140.彼の決意 ★
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薪が爆ぜる。その火花に気を取られたせいで、思わぬ幻聴が聞こえてしまったようだ。
声が遮られ、ぐるりと思考が回る。繰り返そうとする言葉がうまく思い出せないのは、それこそが現実逃避であったのか。
「……今、なんと?」
聞き間違いだ。あるいは幻聴だ。そうでなければありえない。あっていいはずがない。
「ディアン・エヴァンスを『候補者』から外す。彼はただの加護者だ」
それでも男は変わらない。それが当然だと、なにも違っていないのだと。他の誰でもないエルド自身が。最もそう言ってはならない男が。
「正気、なのですか」
返事がない。その答えは先も述べたとおりだ。頷かず、声も出さず。
求めているのは否定だ。質の悪い冗談だと咎められる口実。悪質だと、そうなじって、責めて……それなのに、男は正気だとその態度でのたまっている!
「――どうにかできると思っているのか」
踏みしめた地面が白く染まる。抑えきれぬ感情のまま、噴出した魔力に呼応した全ての温度を奪うかのように。
地面も、空気も、急激に冷やされた全てに霜が付着していく。吐き出す息は白く、冷たく。焚かれていた火さえも凍らせるように。
「今さら……今さら、どうにかできると。本気でそう思っているのか!」
ゼニスに精霊ほどの力はない。ゼニスが本気になったところで、この男には敵わない。
されど、かつて冬と呼ばれる全てを支配し、精霊界へ登り詰めた力はまだその身に宿っている。
もう何百、何千とも昔のこと。されど、この怒りを刻むだけの力は決して衰えてはいない。
「人の身に余る加護を与え、真実を隠し、騙しながら過ごして! いつだって彼を正しい道に戻すことができたというのに教会の手を拒み、『中立者』ではないと宣言したのはあなたではないのか!」
霜が膨れ、それは次第に塊となる。結晶となった鋭い先は、まだ無差別な方向に向いたまま。だが、やがてそれはエルドへと向けられるであろう。
あの時。あのエヴァドマの地で彼女たちに宣言したからこそ、ゼニスは止めなかった。止められなかった。
迷い、悩み。それでも『中立者』ではないと断言できるほどの覚悟があると信じていたからだ。
その行く末がどうなっても、その責任を取れると……他でもないこの男が、その意味を知らないはずがないと。
信じていたのだ。エルドの信念を。決して違えることのないと思っていた、その決意を。
……それなのに!
「こうなることは分かっていたはずだ。今までだってその兆候はあった。気づかなかったなど言ってくれるな」
加護を与えたその日からゆっくりと、でも確かにそれは見えていた。
宿屋で話しかけた娘。エヴァドマで出会った一行。襲いかかってきた大男。ふとした瞬間に、そのローブの下を……あの瞳を見てしまった人間たち。
全員がそうではない。だが、ほんの一部であっても、惹かれてしまうこと自体が異常なのだ。
ただの愛し子では説明できない。ただ、特別な加護を賜っただけではありえない。
他者の反応だけなら誤魔化せただろう。
だが、人の目に映らないはずの妖精。その存在を視認できたならば……もはや、言い逃れはできない。
なにが門だ。それだけで見えるわけがない。それだけで見えていいわけがない。
影響を受けている。これ以上は危険なところまで。もう取り返しがつかないところまで!
今はまだ声は聞こえていないようだが、姿を視認できているなら時間の問題。
愛し子の中には彼女たちを見られる者も確かにいる。しかし、ディアンはまだ加護を与えられて一ヶ月も経っていない。
一ヶ月。たった、一ヶ月。そんな短期間で見えている意味を、この男がわからないはずがないのに。
「今さら人の世に戻せるなどと――本気で思っているのか!」
もうとっくに人としての道を外れかけている。そうなった原因が、エルドだけにあるとは言わない。
だが、そう導いたのは彼だ。あの姫でも、父親でも、妹でもない。間違いなくエルドだ。彼が、ディアンを、そうしてしまったのだ。
叫びは風となり、エルドの身を貫く。空気はより研ぎ澄まされ、眼球まで凍りつきそうなほど。
常人であれば、あまりの寒さに声すら出せなかった。震えのせいで、言葉にはならなかった。
「そうだな」
しかし、その声は震えない。張り上げることもない。変わらない。
「お前の言う通り、教会に引き渡すべきだった」
……否、その瞳が僅かに、陰る。その変化を聡明な獣は確かに捉えていたが、それがなんだというのか。
今さら後悔など。そんなもの、なんの意味がある。
「なにを今さら――」
「そもそも関わるべきではなかった」
それは訂正ではなく。返事でもなく。言い訳でもない。
自然と滑り落ちた言葉にそれ以上のなにかを捉え、責める声が止まる。
「こちらの都合で加護も与えられず、そのせいで虐げられていると知っても、今まで通り静観していればよかった。伴侶なんて不名誉を与えられないようにと、加護など与えなければよかった。今まで普通の生活を送っていなかったあの子に、僅かな間だけでもと旅をさせるべきではなかった。魔術過剰のせいで耐えがたい苦痛に襲われると知っていても、門から遠ざけなければよかった。こうなった一端は自分にあると後悔し、同情し、必要以上に関わらなければよかった」
つらつらと並べられる全てが今までの否定だ。ゼニスの忠告を振り払い、女王からの苦言もはね除け、『中立者』ではないと宣言しながらも貫いた行為。
それら全てが間違いだったと。そう認めてはならない男の口は止まらない。
「最後の最後に。人としての責務でも、奴らの犯した罪を贖うのでもなく。彼だけの意思でそう望んだならと。そんな……できるわけもない決断をさせようと思わなければ」
「なにを――」
耳を疑い、声を張り上げる。その続きを紡がせてはならないと、その直感に従うまま。
それだけは、それだけは言ってはいけない。他の精霊ならばまだしも、彼は、彼だけは絶対に。
それはただの否定ではない。それは、ただの後悔ではすまない。
だからこそ制止したはずの言葉が止まる。変化など僅かなものだ。眉を寄せ、瞳を陰らせ、唇を閉ざす。
だが、それで十分だ。何百年と付き従ってきた、この聡明な獣が気づくにはそれで。それだけで、本当に。
「……まさか」
この男が後悔などと、抱いていた怒りが霜どけと共に消散していく。
残るのは戸惑いと、どうしようもない重々しい感情ばかり。
「狂って(・・・)、しまったのですか」
言葉通りではない。それは、その言葉は双方にとって特別な意味がある。
回りくどく聞いたのは、直接聞けないからだ。そんな恐ろしいことを。そうだと自覚し、そう選択した事実を。
エルドは見てきた。それに狂って(・・・)しまった者の末路を。嘆き、悲しみ、苦しめられた者たちを。
だからこそ、この男は拒み続けてきた。悪しき習慣だと。断ち切らねばならないと。せめて自分だけでも、そうはならぬと。
『ねぇ、――。あなたもいつか思い知るわ。どれだけ拒んでも、どれだけ嫌っていてもそうなるの。だって、』
頭の中で声が木霊する。鼓膜を直接擽るような、指先でそっと撫でるような。愛らしくも不快で、忌々しいあの声が。
愉しいと、美しいと。あの女が笑う声が、ああ……ああ!
『――“私”は、そうあるべきものなのだから』
――この人は、本当に彼を愛してしまったのだ。
喉元に刃を突きつける気力もない。じわりと湿る土は程なくして乾き、その惨状を忘れ去るだろう。
なにも残らない。なにも変わらない。だが、そう見えるだけだ。
もっと早く気づくべきだった。もっと、早く……こうなることを、わかっていれば。
それこそ、後悔しても意味はなく。
「……なんと、愚かな」
侮蔑は愛したことではなく、そうだと自覚した上で取った選択に対してだ。
「あの程度で彼があなたを憎むと? そのまま忘れられると、本気で?」
断ち切らせたいのはディアンではなく、自分の未練だ。
たしかに、彼は父親に対する未練を引き摺っていた。それは呪いと称せるほどに。彼が幼い頃から、何度も何度も、繰り返し与えられた言葉によって。その環境によって。
それでも、自覚させる必要はなかった。いつかそれは、今ではないその日によって、彼自身が見つけ出したものだ。
わざわざそれを突きつけたのは、ディアンのためでもあったのかもしれない。だが……それ以上に、自分が嫌われたかったからだ。
嫌われ、憎まれ、そうして自身との別れを惜しまないように。少しでも、未練が残らないように。
本気でそう考えて、このうえで彼に伝えたのなら……エルドはこれ以上ない愚か者だ。
できるわけがない。あの青年が、ディアンが、どれだけ傷付けられてもエルドを憎むなど、できるわけが!
「本当に悔いているのなら全てを話すべきだ。嫌われることでもなく、遠ざけることでもなく! 真実を明らかにし、そのうえで――!」
「人としての幸せを捨てさせろと言うのか」
そう考えることすら忌々しいと、吐き捨てた言葉が地に落ちる。
選択など最初からなかった。彼が選ぶべきだと、そんな言葉で誤魔化し続けていただけだ。
理解していたつもりで理解していなかったのは……本当は、自分自身だったのだと。
「それを選ぶのはあの子だと……!」
「真実を知れば、あいつは責務を果たそうとするだろう。自分の意思を押し込み、どうすれば最善か考え、行動する。……それはもはや選択とは言わない」
選ぶには、知る必要がある。隠していた全てを。ディアンの人生がここまで狂わされた、その元凶を。
なにもかもが精霊の……エルドたちの身勝手な行いによって引き起こされたのだと。
だが、それでもディアンは選んでしまう。払わなければならない対価。己の父が勝手に結んだ盟約を果たすために。
どれだけエルドが訴えようと、周りにどれだけ言われようと、あの子はそうしてしまう。そうだと知っている。
知ってしまったからこそ……もう、ディアンに選択を迫ることはできない。
「俺から離れ、一年も経てば人としての道にも戻れる。俺のせいで時間はかかってしまうが……世界を回るのも、名簿士になるのも、あいつの意思で選べるようになる」
そうすればようやく彼は幸せになれるのだと。そんな身勝手に、ゼニスは怒らなければならない。
咎め、唸り、最低だと。そう言えるのは彼だけだというのに。
「……なんて、愚かな……」
そんな顔をしておきながら。手放したくないと、そう全身で訴えながら、それでも解放するなど。
それこそがディアンの、人間の幸せであると。だからこそ遠ざけるのだと。言葉がなくとも理解してしまう。なんと愚かで、なんと……なんと、ままならない。
その信念を知っている。彼の、人間に対する思いを。
そして、自身が狂いながらも貫き通そうとする決意を示されて止めることはできない。
これはゼニスが想定していたものではない。それは女王も同じであろう。
だが、エルドは果たしたのだ。この一連の結末を。その存在意義に違わず。確かに、己の意思で。
「本当に、いいのですね」
「……ああ」
故に、その問いに意味はなく。エルドの手は、徐々に勢いを失っていく火へとかざされる。
薄紫が揺らぐように見えたのは……息を吹き返した炎の反射がそう見せただけ。
その証拠に、続く言葉に震えも戸惑いもなく。
「明日、教会に着き次第――門を開く」
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