164.高級宿の朝
次に気付いた時、意識したのは目蓋越しの光でも、柔らかな風でもなく……鼻をくすぐる芳ばしい香りだった。
小麦と、おそらくコーヒーの匂い。口にしたことはないが、通りかかる店や旅の道中で嗅いだ記憶がある。
規制されていないが、大人の飲み物というイメージがあるのは、その味が苦いということと嗜好品という印象が強いからだろう。
擦れるような音は皿か、カトラリーか。誰かが食事をしている……なら、なぜ自分はここで眠っていたのか。
寝起きの頭でぼんやりと考え、ようやく目を開いてもぼやけた視界では状況を把握しきれず。ゆっくりと鮮明になれば……と、思ったが、やはり分からぬまま。
最後に見た通り、そこは借りている宿の一室だ。身体がどこまでも沈みそうなベッドに、あちらこちらに彩りとして飾られた花々。
照明からカーペットに至るまで、どれも高級品だと分かる調度品を視界に収めたところで身体を起こせば、ようやく匂いの正体に辿り着く。
それは部屋のほぼ中央。白いクロスの敷かれたテーブルの中心を陣取る……籠一杯に盛られたパンだ。
文字通り、溢れんばかりに積み上げられたロールパン。そばに置いてあるのはジャムかバターの類だろう。
起きるなり朝食が準備されていた事に、困惑よりも空腹感が勝る。
丸一日なにも食べていないと思い出したならば、余計に意識してしまうもの。
「ん、起きたか」
もう一つの匂いの正体は、テーブルのそばで立っていたエルドが振り返ったことで、彼がコーヒーを入れていたからだと知った。
「おはよう、ディアン」
作業を中断したエルドはベッドのそばに。傍らの椅子には座らず、立ったまま見つめる薄紫は、いつもと同じ暖かな眼差し。
そこに昨夜見た揺らぎはなく、迷いもなく。
「おはよう、ございます。……あの、これは?」
寝起きの第一声は掠れ、少し喉を鳴らしてから改めてテーブルの上に。
席も皿も二人分。盛り付けられているのはオムレツとベーコンと、それから新鮮なサラダ。
種類にも色にも恵まれ、目で見ていて楽しい光景。
実家で食べていたのと似たメニューだが、懐かしさよりも豪華だという気持ちが上回るのは、この最近の朝食がパンとスープで固定されていたからだろう。
いや、昨晩の残りをそのまま朝に回すので、時にはパンだけで終えることも。
それに不満はないが、店や街でなければ食べられないメニューに心が躍っているのも事実。
しかし、実家では揃って食べる決まりだったので、自室で食事を取った記憶はない。宿に泊まるときも食堂に赴くのがほとんどで、こうして運んでもらうことはなく。
少しだけ違和感というか、特別感というか。高揚感とは違う、なんだか落ち着かない気持ちも僅かに。
「ああ、朝食だな」
それは見れば分かると発言する気力はなく。かわりにジッと見上げれば、クツクツと笑う声に、やはりわざとであったと知る。
「もう危険はないと思うが、万が一を考えて部屋に運んでもらったんだ。わざわざ人混みに行く必要はないしな」
忘れていたわけではないが、言われれば確かにそうだ。
主犯は逃げたが、残党がいないとも限らない。別働隊がいる可能性もあるし、何より騒ぎが起きてまだ二日と経っていないのだ。
いくら可能性が低くとも、警戒するのは当然のこと。リスクは少なければ少ない方がいい。
「調子は? 不快感や吐き気は?」
「大丈夫です、もう倦怠感もほとんど無いので」
まだ若干残っているが、それこそ寝起きのせいだろう。朝食を取って少し動けば気にならなくなるはずだ。
不快感は元よりなく、吐き気どころか空腹感を覚えている。負荷魔法の影響が抜けたと判断してもいいだろう。
「ん、ならいい」
伸ばされた手が頬に触れる。そうして、親指が撫でるのは目の直ぐ下。
偽装魔法をかけるための一連。もう慣れてしまった朝の習慣。
……いや、正確には偽装魔法をかけているフリなのだろう。
見上げる薄紫の中、己の瞳の色は反射せず確かめることはできなくとも、これが違うことを既にディアンは分かっている。
あの時ララーシュに言われた通り、自分の瞳がなにをせずとも紫に変わったまま。
これから先も変わり続けたままで、もう元の色に戻らないことも。確かめずとも、そうだと悟っている。
本当に自分が愛し子になり、強い加護の影響で変わったのなら……あの日エルドと出会った夜に、そうなったのだろう。
だから、この行為に意味はない。いや、ディアンを騙すというのであれば意味はあるが、もうその必要だって本当はないのだ。
どこまでエルドは気づいているのだろう。気づきながら、見て見ぬ振りをしているのか。変わらず続けようとしているのか。
それがなんであれ、それを確かめる必要も、触れる指を払う理由もない。
滑る指はくすぐったく、だけど少し嬉しい。頬に添えられた手は温かくて、こんなにも優しい。
騙されたフリをしていれば触れてもらえる。そう知っていて愚かなフリをするのは……やはり、咎められることなのだろうか。
それだけは知りたいような、やっぱり知りたくないような。複雑な思いで見つめる薄紫が僅かに緩む。
注がれる光は柔らかくて、やっぱり優しくて。
「……よし、じゃあ飯にするか」
永遠に思えた時間も、実際に数えたならきっと数秒のこと。
最後に頭を撫で、切り替えた声は普段通りの響き。
起き上がり、ベッドを下りたところで着ている服がいつもと違うことに今さら気付く。
少し緩いズボンとボタンのないシャツは、一見そうは見えないが寝間着の類だろう。
普段の恰好でこのベッドに横たわるのは抵抗があったが、このままの姿でもいられない。
「僕の荷物は……」
「着替えなら後でもいいだろ」
いいから早くと手招かれ、素直に従えないのは抵抗感から。
まだ寝込んでいる時ならともかく、寝間着のまま食事を取るのはいかがなものか。
「ですが、」
「ほら、焼きたてのパンが冷めちまうぞ」
返事したのはディアン自身ではなく空腹感が先。
見るからに柔らかく、ふわふわで美味しそうなパン。それが焼きたてとなれば……もはや抗える術はない。
本当はだらしないことだ。いけないことだが……今日だけは特別だと。
己に言い聞かせて席に座るディアンを見守る瞳は、やはり優しいものだった。
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