12.朝食と招待
「お父様、お母様、おはよう!」
メリアの、朝からなんとも元気な挨拶が響いたのは、ディアンが食堂に来てから十五分ほどすぎた頃だった。
朝の鍛錬を終え、身支度を済ませた時点で定刻の五分前。それでも先に着いていたヴァンにすれば遅いと叱られ。
反抗する気もなく謝り、無言のまま待ち続けて十分。朝食は必ず皆で揃って、というのがエヴァンズ家の規則であるが、完璧な形で成し遂げられた記憶は数える程しか残っていない。
原因は言うまでもなく、毎朝寝坊してくる妹にあるが……それを咎めるのを止めたのは、もう考えるのも馬鹿馬鹿しいほど前のこと。
「ああ、おはようメリア」
「おはようメリア、今日もなんて可愛いのかしら!」
然るべき父親は平然と挨拶を返し、母に至ってはむしろ褒める有様。その光景を静かに見守るのも、いつも通りと言える。
いや、普段であれば何故言わないのかと不満を抱くところでもあるが、夢見の悪かったディアンにはその気力すらない。そうでなくとも今日も授業があり、そして同じ一日が始まるのだ。
救いがあるとすれば、明日が休日ということか。するべき事は変わらずとも、学園に行かなくていいというだけでも気が楽になる。
いや、そう考えてしまうからこそ自分は落ちこぼれと呼ばれるのか。
この繰り返しも何度目かわからず、溜め息は喉の奥で押し殺す。吐き出したが最後、なにを言われるか想像に容易い。
メイドが椅子を引き、腰掛けるところまで見守った騎士が壁へ寄る。日中に交代できるとはいえ、丸一日ここに留まっているのだ。
何かあっては困るが、なにもないと分かっている場所で待機するのも、ディアンが想像するより苦痛であろう。
同情こそしても、視線は彼ではなく運ばれた朝食へ。メイドたちも最低限しか接触しないとはいえ、さすがにここでは無視しないようだ。
それも命令のうちか、あるいは最低限の範囲に入っているのか。
どちらでもいいかと、カトラリーを取るよりも先に両手を組む。今日の糧の感謝と、幸福の祈り。慣れ親しんだそれは精霊王に対して行われるものだ。
ディアンだけでなく、ほとんどの者がそうしてから食事を始める。だから今この時、食器が擦れ合う音が聞こえるはずがないが……例外は必ず存在するし、一人しかいない原因を確かめることだってしない。
義務でもなければルールでもない。ゆえにディアンもなにも言わず、祈り終えると共にようやく食事にありつく。サラダもメインも冷たく、喉を通りにくくとも残すわけにはいかない。
注がれた紅茶の善し悪しもわからないが、温かいのならなんでもいいと飲み込む姿は優雅さとはかけ離れたもの。
だが、繰り返すがディアンは庶民だ。どれだけ食卓が豪華であろうと、こんな屋敷に住んでいようと、その意識は変わらない。
偉いのは父であり、自分ではない。相応の態度を取るべきだ。
特別が許されているのは自分以外の家族。『精霊の花嫁』である妹と、その娘を産んだ母だけ。
ディアンには……彼自身には、なにも誇れることはない。
「ディアン、明日の予定を空けておくように」
「えっ……あ、いえ。分かりました」
また余計なことを考えてしまったと、思考を振り払うより先に低い声に呼ばれる。
この席で言われるほとんどは叱咤か激励だが、そのどちらでもないことに思わず声が漏れれば鋭い金に貫かれ、慌てて否定すれば次に向けられたのは隣にいる妹へ。
「明日、王家より召集を受けている。メリア、お前にもサリアナ様からお茶会に招待されているぞ」
千切りかけたパンが中途半端なまま止まった。
落ち着きかけた鼓動が早まり、狭まった気道からの音が鼓膜にうるさい。喜ぶ妹の声はそれ以上に響き、そしてやかましく。
よぎるのは、今朝見たばかりの光景だ。
金切り音、冷たい視線、自分を責める……その全て。
「本当!? サリアナに会えるのね!」
もはや呼び捨ても、その声量もなにも言うまい。
無邪気に喜ぶ姿は誰が見ても可愛らしく、愛でる存在だろう。実際にディアンの母は久しぶりねと喜び、娘に着せるドレスを選ぼうとしている。
いくら『精霊の花嫁』とはいえ、王族へそう頻繁に会えるものではない。
数少ない友人に会えるのを喜ぶのは自然のことだ。そして、喜ぶ娘の姿を見て、温かな気持ちにならない親はいない。
その茶会に自分も誘われている。その衝動のおかげで、再び冷たく見据えられたことに対してなにも感じなかったのは、ディアンにとって幸いだったのか。
行きたくないと言えればよかった。理由はないし、あってもディアンの我が儘でしかない。
だから口にすることもできず、眉を寄せることも許されず。
「いいかディアン。くれぐれも姫の前で醜態を晒すな」
「そうよディアン、お兄さんなんだからちゃんとメリアを守って。大切な『花嫁』なのだから、昨日のように意地悪してはいけないのよ」
言い方こそ両者で違うが、どちらも意味は同じ。
妹を怒らせず、泣かさず、問題を起こさず帰ってこいということだ。殿下と姫に対しては言うまでもない。
ならば、せめて最低限のルールだけでも身に着けてほしいと。そう願うのは兄として間違っているのだろうか。
どうであれディアンの言葉は聞き入れられることはない。言われたとおり、従うだけ。
姫からの要望がなければ間違いなく着いていくなと言われただろう。それをディアンも望んでいたし、皆も望んでいる。
気付いていないのは呼んでいる本人だけ。いや、気付きながらも呼んでいるのか。こちらも結局は、考えたところで意味はない。
昨日のサリアナの話が通ったなら、間違いなくペルデも一緒にいるだろう。和やかなお茶会とは到底言えそうにもない。
……いや、きっとお茶会は本題のついでだ。そして、考えが正しければ招集も王家ではない。
便宜上そう言っているが、可能性として考えられるのは……。
「ディアン、聞いているの!?」
「……はい」
答えは遮られ、返事をしなかったことを咎められる。
推測が合っていようと間違っていようと、用事が済めばお開きになるはずだ。耐えるのは、その僅かな間だけでいい。だから、なにかが起こりようもない。
怒り続ける母の声を聞きながら、そう自分を宥め、落ち着かせる。
きっとすぐに帰れるはずだと、だから不安に思うことなどないのだと。
そう言い聞かせ、ようやく口に入れたパンは、なんとも言えない味がした。
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