172.嵐の前の
海の天気というのは変わりやすいものだ。
精霊の気まぐれであるとか、機嫌が悪いだとかとよく言われてはいるが、山よりも一層ひどく思うのは海の精霊が人嫌いで有名だからだろうか。
故にベテランの船乗りであろうと自然には適わず、どれだけ対策をしても荒れるときは荒れてしまう。
それでも長年の経験と知識により、ある程度の予測はつくものだ。そして、同乗している誰もが今日は晴れだと確信し、実際に雲の少ない澄み切った青空が広がっていたのだ。
……つい、先ほどまでは。
エルドの言葉を不思議に思い、心配しすぎだと笑えたのが嘘のようだ。今や空は分厚い雲に覆われ、いつ雨が降り出したっておかしくはない。
追い風こそ変わりないが、穏やかだった波は一つ一つが大きくうねり、船を容赦なく揺さぶりかけてくる。
想像よりも大きかったとはいえ、それでも小型の船には変わりない。転覆までは至らずとも、その揺れは強烈なものだ。
歴戦の船乗りでさえ耐えかねる強さならば、初めて船に乗るディアンなど言うまでもなく。
「大丈夫か」
頭を撫でる手に熱を感じていたのが遙か昔のようだ。その頬に赤は差さず、首を振ることさえできぬ顔は青白い。
エルドの不穏な言葉に落ち着かずに座っていたのはいつまでだったか。
見える景色といえば無骨な内装ぐらいなのに視界が回り、床に伏せてもまだ吐き気は治まらず。ゼニスを枕にして寝そべっても、声を出すのが精一杯。
まともに乗ったのはこれが初めてだが、一昨日にも乗ったはずなのにどうしてここまで気持ち悪いのか。
あの時はここまでの揺れは感じなかったし、不調は負荷魔法のせいだと思っていたのだ。
船酔いというものが存在するのは知っていたが、まともに起き上がれなくなるほど気持ち悪くなるなんて。
「すみ、ませ……」
「謝るな。……不調は吐き気だけか?」
滲む脂汗を拭われ、少しだけマシな気分になるのは心の持ちようか。あるいは……さりげなく、魔法をかけられているのか。
それを判断できるほどの気力も体力もなく、言われたままの言葉を素直に考える。
吐き気は揺れ初めてすぐから。目眩も同じく。それから……頭の奥の鈍い感覚も、ほぼ変わらぬぐらいから。
四肢が冷たくなるような錯覚が、本当に船酔いによるものかディアンには判断できない。だが、この全てが襲いかかってくる感覚に覚え場あるのは、一昨日にもこれを感じたからこそ。
そう。これは負荷魔法をかけられている時と変わらない。息ができるだけマシだが、重々しさと苦痛でいうなら上位に入るだろう。
大丈夫だと言いたくとも言えず、しかし首も振れず。返事ができぬのであれば肯定と取ってくれると期待しても、生気のない顔ではそれも叶わず。
「ちょっと待て――あ」
なにかを探る音のすぐ後、思わず漏れた声に目を凝らせば、手にはいつもの水筒が。振る動きは軽く、音もなく。つまり、中は空ということ。
「……悪い、船に乗るつもりはなかったから、補充し忘れた」
出そうとしたのは、一昨日も飲ませてくれたあの水だろう。薬でもなければ毒でもないもの。結局正体はわからないままだが、身体に悪いものではないのだろう。……多分。
「大丈夫、です。飲むほどでは、ありませんから」
笑みは苦々しく、平気に見えずともこれが精一杯。それでエルドの表情がマシになればと思っても、下がった眉が元に戻ることはなく。髪を撫でる手はますます柔らかいものに。
「ここからまだ荒れる。……無理だけはするな」
「……あ、の」
声を出すのだって本当は辛く、エルドが言う通りなら今のうちに休んでおくべきなのだろう。
じわりと滲む眠気は疲れからではない。心地良い微睡みに抗う理由は、この温もりが離れていくのが寂しいだけではなく、聞くべきことがあるから。
そう、今でなければならない。この旅は終わりに向かっているのだ。
『エルド』と話せる時間は……本当に、もう多くはない。
「どうした」
柔らかな声が注ぎ込まれ、その低音だけで気持ちが落ち着いてくる。
半分閉じかけた目蓋を撫でる指先だって優しく、このまま眠ってしまいそうになる意識を繋ぎ止めるのは、ディアンの決意だ。
彼と話すという、強い意志。
「船に、乗りたくなかったのは、こうなることが分かっていたからですか」
嵐か、それともディアンの体調が悪いことへの原因か。あえて対象を不鮮明にしたのは、どちらも求める答えになり得るからだ。
嵐が来ると断言したことは、まだ天候の読みが強いと言い訳できる。
だが、負荷魔法をかけられたような……この魔術疾患に似た症状と、飲ませようとした水。それは決して無関係ではないはずだ。
あれはただの水ではない。それでも、ただの船酔いで飲ませるようなものでもない。
エヴァドマの地で司祭たちに飲ませた時も、先日船の中で飲まされたときも、どちらも共通点は魔力の乱れだ。
ならば、なにかしらの干渉が行われている。そんなことができるのは、それこそ精霊ぐらいなものだ。
そうなることを彼は知っていた。人ではない、彼だからこそ。
「……正確に言えば、お前にそれを着せて乗ることが嫌だった」
溜め息は短く、それでも重く。ようやく語られた理由は、やはりディアンの予想通り。
それ、と言われたベールはまだディアンの姿を隠している。今からでも着替えるべきかと荷物に向けた目は、緩く首を振られることで否定される。
……今更、ということだろうか。
「これが、花嫁の衣装だからですか」
「それも理由ではあるが、根本ではない。火に注ぐ油にはなってるだろうがな」
地響きのような重々しい音は頭上から。まだ雨の音はなくとも、雲の厚さは増しているのは間違いない。
やはり、これは海の精霊が関与しているのだ。
気まぐれでも、虫の居所が悪いのでもなく、明確に怒りを覚えている。
自分……いや、候補者がこの衣装を纏っていることで怒りを抱かせているのであれば、『候補者』は精霊に関与した名称なのか。
『候補者』が花嫁の衣装を纏っていることで精霊の怒りに触れている?
……いや、それよりも考えられるのは。
「僕に関係なく、あなたと一緒にいることが、原因ですか」
薄紫が揺れる。僅かに見開き、逸らされ、そうして戻ってもそれが答えだ。
撫でていた指も止まってしまい、沈黙が続く。
エルドがこの場にいること。そして、花嫁の衣装を纏った人間がいること。それが、どう関係しているのか。
ディアンは問わず、しかし瞳はエルドから逸らされることはない。見上げる紫は弱々しく首を振る姿を捉え、再び視線は絡む。
「巡礼の儀式は、教会が定めたものではないと言ったが……禁忌と称して制限していることならある」
「禁忌?」
「巡礼は必ず陸路で行うこと。そして、海には決して近づかないことだ」
まさしく今のようにと、息はやはり重々しく、深く。巡礼が定着していた頃から、こうなることは分かっていたのだろう。
これしか方法がないから、知っていても止めなかった。だが、やはりこれは望んでいた展開ではないのだろう。
「巡礼を模して旅をした人間が海を渡ろうとすれば、必ず嵐で沈められている。かの精霊にその意図がないとしても、全ての人間が命を落としていることは変わりない」
今までも、そして今回もそうだろうと。見つめるのは床なのか、その下にある海なのか。
何百年も前の話だ。その間に、どれだけの巡礼が行われたか予想もつかない。だが、その全てと言い切るということは……本当に、それだけの人間がこの地に沈められてしまったのだろう。
「俺がいなくともこうなっただろう。だが……ひどくなるのは、俺のせいだ」
「……海の精霊と、なにか問題が?」
「いや、……」
精霊史でも、仲を違えて会わなくなった精霊は数多く存在する。復縁した例も少なくないが、どうやら今回はそうではないらしい。
否定は途切れ、また黙する。悩み、戸惑い、それでも隠しきれないと理解したエルドの表情に、迷いはなく。
「……あいつは、」
そうして、ようやく絞り出されたその声が……大きく船が揺れたことで途切れてしまった。
視界が乱れ、思わず顔を伏せる。全身を襲う倦怠感は凄まじく、圧迫感で肺が潰されてしまいそう。
否、実際に潰されている。目に見えないなにかに、まるで全身ごと潰さんばかりに。
思わず口を押さえたが、込み上げるのは吐き気ばかりで出る気配はなく。這いつくばっているのに前後不覚に陥り、呼吸さえままならない。
頭の奥が鈍く、重く。思考も回らず、突然の変異にただ振り回されるだけ。
「っ……ディアン」
床に立てた爪を剥がされ、指先を強く握られる感覚も鈍く。背に手を添えられ、耳元で言われるまでそうされていることの自覚すらなかった。
「落ち着け、大丈夫だ。……大丈夫だ」
繰り返し、繰り返し。ゆっくりと言い聞かせられる言葉に、言われるまま呼吸をする。胸は苦しく、頭だって回らず。
それでも、エルドの体温に集中すれば、少しずつ気が紛れていく。
滲む汗を拭われ、いい子だと囁く声が近いはずなのに遠くから響くようだ。
手を握られても、顔を上げられないのならその視線が自分に向けられているかだって定かではなく。
声が聞こえなくなり、どれだけ耳を澄ませてもわからない。いや、これは聞こえないのではなく、聞き取れないのだ。
普段ディアンに話すのとは違う、訛りの強い古代語。それは無意識か、それとも聞かせたくないからか。その判断さえ。
「大丈夫。寝ている間に全て終わっている」
手が離れる感覚に込めた力はほんの僅か。止まったのも一瞬で、温もりが離れてしまう。
伸ばそうとした手は倦怠感に支配され、ひどくなる吐き気に身動きひとつ取れず。手元にあてがわれた手から与えられるのは、温度と途轍もない眠気。
「……だから、いい子で待ってろ」
大丈夫。彼なら、本当になんとかしてしまうのだろう。信じている。そうしてくれると、わかっている。
だけど、離れたくないと。それでも一緒にいたいのだと。このまま、待っていたいのだと。
呼んだ名前すら形にならないのに、望みを伝えることもできず。最後まで感じていたのは、温かな手の感触。ただ、それだけだった。
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