168.巡礼者
「……はい?」
思わずそんな声が出てしまったことは許してほしい。
確かにこれはエヴァドマで花嫁が纏っていたベールだが、それがどうこの窮地と繋がるのか。
疑問符が飛び交う間も少女は両手を合わせたまま、これなら絶対に大丈夫だと興奮冷めやらぬ様子。
「悪いが、その手は使えない」
一連の攻防に負け、外で立ったまま否認するエルドの表情は苦々しい。
この顔も初めてみるものだ。知られたくなかったことは、その態度を見れば明確。
「なぜです? 巡礼者を装えば誰にも見られることはないでしょう?」
唸り声が一段とひどくなるのに比例し、ララーシュの問いかける声は少女らしく愛らしい響きを持つ。
「誰もその姿を見てはならないし、その行く手を遮ってはならない。ですよね?」
「それは……だが……」
「その、すまない。巡礼者というのは……?」
いよいよゼニスが吠え、それでも返事は煮え切らず。それがいいわと確信する少女にしか聞くことができない。
ディアンも知っていると思っていたのだろう。一瞬呆けた顔をしたが、納得したらしい彼女に笑みが戻る。
「今よりもずっと昔、精霊に嫁ぐ者は聖地と呼ばれた場所まで旅をしていたことは知ってる?」
「ああ。この国ではエヴァドマがそうだと聞いたけど……」
もう二週間も前で、そこまで詳しくは聞けなかったが話された内容は覚えている。
その国で最も高い山に登り、そこで迎えに来た精霊に連れられて精霊界へ向かうと。あの町ではまだその習慣が残っているのだと。
「その時に、花嫁となる者は必ずこのベールを被ることになっていたの。刺繍の柄は国によって違うけど、どこも白地で長いもの。それで顔を隠し、辿り着くまで決して脱がないと言われていたの」
「なぜ?」
「……その身を守るためだ」
諦めたような溜め息。補足はララーシュからエルドへ移り、薄紫はディアンの手元に注がれる。
「精霊に魅入られるほどの者なら、他に影響を与えると考えられていた時代だ。邪な者が近づかないよう、そしてその者に魅入られないよう。嫁ぐまではベールを被り、その詳細を知られないようにしていた。顔も、声も、性別に至るまで全てな」
当時を知っているエルドが言うのならば、正しい情報なのだろう。多少形が変わっても、教会で保護するという点は同じ。
……今のメリアの対応では、どこまでが知られていい情報かわからないが、おそらく公開していい情報はさほど違わないはず。
「当時はまだ教会が存在していなかったから、基本的には身内以外に本人を知る者はいなかった。今の婚姻の形になってからは形骸化し、昔はその利益にあやかりたいと同じように旅をする者を巡礼者とも呼んだが……今では実行するどころか、知っている奴すら少ない」
はずなのだが、と。堪えた溜め息はララーシュに対してだろう。
よほど勉強をしたか、この町の司祭様たちが熱心だったか。あるいは、愛し子だからこその教育が行われていたか。
「それこそ、そのベールがどんな意味を持つか知らない奴の方が多い」
「でも、聖地で挙式をした後、オルレーヌ国の教会で祝福を授かるまでが巡礼の流れと聞きました。教会で正式に廃止されていない限り有効だし、その顔を見ていない決まりも残っているはずでしょう?」
「誤解しているようだが、巡礼自体は教会が定めたものではない。最後に聖国で祝福を受けるのも、その方がよりご利益があるだろうという判断であって、教会側はなにも決めてないし協定にも引っ掛からない」
だから意味は無いと、それは使えないのだと。否定を重ねるエルドに感じるのは嫌悪感ではなく焦りだ。
理屈は通っている。巡礼の旅、その最後の祝福のために聖国へ渡ると言えば止めることは難しい。
言いようでなんとかなるはずだ。それなのに、ここまで渋るのには特別な理由があるはず。
ディアンだったら、ここで引き下がったかもしれない。
説明されないのは隠したいのではなくできないからだと。語られなくとも実行できないことなのだと、そう納得してしまったはず。
だが、今エルドと話しているのはララーシュだ。年にそぐわぬ聡明さを持っていても、無垢な少女には変わりない。
「でも、そうだと勘違いする人の方が多いのでは?」
だからこそその疑問は止まらず、彼女は答えを求めたのだ。
「それは……」
「知らないのなら説明すればいいのです。精霊様に嫁ぐときの古い習慣に則り、巡礼を行っている者の姿を見てはいけないし、邪魔をしてはいけないのだと。教会の人から説明されれば、普通の人ならそう思い込むはずです。……ね、そうでしょう?」
首を傾げ、問いかける姿だけなら愛らしい。
たしかに嘘は言っていない。教会関係者が古いしきたりだと言い張れば、普通は協定に抵触すると判断する。
ただ勘違いされた結果、自分たちの都合のいいように事が運ぶだけ。知らないことが結果的に自分たちに有利になっているだけだ。
いささか荒い作戦かもしれない。だが……なにもできずに待ち呆けるよりは、希望がある。
「エルド」
それでもと、渋る声を名前で遮る。絡む薄紫は戸惑いに揺れても、見つめる紫に迷いはなく。
「やりましょう。夜に収束する可能性が低いなら、まだこちらに賭けるべきです」
「だが、まだ落ち着かないと決まったわけじゃ……」
「エルド」
声が強まったのは無意識からだ。彼もこれが打開策だと理解している。理解した上で、それを避けようとしている。
確固たる理由があるなら話してくれる男だ。説明できないのなら、説明できないことも。まだ伝えられないのだと、彼はいつだって明示してくれた。
だからこの拒絶に理屈はなく、きっと彼個人の問題。
これ以上の言葉は不要だと、光は逸らすことを許さないほどに強く、真っ直ぐに薄紫を貫く。
どれだけその瞳が揺れようと、その表情が苦々しくとも、逃げないようにと強く、強く。
間に流れる沈黙は数秒か、それとも一瞬だったのか。乱暴に頭を掻き、深く息を吐いて。ようやく言葉が音になる。
「わかった。だが、俺がそのまま夫役をするのじゃ問題がある。せめて代役を……」
顔はディアンから足元に。だが、それは目を逸らしたのではなく、そこにいる姿を見たかったからだ。
だが、先ほどまでいた白い影。唸り、威嚇し、吠えていたはずのゼニスの姿はどこにもなく。
「おいまてっ、ゼニス! ……くそっ」
呼び止めたところで人混みに紛れていく彼を連れ戻すことはできない。
普段耳にしない悪態に動揺し、そんなにも嫌なのかと心に陰りが生まれる。
……その嫌は、一体どれに対してなのか。
「どうしてエルド様ではいけないのです?」
ゼニスに代役を頼むのはあまりに無理がありすぎると、そう突っ込む代わりに問うたのはディアンが口に出せなかったものだ。
戻ってこないと確信したエルドの表情はますます険しく、しかし溜め息を飲み込んだのは誰を勘違いさせないためだったのか。
「いけないわけじゃないが、確実に問題になる。俺一人が被るならともかく……誰か船員を借りられないか?」
「彼らでは追求された時に説明できません。それなら、まだエルド様が花婿役を務めた方が現実的かと」
「だが俺は……」
行為自体が咎められるなら代役を立てようとはしない。エルド自身がディアンの隣に並ぶことで、なにが問題になるのか。
巡礼に関して、ディアンが知っていることはほとんどない。教会関係者ではいけないのか、それとも『中立者』だからいけないのか。
それでも、今はこれしかない。
「エルド、フリをするだけです。僕とは嫌かもしれませんが、でも――」
「嫌なわけがあるか!」
なんとか説得しなければと出した言葉が怒鳴るような声に掻き消される。
食い気味の否定にディアンはもちろん、ララーシュも、彼の父も。誰よりそう叫んだ本人が驚き、我に返った言葉に意味はなく。
「いや、だから……嫌なわけでは……ああ、くそっ!」
繋げようとした言い訳は結局繋がらず、片手で頭を掻く仕草の荒々しさにも瞠目してしまう。
船での一連は別としても、こんなに取り乱した姿をディアンはやはり知らない。
だが、困惑しようと戸惑おうと、今の最善はこれだけ。
「……全力を尽くすが、船員の無事まで保証できない。それでもいいのか」
いくら雇い主であろうと、実際に危険を冒すのは無関係の者だ。彼らを巻き込み、最悪は害を受ける可能性があると。
問われた当主の顔に動揺はなく、頷く仕草に迷いはない。
「元より、彼らも覚悟の上です」
「……わかった」
乗り込むために馬車に足をかける彼の顔はまだ苦々しく。それでも、その薄紫の光は覚悟を決めたのだと、そう分かるほどに強く輝いていたのだ。
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