144.別れは近く
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ざわり。胸が騒ぐ。滲む汗は冷たく、ディアンの呼吸を奪うほど。
日暮れ前には着きたいとエルドは言っていた。
船に間に合わせるなら昼前と言うべきで、距離的に無理と分かった時点で急ぐ理由はないはずだ。
宿の関係は消え、教会で泊まるとも明言せず。それなのに、彼は急がなければならなかった。
ぐるり、ぐるり。頭の中が渦巻く。喧騒が遠ざかって、服に張り付く汗で不快感が増していく。
……仮に、泊まらないのだとすれば。すぐに出発するつもりなら、確かに宿を取る必要はない。
だが、専用の船がないことは今エルドが言ったとおり。
それもそうだ。よほどの事情がなければ教会関係者は持ち場を離れることはないとエルドも言っていたじゃないか。大型の船でも三日かかるのに悠長に移動するとは考えられない。
船でもなく、陸路でもなく。それでもすぐに向かえる方法なんて――。
足が止まる。あまりにも強く打ち付ける鼓動に、心臓が止まると思うほどの衝動に。
腕が突っ張り、それでも身体は動かず。少し先で振り返ったゼニスに続いて、ようやくエルドがディアンを見る。
「……どうした?」
素直についてきていたのにと、その表情は不思議そうだ。心当たりはないのだろう。
見下ろす薄紫から目を逸らしたかった。見上げたその瞳が変わる瞬間を、映したくはなかった。
それでも、止まってしまった。ディアンは止まってしまったのだ。もう誤魔化せない。それは……もう既に、確信へと変わっている。
「気になる屋台でもあったか? 少しぐらいなら寄っていっても、」
「門を通るのですか」
自分でも不思議なほどに、声は震えなかった。
こんなにも鼓動はうるさいのに、こんなにも身体は震えそうなのに。暑くもないのに汗が滲んで、だけど寒くもない。
そんなおかしすぎるディアンを見る瞳が、僅かに細まる。
『そんなわけあるか』と、続いてほしかった笑みは消え、唇は閉じる。望んだ否定は紡がれず、周囲はやかましいはずなのに静かで、静かすぎて落ち着かない。
薄紫が落ちる。そこに見るべき景色はない。故にそれは続かず、紫を貫くまでの時間は短く。
「……ほんと、お前って馬鹿じゃないんだよな」
呆れるようで、そうではない褒め言葉。この旅で何度も聞いてきたそれは……たとえ濁していようと肯定には変わらない。
――ここで、旅は終わりだと。
「ど、うして」
指先に力が入る。それはディアンの意志に関係なく、無意識に。繋ぎ止めるように、離れないように。だけど、弱々しく。
「まだ、負荷が残っていると……だから、門は通れないって……!」
最悪の場合は死に至ると。そうでなくとも、起き上がれないほどには不調をきたすと。
だから、あの町で門を通るように言われても拒んだはずだ。
まだ魔術過剰だと、昨日そう言ったばかりではなかったのか。
「……エヴァドマの時に比べれば軽くなった。万全を期せば、今なら不快感が残る程度で済む。前に言ったような、何日も寝込むような事態にはならない。そもそも、どこで終わりにするとは言っていなかったはずだ」
思い込んだのはお前だと、エルドは言う。聖国に連れて行くとは言われたが、その方法も終着点も聞いてはいなかった。聞くまでもないと判断していたからだ。
門を使うなんて、それこそよほどのことがなければ……そんなの、想定に入れる方がそもそもおかしいのだ。
「門の使用は許可が……」
「そんなの、とっくに出ているだろ。他の奴ならともかく、女王陛下直々の命令だ。俺が申し出ればいつだって通れる」
むしろ止めなければもう通っていたと。エヴァドマの時にはそうだっただろうと言い聞かせられ、それでも受け入れられない。
最初からここで門を通るつもりなら、先に説明があったはずだ。こんなだまし討ちのような真似をするような男ではない。
そうだとディアンは知っている。そうだと信じている。信じていた。だからこそ受け入れられない。
こんな急に……まだ、覚悟もできていないのに!
「ですがっ……!」
「シアン」
これではただの癇癪だと、わかっていても否定する言葉が、その一言で止められる。
見上げた薄紫は細められ、されど浮かぶのは怒りではなく。諦めと、形容しがたいなにかで。
「……事情が変わったんだ。わかるな」
それこそ、言い聞かせるように。お前ならわかるだろうと、押さえつけるように。
有無を言わさぬ言葉を紡ぐ声は、そう言いたくなかったと隠し通すことはできず。ディアンがその言葉に弱いと知った上で、そう告げることだけはしたくなかったと。
ディアンがエルドを理解しているように、エルドもディアンを理解している。だからこそ……それがいかに重く、辛い言葉であったか。
その真の痛みこそ、ディアンにはわからない。それでも、これ以上拒めないことだけは、曲げようもなく。
嫌だと、ひどいと。そうなじることができればよかったのだろうか。でも、それはただエルドを傷付けるだけだと、唇は音を出さずに噛み締められ、視線は下に落ちる。
言えない。……もう、なにも言えるわけがない。
いつ終わってもおかしくなかった。いつだって、終わることができたのだ。
それをここまで続けてくれたのは、ディアンのわがままをエルドが汲んでくれていたから。
だから、ここが限界ならば……ここが、旅の終わりなのだ。
変えられない。変えることは、できない。
だって、これはいつか終わると、最初から知っていたのだから。
「歩きたくないなら馬車に乗るか。着く時間はどっちも変わらないが」
「いいえ」
入り口に戻ろうとするエルドを、手を握ることで止める。その力は弱々しく、握ったなんて称するのも不適切なほど。
動きかけた足がディアンの方へと向く。その爪先だけ見つめ続けても、薄紫が見下ろしていることは変わりなく。
「……いいえ」
首を振り、呟いた声だって聞こえているかも定かではない。
縋る指から力が抜け、離れそうになるのをエルドの手が繋ぎ止める。
温かくて、力強い。それだけで滲みそうになる視界に、唇にこめる力だけが増していく。
「……そうか」
呟いたエルドが歩き出し、繋がれた手が引かれる前に足を動かす。
それ以上言葉はない。なにも問うこともない。喧騒が戻っても、それらは全て耳を通り抜けていく。
唇の力が緩んでも、胸にせり上がる感情を声にすることはできず。返ってくるのは、僅かに力を込めた指に対する反応だけ。
他にはなにもいらなかった。それだけで、充分だった。
……充分だった。
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