半身に感じる冷たさに目を見開き、しかし見える景色は薄暗く。雨に混ざる匂いに、一つ、瞬く。
抱きしめられている、と。状況を理解したのはそれこそ何秒要しただろうか。
「える――ど、」
鼓動が跳ねるのは雨の冷たさだけではなく、咄嗟に彼を見上げた瞳が灼かれたからだ。
被せた布のせいで薄暗く、抑えつけられた髪の中に覗く光。ディアンを映すその紫に、強い煌めきを感じ取って息を呑む。
先ほどよりも弱く、それでも人が視てはならないと、そう分かるほどの光がディアンだけに注がれている。ディアンだけが、見つめている。
両手は互いの身体に挟まれろくに動かせず、そもそも動かす気もなく。鳴り続ける鼓動の強さが、肩を抱く手から伝わらないことだけを祈る。
「あ、の……っ」
どうしたのかと、問いかけるはずの唇がなにかにくすぐられる。視界の端に映る糸。その先がエルドに続いていることに、髪紐がほどけていたことを知る。
普段は一つに纏めてあるから意識していなかったが、こうして自分に触れてしまうほどには長い。これでは、まるで彼に閉じ込められているかのようだ。
「どうした」
「どう、って」
「温めてくれるんだろう」
頬に手を添えられ、あまりの冷たさに熱が集まる。どれだけ冷やされても顔は熱く、それでも、やっぱり動こうとは思えない。
温まるなら着替えないと、とか。自分の温度だけでは賄えないとか。言いたいこともあるはずなのに、撫でられているうちになにも言えなくなってしまう。
なにより、見つめるその薄紫が優しくて、柔らかくて。……少し、悲しく見えて。
もし、己惚れでも思い違いでもないのなら。これは自分に甘えているのだろうか。
エルドと海の精霊の繋がりは分からない。だが、この様子を見るに……エルドも、裏切りたくて裏切ったのではないのだ。
そもそも、本当に裏切りと称せる行為かもわからない。それでも、こうして傷付くだけの仲だったのだろう。
聞いたところで彼の傷を抉るだけではないか。ただ、自分が知りたいという欲を満たしたいだけではないのか。
葛藤し、悩み。頬に添えられた手に触れて、握る。
もしそうなら、彼は答えない。嘘を吐くことなく、拒絶してくれる。それ以上彼を傷つけることはない。
だから、伝えるだけだ。知りたいというのではなく、その重みを受け止められると。話すことで楽になることもあるのだと。
「エルド。……その」
だが、実際に出るのはそんな躊躇いだけだ。それこそ自己満足でしかない。
伝えるだけだなんてどの口が言う。そんな判断すら彼の負担になるというのに。
彼の傷は、彼にしか分からない。それを共有することで楽になるかだって。
支えになりたい。そう考えることこそ、自分よがりではないか。
渦巻く感情をどうにもできず、声は意味を持たず。結局は、伸ばした手を背中に回すのが精一杯。
そう、今の自分ができるのはエルドを温めること。それだけでも彼が楽になれるのなら。それを彼が求めているのなら、それでいいはずだ。
伝わるように、誤魔化すように抱きしめるディアンの背を、同じように冷えた手が撫でる。
「……海の精霊について、知りたがっていたな」
不意に触れた冷たさに。囁かれた言葉に。心を読まれたかのような錯覚に、肩が跳ねる。
見上げた瞳の強さは変わらず、紫の中で揺れる己の瞳を捉え、狼狽えてしまう。
「い、え。話したくないのなら……」
「いや」
俯きかけた顔を戻され、見上げた光はやはり強く。恐れていた感情の中に覚悟の一端を見て、紫が瞬く。
「いいや。……これは、話すべきことだ。話さなければならない。お前には聞く権利がある」
言い聞かせるのは、ディアンにか。それとも自分自身になのか。
一度伏せられた紫からは読み取れず、再び開いた光を揺らしたのは迷いか、それ以外のものなのか。やはり、ディアンには分からない。
分からずとも、エルドの唇は開き、紡ぎ、語り始める。
「海の精霊……いや、タラサには昔、番うはずだった愛し子がいた」
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