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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第五章 一ヶ月後

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137.自覚

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 その足が止まったのは、爪先が何かに引っ掛かったからだ。

 バランスを崩しかけ、前のめりになったまま数歩先へ。かろうじて転倒は免れ、ふと冷静になる。

 振り返った先に光はなく、相当走ってきたことを知る。足こそ疲れていないが、酷使した肺は苦しく、道中で引っかけたらしい傷が僅かに痛む。

 繰り返す荒い呼吸。その合間に聞こえる微かな水の音に自分がどこまで走ってきたかを自覚し、再び進めた足は重く、遅く。

 続く足音がないことから、ついてきていないことを知っても気持ちは楽にならない。

 きっと本気になれば居場所なんてすぐにバレてしまうし、なんなら今だってゼニスの耳には聞こえているだろう。

 だが、それでもよかった。彼から、彼から離れられるなら。ただ、一人になれるなら。

 ……あの言葉の続きが、自分に届かなければ。


 そう歩くことなく、道が開ける。ここが野宿地を決める前に立ち寄った川なら、それなりに離れていたと思ったのはディアンの勘違いになる。

 それとも、本当にそれだけの道を駆け抜けてしまったのか。答えを知る必要は、それこそない。

 岸辺で腰を下ろし、膝を抱える。そのまま顔を埋めると、思い出したくない色が脳裏をよぎりそうになり、見下ろした川の水は暗すぎてよく見えない。

 鼓動が収まり、混乱からも落ち着き、視覚からも聴覚からも得られる情報は少なく。余裕が生まれた頭は、ディアンが望まずとも回り始めてしまう。

 引き摺り出された自我が呻いている。ディアンの奥深くに隠していたはずのそれが。最も浅い部分で、埋めることも殺すこともできず、苦しみ藻掻いている。

 自覚などしたくなかった。

 分かっていた。分かっていたのだ、本当は。

 それはあの日から芽生えていた。

 知らずに連れて行かれた剣術大会で、どうして優勝したのに褒めてくれないのかと。不満を抱きながらも口にすることができなかったあの時から、きっと。

 あれ以降ディアンは試合では勝てず、どれだけ勉強しても成果を残せず。

 故に、褒められなくても仕方ないのだと思っていた。だって、褒められることをなにもできていないのだから。

 英雄の息子でありながら試合にも勝てず、魔法もろくに扱えず。馬鹿にされ、呆れられ、蔑まれ。諦められて。

 本当は辛かった。ずっとずっと辛くて、苦しくて。悔しかった。

 だが、それは全て自分の実力が足りないのだと。自分が至らないせいなのだと。

 どれだけ努力したって結果が残せなければ意味がないのだと反省して、次こそはと頑張って、努力して。それを、繰り返して。

 そうすれば、いつか報われると。そうすれば、いつか認められるのだと信じていたのだ。

 騎士として。英雄の息子として。ヴァン・エヴァンスの息子だと。息子として誇ってもらえるのだと。

 毎日、毎日、毎日。ずっとずっと、頑張ってきたのだ。

 それを見せつけるつもりなんてなかった。わざわざ呼び立て、主張する必要だってなかった。

 繰り返していれば嫌でも目に入る。この努力の積み重ねは、いつか父の目に入る。結果が残せずとも、その過程はいつだって見えたのだから。

 本当に、本当に頑張ってきた。頑張ってきたはずなのだ。

 だから……いつの日か『よく頑張った』と。その一言だけでももらえると、信じていたのだ。

 そう思わなければ頑張れなかったから。そう思わなければ――耐えられなかった、から。

 誰にも認められないまま無駄だと言われ、嗤われ、指をさされ。

 それでもそれ以外に道はなく、自ら望んだのでもないのに騎士以外の選択は塞がれた。

 誰よりもそう望んだサリアナが、騎士としての自分を望んだのではないと知っていながらも、そうする以外に許されない日々で、どうして希望も抱かず耐えられたというのか。

 確かに彼女は褒めてくれた。あなたならできると、あなたは努力していると。

 だから必ず私の騎士になれると。騎士になって、そばにいてくれるのだと。

 今のディアンなら。今のディアンだからこそ、どうしてその言葉を素直に受け止められなかったか理解できる。

 誰よりもそう望み、そう願った彼女は……ディアンが騎士にならずともよかったのだ。

 頑張っている、なんてうわべだけの言葉。一体いつ、彼女がその目で、ディアンの努力を見たというのか。

 皮膚が裂けても剣を握り続けたことも、何度転ぼうとも走ることを強いられた苦しみを、それでも報われない日々の辛さを。彼女が、その一片たりとも見たことがあったか?

 否。……否。

 彼女は、確かにそう思っていたのかもしれない。努力していると、認めていたのかもしれない。

 だが、それはディアンがそばを離れないように投げかけた虚構にすぎない。

 ああそうだ。サリアナはディアンが騎士でなくてもよかった。


『――私付きの騎士になると言って!』


 掴みかかる手を。叫ぶあの声を。見据える、あの透き通った蒼を。ディアンは覚えている。

 共にいられないと拒絶したあの日。他の騎士にも、父にも、妹も。その場にいる全員がディアンを責めたあの時を、思い出せている。

 もう遠く過ぎ去った過去だというのに、身体が震える。頷く以外に許されなかった。それ以外にできることはなかった。もはや、それは選択ではなかった。

 ああ、そうだ。ディアンは選んでなんかいない。騎士になりたいなんて望んでいない。そう望まれたから、そうなるしかなかったのだ。

 切っ掛けを忘れていても、欲しかった物は変わらない。本当にその努力を見ていた相手からの言葉。その、たった一言だけ。


『これまで真実を明かさなかったのは、その心の弱さが原因だ!』

『己を満たす為だけに評価を得ようとするその精神そのものが騎士に相応しくないと! ――なぜ理解しない!』


 父の声が。自分を責める、金色が蘇る。

 ああ、ああ。

 わかったはずだ。もうあの時には、そうだと確信していたはずだ。

 あの人は自分を認めないと。たとえ騎士になったとしても、褒めてはくれないのだと。まだ、足りないのだと。

 ヴァンはそれを過程と捉え、ディアンは目標とした。そもそもの終着点が違えば、それは当然のこと。

 騎士になることがディアンの目標ではない。騎士になることで、ヴァンに認められることが唯一の、支えだったのだ。

 だから、だから。一言だけでも。

 彼が『よく頑張った』と、そう言ってくれたなら。それだけで、ディアンは耐えられたのだ。

 負荷魔法をかけられていても、成績を捏造されていても。それでも、きっと耐えた。耐えてしまったのだ。

 そうして、回りに不正を疑われ、嗤われ、軽蔑されて。それでも努力し続けて……そうして、また報われることを望んだだろう。

 それだけがディアンの拠り所だったから。褒められるという、その希望だけが、ディアンの夢だったから。

 認められないなんて、認められなかった。認められるわけがなかった。そうだとわかって努力できるほど強くない。

 慰めもいらない。励ましだっていらない。ただ、その一言だけが欲しかっただけなのに。

 頑張ったから、頑張ったのだと。そう認めてもらえるだけで、それだけで……ディアンは、救われるはずだったのだ。

 だからこそ、ディアンは愚直に努力し続けた。違和感を抱きながら、その真実を奥底へ追いやり、盲目になってまで!

 たった、一言。それすらも与えられないなんて。

 そんなの……そんなの、ああ、


「――惨めじゃ、ないか」


 声に出してしまえばもうダメだった。

 呻く。呻いている。自覚したそれが。認めたくなかった感情が。幼い自分の姿となって突きつけてくる。

 ……どうして。

 晴れることのない疑問はディアンを責めるように、何度も何度も繰り返される。

 どうして、どうして。

 あんなに努力したのに。辛かったのに。苦しかったのに。それでも――頑張った、のに。

 まさしくこれは呪いだ。紛うことなき呪いだ。

 隠したままでいたかった。あのまま忘れていたかった。そんなはずはないと、希望を抱いたままでいたかった。

 どれだけ頑張ったって認められなかったなんて。今まで自分がしてきたことは、縋っていたものは……無駄、だった、なんて。


『お前がしてきたことは全部――』

「……っ!」


 首を強く振らなくたって、その続きは紡がれない。だって、その前にディアンは逃げ出したのだから。

 分かっていても、理解していても、自覚してしまっても。それを……彼の口からだけは、言われたくないと。

 ヴァンがそうであっても、エルドだけには否定されたくなかったから。

 意味がなかったなんて。今までの全てが、無駄だったなんて。エルドだけには、ああ……ああ!

 身体を掻き抱いても震えが止まらない。内側から掻き乱され、込み上げる衝動をなんで食い止められたかもわからない。

 みっともなく叫び、喚き、縋りつきたくなる。それだけは嫌だと地に額を擦りつけ、懇願してしまいそうになる。

 そんな姿を晒したくなかったから逃げた。そんな、惨めな姿なんて、彼に見せたくなかったから。

 聞いてしまえば、もう抑えられないとわかっていたから! だから!

 まだ半人前だ。エルドからすれば素人も同然。独り立ちもできず、戦うことだって。

 でも……でも、自分を褒めたその口で。同じ彼の声で否定されたくはなかった。

 認めてもらえなくてもいい。呆れられたっていい。期待外れだったかと、そう哀れまれたって構わない。

 それでも、自分自身を否定するその言葉だけは……自分を見てきた彼に、否定されることだけは、どうしても!


『――お前の努力を、決して無駄にはさせない』


 水の音が戻ってくる。

 ……ああ、そうだ。あの夜も、川が近かった。


『わかっている。……わかっている』


 背を叩く手も、抱きしめる腕も。ディアンは、覚えている。覚えているのだ。


『――お前は、十分がんばったよ。ディアン』


 そうして泣き喚いた自分を、彼は認めてくれた。無駄ではなかったと、言ってくれた。

 それは……それは、嘘だったのか……?


「……違う」


 声に、出す。それは認めたくないのではない。

 エルドは誤魔化しても、嘘は言わない。この一ヶ月、共に過ごしてきたからこそ抱いている確信。

 なにか理由があるはずだ。

 今だからこそ言わなければならないことが。気づかないのが最善だと、そう言いながらもディアンに自覚させなければならなかった理由があるはずなのだ。

 ……でも、わからない。あるはずだと信じたいだけで、そんなものないのかもしれない。

 ならば、なぜ今切り出されたのか。どうして、今でなければならなかったのか。

 わからない。わかるわけがない。理由だけじゃない。あの人のことを、なにも知らない。

 わかったつもりだった。わかってきた、つもりだった。

 でも、本当はなにもわかっていない。

 彼の名前も、自分を連れて行かなければならない理由も、彼が本当は何者であるかも。『中立者』ではない本来の立場も。人間でも愛し子でもない、彼の正体も。

 ディアンは知らない。わからない。

 頭によぎる全ては憶測。明らかにするにはあまりにも恐ろしい。ディアンが知るべきではないことだ。知ってはならないこと。本来なら、知ろうとすら思えない立場にいる人。

 答えは与えられない。そして、わかる日は……決して、訪れない。


 視界が滲む。わかっている。わかっているはずだ。

 ずっと一緒になんていられない。別れは必ず来るのだと。

 わかっているのに胸が苦しい。辛くて、悔しくて、寂しくて。ぐちゃぐちゃで、どうしようもなくて。

 いっそ叫べたら。叫んで、嫌だと喚ければ。いや、いや。そんなことに、それこそ、意味なんて。

 わからない。わからない。こんなにも苦しいと思うそれこそが、なによりも。

 なんとか涙を止めたくて乱暴に目元を擦る。

 ……はずだった手は、シャラと響く音によって遮られた。

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