167.足止めの理由
「エルド」
無意識に手に力が入る。泳ぎそうになる目を薄紫に留めても、名を呼ぶ声は固く。
『……僕が候補者と呼ばれるに至った協定違反に、アンティルダは関与していますか』
『なぜ』
『大事なことなんです、教えてください』
見つめ返す光の強さに怯みそうになり、それでも逸らせば答えてもらえないと、瞬きさえせずに凝視する。
他はわからなくても構わない。どんな疑問だって後回しでもいい。だが、これだけは……あの国が関係しているかだけは、今知らなければならない。
まだ最後の可能性に縋りたい。そうではないと、自分の突拍子もない発想を嗤って忘れてしまいたいのだ。
だから関係していると。そうだと肯定してくれれば、そうできたのに。
『……確かに協定違反の一つには関与しているが、お前とは別件だ』
首は振られずとも、それは否定だ。違うという明確な答えだ。
最後の一つが消え去り、呼吸が歪になる。
教会が把握してないのでも、王家が協力を要請したのでもない。
誘拐の件をこの封鎖を繋げるには無理矢理すぎる。それでも、もうそれしか考えられない。
……だけど、こんなこと説明できるわけが、
「足止めという根拠があるんだな」
一瞬の硬直、強張る表情。声が出ずとも、答えとしてはそれで十分過ぎた。
直視できずに目を逸らし、握り締めた己の拳に視線が落ちる。
「それ、は……でも……」
隠したいのではない。庇うつもりだってない。ただ、ありえないのだ。
ありえないと分かっているのに否定できない。そうとしか考えられない。
否定しようとすればするほどに、そうだと裏付けることしか出てこない。
ありえないはずなのに。ああ、違う、これは……あってはいけないことなのに。
「きっとなにかの偶然で、だから、」
「ディアン」
肩を掴まれ、エルドの方へ向かされる。その力に痛みはなく、それでも抗うことはできない。
真っ正面から受け止めた薄紫は強く。強く、ディアンに訴える。
「お前は、俺を信じているんだろう」
そう言ったのはお前だと、ディアンの信じた彼が言う。
約束を守ることも、全てを明らかにすることも。彼が、エルドが自分の話を聞いてくれることも、全部。
信じている。信じていると、確かにディアンはそう伝えた。もう揺るぐことのない信念を、確かに、彼に。
「エルド」
「話してくれ、ディアン。……どんなことだろうと、俺もお前を信じる」
信じていると、光がディアンを貫く。不安にならないように、いつものように、大丈夫だと。
――ならば、なにを迷うことがあるというのか。
「……そもそも、僕が連れ去られたのはララーシュのついでではなく、僕個人も狙っていた可能性があります」
「なんだって?」
隠すつもりはなく、忘れていただけだ。
事が落ち着いてから耳に挟むつもりで……あまりにも多くのことが起こりすぎて整理もしきれず……。
いや、これこそ言い訳になるのだろうか。
「彼らは僕がディアン・エヴァンズであるとわざわざダガンに確認させ、僕が騎士になることまで把握していました。前者はともかく、騎士になることを知っているのはごく一部だけです」
思い浮かんでも数人しかいない。そして一人を除き、アンティルダに要請を出すだけの理由はない。
それでも否定したかったのは、その理由があまりにも突拍子もなかったからだ。こじつけにも等しい、理不尽とさえも言える動機。
「英雄の息子としてでも、『候補者』としてでもなく、僕個人として攫うだけの理由があるとすれば……それは……」
信じると、そう決めているのに言いよどんでしまう。
息を吐いて、何度も言おうとして。固くなった手を握られて……やっとそれは、言葉になった。
「――サリアナ殿下が関与している可能性が、あると」
薄紫が僅かに見開かれた理由を、ディアンは酌み取ることができない。否、考えるよりも先に繋がれた手へと視線が落ちる。
震える指先は、温かな温度に包まれ見えない。
「閉鎖しただけならまだ納得がいくが、なぜアンティルダと王女に繋がりが?」
そう思うのは当然だ。ノースディアに限らず、アンティルダは基本他の国との交流を行っていない。
貿易こそ行っているが、ほとんど情報も出回らず、ほとんどが噂止まりの話ばかり。
王族であっても接触は少ない。事情を知らなければ、王女殿下が関わっているなんて馬鹿げた考察としか思えないだろう。
だが、ディアンは知っている。そう、知っていたのだ。
忘れていただけ、思い出そうとしなかっただけ。だけどもう、目を背けることはできない。
「……サリアナ殿下の婚約相手が、アンティルダの第一王子だからです」
握る力が強まったのはディアンか、エルドか。それとも、今まさに思い出している少女の幻覚だったのか。
ディアン、と。記憶の中の少女が己の名を呼ぶ。
あの中庭で、あのトピアリーの影で、約束を結ばされるその前。その会話に至るそもそものきっかけを、ディアンはもう思い出している。
その後のことがあまりにも強くて、強すぎて、ほとんど忘れていたそれを……もう、思い出してしまっている。
「本当か」
「幼い時にですが、本人の口から聞きました。成人と同時に嫁ぐのだと……正式な婚約ではないので公表はできないが、確定であると」
教会でも把握していないのは、本当に内密にされていたのだ。それこそ、知っているのは城の重鎮と殿下たちだけ。
ディアンは本来知る立場ではないし、知ってはならないことだ。それでも覚えているのは、それが理由だと説明されたから。
この国を出て行かなくてはならない。だから、一緒に来てほしいと。離れたくないのだと。
そのために騎士になってほしいのだと。彼女はたしかに、そう言ったのだ。
「もし殿下が僕の生存に気付き、この街にいると知っていたなら……僕の身柄をアンティルダに依頼することは可能ではあります」
いくら正式な婚約者とはいえ、こんなことを依頼し、かつそれをかの国が承諾するなんて考えにくい。でも、そうならすべての辻褄が合うのだ。
彼らがディアンのことを知っていたのも、ディアン個人を狙っていたことも、こうして港を閉鎖していることだって。
「ですが、殿下が僕にそこまで執着する理由は……」
「――そういうことか」
響く低音に肌が粟立ち、まるで血が抜き取られたかのように体温が下がる。網膜の奥で光が散る幻覚を捕らえ、言い表せられない恐怖は、昨日感じたのと同じもの。
思わず顔を上げ、薄紫の奥で轟々と燃える感情に息を呑む。それは、あのローブを禁忌と称した時と変わりなく。
「エル、ド……?」
「……ああ、悪い」
名を呼び、瞬き。瞳からその熱は消えても、それはただ見えなくなっただけ。隠された激昂は、今もエルドの胸の奥にある。
「そういうことなら長居するべきじゃないな。なんとか隙を見て展開するしかないが……」
そこで視線を反らしたエルドにつられて外を覗けば、人混みから抜けてきた白い影を見つける。
馬車の後ろからついてきていたが、どうやら先に教会の様子を見に行っていたらしい。
「いけそうか」
吠える声はないし、首を振ることもない。だが、その瞳を見れば、望みが薄いことは十分に理解できる。夜まで待っても期待はできそうにない。
だが、船に乗れない以上、教会で待つ以外にとれる方法は……。
「……許可がおりた船はいくつある?」
「一番小さなものだけです」
聞こえた行き先は聖国とは真逆に存在する国だ。やはり、意図的に遠ざけているとしか思えない。
「行き先をオルレーヌに変更し、彼らを乗せて出航させろ。あとのことは私がなんとかする」
「お父様!」
喜ぶ声はララーシュから。声が出ずとも戸惑い、驚いたのはディアンだ。
「いけません、あなた方に迷惑をかけるわけには……!」
実質的に、ディアンは教会に保護されているのと同じ状態である。エルドに至っては言うまでもなく、この国に逆らっても影響はない。
だが、彼らは違う。最悪の場合はその地位を失うことにもなりかねないし、身体だって無事かどうか。
いくら街に貢献している商会とはいえ、貴族ではないのだ。ある程度の後ろ盾もあるだろうが、それもどこまで通用するか。
エルドもそれは望んでいないはずだと首を振るも、同じように男も首を振り返す。
「詳しい事情は聞かずにおきます。ですが、娘の恩人の危機をこのまま見過ごすわけにはいきません」
「ですが、」
「これが私たちのできる精一杯の恩返しなのです」
「しかし旦那様、乗り込む人は全員確認されています」
だからどうかと、訴える主人を止めるのはエルドでもディアンでもなく、外の従者だ。
「事前に申告がない者や、少しでも疑わしく思われた者は全員個室で取り調べを受けております」
「偽装魔法で誤魔化せんか」
「それが、そばには魔術師らしき者もおり……なんらかの魔法を感知している可能性が……」
犯罪者を逃がしたのであれば当然の対応。だが、もしディアン一人を捕まえるためだけならば……あまりにも、やりすぎている。
逃げられたのを利用して連れ戻そうとしているのかもしれないが、それでも納得しかねるほどには過剰だ。
やはり国王も関与しているのか。知らないと思っているだけで、実は把握しているのか。
いいや、わからなくてもかまわない。今は、この状況をどうするかだ。
「じゃあ、荷物に紛れ込むのはどう?」
「運び込む前に確認されるので、それも難しいかと」
「ううむ……なんとか顔を見られずに入る方法は……」
思わずローブを掴むが、これも無意味だろう。髪色と目は確認されるし、最悪の場合はディアンを知っている者が配置されている可能性も。
王都から一ヶ月の距離だ。発覚してから来るには遠すぎるとはいえ、過去に王都にいた者なら……英雄の息子を覚えている者だって、少なくはない。
魔法で偽装するのも無駄。なにかに紛れるのも無駄。船に潜り込もうとしても、小型となればそもそも身を隠せる場所だってないだろう。
いっそ海中に入り、彼らの死角になる位置で待機すれば……と、提案するよりも先に吠える声に顔を上げる。
爪先で扉を引っ掻く音。危険を知らせるのではなく、中に入りたいという意図に気付けば、ディアンが動くよりも先にララーシュが扉を開け放つ。
「うわっ! ちょ、ゼニス……!?」
勢い良く飛び込んできたゼニスに何事かと問おうとして、強く押しつけられる鼻先に怯んでしまったのは仕方のないことだ。
背中に顔を突っ込んだかと思えば背負っていた荷を引っ張られ、有無を言わさず剥ぎ取られる。
いつもなら視線や動きで要求してくるし、それをディアンもなんとか酌み取っている。一度だって、こんなに荒々しく接された記憶はない。
突拍子もない行動だ。しかし、それには何か理由があるはずだと、取り返した荷物をひっくり返し、中身を周囲にぶち撒ける。
筆記用具、簡易食、必要最低限の道具たち。だが、口に咥えたのはそのどれでもなく、最後に出てきた茶色い布。
滅多に取り出さないからと一番奥に仕舞いこんでいたが、その存在を忘れたことはない。
「っ、それはダメだ」
だが、なぜそれを必要としたのか聞けなかったのは、突き刺さるように否定するのが早かったからだ。
取り返そうと伸ばしたエルドの手は躱され、開いたままだった扉から外へと影がひらめく。布を加えたままの口から漏れるのは、ほとんど聞くことのない唸り声。
「おい、ゼニス!」
慌てて後を追うよりも先に荒々しく首が振られ、丁寧に畳んでいた布が崩れていく。そうして中から出たのは、記憶に違わぬ白。
取り返そうとしたエルドと入れ違いに影は再び中へ、そうして、まるで空に浮かぶ雲のように、ふわりと宙を舞った布がディアンの膝元へと落ちる。
エルドは外に、ゼニスは馬車の中へ。戻ろうとするエルドの焦り具合にも、彼を威嚇するゼニスにも混乱する。
どう考えても今の窮地を解決するものとは思えないのに、なぜゼニスはこれを必要としたのか。そして、エルドはなぜ必死に止めようとしているのか。
どちらに問うこともできず、せめて地面に汚れないようにと引き寄せたベールは、確かに顔どころか上半身ごと隠せるぐらいの大きさはあるが、しかし……。
「これって、もしかして巡礼の?」
手繰り寄せた端を掴み、広げたララーシュの目が輝く。巡礼、というのはエヴァドマの別称だったはずだ。
精獣のことを知っていたぐらいだ。エヴァドマの由来や伝統について知っていても不思議ではない。
「うん、そうだよ。エヴァドマっていう場所でもらったものだけど」
「本物を見るのは初めて……あっ、そうよ、この手があったわ!」
まじまじと施された刺繍を眺めていたララーシュが、パチンと手を叩いて顔を上げる。その表情は年相応にキラキラと輝き、直視するのが眩しいほど。
「花嫁よ! お兄さんが花嫁になればいいんだわ!」
……だが、次にその笑顔から飛び出したのは名案ではなく、迷案と言うべき内容だった。
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