146.それは幻聴ではなく
それから、部屋に入れてくれたシスターになんと言われたのか。そうしてなんと答え、そこに座ったのか。
ディアンに一切の記憶はなく、気付けば一人。ソファーの上で佇んだまま。
目の前に置かれているものはなく、背負っていた荷物もそのまま。窓もなければ時を刻む音も聞こえず、どれだけそうしていたか知る方法はない。
まだ数分のようにも、十数分経ったようにも思える。答えを知る必要はそれこそない。
耳を澄ませてもなにも聞こえず、気を紛らわせる術は得られず。鉛のように重い心臓を、どこかに預けることだって。
目蓋を開こうと伏せようと、よぎるのはあの薄紫だ。自分を見て揺らぎ、諦めたように笑う……エルドの顔だけ。
忘れたくないのに思い出したくはない。刻みつけたいのに、それ以上に泣きそうになる。
これは本当に寂しいだけなのかと、そう問いかけたくても答えなんて返ってくるわけがない。
わかっているのは、これが最善だということ。これこそが……皆が、本来望んでいた展開。
元より、今の状況はディアンの我が儘によって叶えられたものだ。
エルドが己の立場も省みず、その願いを聞き入れてくれたから。だから、本当はもうとっくに終わっていたはずなのだ。
いや、きっとあそこで終わるべきだった。そうすれば、きっとこんな気持ちにはならなかった。
事情が変わったとエルドは言っていた。もうこれ以上待てないほどに事態は悪化しているのだろう。
あれから王国についての情報は耳に入らず、サリアナや父たちが自分を探しているかもわからない。
しかし、ディアンが把握していなくとも教会との協定違反は行われている。
それがなんで、どのような物なのか。どうして自分がその証明になるのか。全ては聖国についてから明かされること。
今まで抱いてきた疑問の全ては、そこで。
全てが解決するのだ。ディアンは知りたいことを知り、エルドは自分の任務と立場を守れ、聖国は人間と精霊の和を保ち……しかるべき罰は、与えられる。
これが最善。こうするのが、エルドのためだ。
『中立者』としての地位を揺るがしてまで、叶えてほしくはない。それはエヴァドマの時から変わらない。
聞く者もいないのに、思わず零れそうになった願望を抑え込むように吐いた息が震える。
……本当は、なにもなければもっと一緒にいたかった。
船に乗り、聖国に着くまで。そうして王宮へ向かうまで――いや、その後も、その先だって。本当は一緒にいたかった。
首を振っても望みは消えない。僅かに頭が痛む程度では、掻き消されてはくれない。
ここで別れると分かる前。昨日の夜気付くよりももっと前から言い聞かせてきた。
いつか別れるのだと。だから、離れなければならないのだと。
もう会えないと、会えなくなると。それは仕方のないことなのだと。
だけど……やっぱり、寂しい。
心と体が引き裂かれそうで、みっともなく泣いてしまいそうになる。無理だとわかっているからこそ苦しくて、それでも願ってしまう。
もしかしたら、なんてありもしない可能性を抱いてしまいそうになる。
口にすることだってできない。違う、そんなことしたくない。だって言ったところでエルドを困らせるだけだ。
彼にはもう十分助けてもらった。たくさん教えてもらった。これ以上なんて望んではいけない。
『また』なんて。そんなのあり得ないのに。そんな日はこないのに。
もうディアンが『エルド』と顔を合わすことはない。会えたとしたって、それは『中立者』と『候補者』としてだ。
もう同じではない。変わってしまうのだ。ディアンが望まずとも、エルドが望まずとも、それは避けられないこと。
だから、これは抱いてはいけない。望んではいけないのだ。
胸の前で手を合わせ、指を組む。胸に寄せたそれは、献身的な信者にも見えただろう。
だが、祈る相手はいるかもわからない自分の精霊ではない。だが、エルドに対してでもない。それは祈りではなく、自分自身への戒め。
蓋をするように、閉じ込めるように。強く、強く。寄せる腕の強さより、胸の痛みはなお強く。
エルドを……あの人を、尊敬している。あの夜助けてもらったことに恩を感じている。
自分がしてきたことが無駄ではなかったと、そう言ってくれたことに感謝している。
様々な知識を授けてくれたことも、無事にここまで着いたことも、彼のおかげだと理解している。
だから……だから、離れたくないと思ったのだ。だから、もっと彼から学びたいと思ったのだ。
彼のそばでなければ得られない知識を。彼と一緒でなければ感じられない全てを。
だから寂しい。だから、離れたくない。
何度も、何度も繰り返す。それが真実になるように。いつか、そう願ったことが忘れられるように。
周囲の圧に耐えかね隠したのではない。これは、これこそ自分の意思で忘れたいと願ったことだ。
エルドのために。いいや、いいや違う、自分のため。自分のためだ! 彼を困らせたくないなんて、結局は自分が苦しみたくないからだ!
手放せないなら忘れてしまいたい。忘れてしまったことすら忘れてしまえれば、こんなにも苦しまずにすむのに。
できないとわかっている。叶わないと知っている。だからこそ苦しくて、辛くて……だけど、幸せだった。幸せだったのだ。確かにディアンは満たされていた。
忘れられない。忘れるなんて、できない。だけど、だけど……!
助けてと、どこかから声が聞こえる。矛盾する感情を、どうしようもない結末を。苦しいのに、痛いのに、どうすることもできずに訴える声が。
助けて、なんてどの口が。もう既に助けてもらった。もう十分、ディアンは助けられた。
これ以上は望めない。これ以上は……もう、望まない。
幻聴を掻き消すように首を振る。それなのに、まだ助けを求める声が消えない。
シャラシャラと鳴る音がやかましく、眉間に皺が寄りそうになり――それが、自分の声ではないと、そこでやっと気付く。
「タス――テ――」
「……え、」
折り畳んでいた身体を起こせば、そこは光に溢れていた。昨日も、その夜も見た景色。違うのは、目に映る彼女たちが誰一人として微笑んでいないこと。
足を、腕を、髪を。目につくところを手当たり次第に引かれ、僅かに走った痛みに顔をしかめても振り払うことはない。
「アノコ――アブナ――!」
「イトシゴ――オソワレ――!」
シャラシャラと鳴る音。それから、あまりにも高音すぎるせいで声が聞き取りにくい。だが、合間合間の単語でも、彼女たちが助けを求めているのは理解できた。
「……誰か、襲われている?」
「ハヤク――!」
「っ、ま……って!」
一体彼女たちのどこに、こんな力があったのだろうか。
背まで押され、耐えきれずに立ち上がった身体が前に進まされる。辛うじて踏ん張っているが、いつ駆け出すことになってもおかしくはない。
助けを求められているのはわかったが、襲われているのならば一人で行くのは得策ではない。
いくらマシになったとはいえ魔術負荷は残っているし、戦う手段だって無い。
せめて誰かもう一人。エルドやゼニスは無理でも、教会の誰かと一緒でなければ。
「もう少ししたらシスターが来るから待って、僕一人じゃ――」
「――それじゃあ間に合わない!」
頭の奥が痺れるような、鈍いような。馴染み深い感覚に違和感を覚える間もなく、甲高い耳鳴りが響く。
だが、声は今まで以上に鮮明に。顔の正面に回り込んだ少女が首を振り、叫び、訴える声は痛い程に。
「このままじゃあの子が連れて行かれちゃう!」
「同じ愛し子ならあの子を助けて!」
「もういつ捕まってもおかしくない!」
お願いだからと、鼓膜を震わせる叫びに息を呑む。状況はわからない。誰が、どうして追われているのかも。それをなぜ妖精たちが助けを求めているのかも。
今から自分がしようとしていることが悪手で、エルドとの約束を破るものだと分かっている。彼女たちを説得してでも誰かと一緒に行くべきだということも。
だが、それでは手遅れだと。漠然とした衝動に抗うことができない。
今すぐ。そう、今すぐそうしなければならないと、異常なまでの焦燥感に疑問を抱くことさえもできぬまま。背中から荷物を下ろし、無造作に突っ込んだ手でペンを掴む。
子細は記せず、単語だけ。だが、彼女たちなら……エルドならこれで異変に気付いてくれるはずだと、投げ置いたペンが床に落ちるのを誰が見ていたというのか。
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