130.賑やかな幻覚
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洗いすぎて顔どころか髪さえも濡らし、存分に深呼吸もして。ようやくエルドの元に戻ってからも、その幻は消えなかった。
数としては五、六ほど。一匹……いや、一人はディアンの肩に乗り、一人は反対側から髪を引っ張り。一人は水を入れた容器を覗き込み、残りは周囲を飛び回る。
疲れゆえ、脳が見せている幻ならまだしも……乗られた肩はほんのりと温かいし、シャラシャラと響く音も途切れない。
なにより、引っ張られ続けている髪の毛が若干痛いのだ。ただの幻で片付けるには質量がありすぎる。
実はまだ夢の中……と言われた方が納得できるが、自分でも腕を抓って確かめたので間違いはない。
本当にそこに存在しているのかと思ったが、戻ってきた時のエルドの反応は特に変わらず。今も正面にいるが、光に囲まれているディアンになにも言う様子はない。
もしかしたらゼニスには見えているのかと視線を送るも、こちらも普段と変わらず。涼しげな瞳に見上げられれば、自分だけだと認めるしかない。
「どうした?」
「えっ……あ、い、いえ。なんでもありません」
なんでもない、ことはないが……しかし、どう説明したらいいのか。
目の前を少女の姿をした小人が飛び交ってちょっかいを出してくるなんて、どこか頭を打ったと疑われる案件だ。
配膳されてから一向に口にしない時点で異常には気付かれているだろうが、スプーンの皿部分にちょこんと座られては掬うも食べるも不可能だ。
膝に置いたパンは何日か経っているので少し固く、硬度を確かめるようにペチペチと叩く者や、具のないスープを覗き込み、手を入れようとしては止める姿も。
なにかをしようにも目立ちすぎる彼女たち。こんなにも鮮明なのに、見えているのは自分だけなんて。
「調子が悪いのか」
「いえ、そんなことは……」
催促しても手をつけようとしないなら、そう判断するのは自然な流れ。心配そうに寄せられる眉に、慌てて首を振るも少々苦しいのは言われるまでもなく。
ディアンだって食べられるなら食べているし、この後のことを考えれば朝食抜きは避けたいところ。だが、スプーンの上でひらひらと揺れるスカートを、スープ塗れにするのはさすがに憚られる。
花びらのようにも見えるが、そう見えるだけでちゃんとした布なのか。いや、幻覚相手になにをそこまで考えているのか……。
しかたなくスープは一度置き、パンを千切って浸す。玩具を取り上げられたと勘違いしたのか、ペチペチと腕を叩く衝撃は少しだけ痛い。
髪は先ほどよりも強く引かれ、されど振り払うこともできず。どうしたものかと眉を寄せたいのはディアンの方だ。
このままでは食事もまともに進まない。だからといって食べないわけにもいかない。
そもそも、この周囲を飛び交う少女たちは本当に幻覚なのか。それとも、存在しているのか。
後者であれば、エルドがなにも言わないはずがない。ゼニスだってなんらかの反応を示すだろう。自分だけが見えているなんて、そんなこと……。
再び止まる手。落ち込む視線。それを引き戻したのは、眼前に入り込んだ色に対してだ。
若干の眩しさと、合わぬ焦点。距離が近すぎるからだと理解し、僅かに離した目で捉えたのは――丸々と太った芋虫が、一匹。
「――うわっぁ!?」
虫は苦手ではないが、前触れもなく至近距離に現れれば誰だって仰け反る。それが、まさにディアンの顔に移動しようと身体を起こしていたならもっとだ。
地面に直接座っていたならそこで終わったが、手頃な岩に座っていたので咄嗟についた手は宙を掻き、支えを得られない背中は勢いのまま後ろへ。
パンは空を飛び、視界はぐるりと天を向く。冴えきった脳が一連を認識しても、身体が追いつかなければ防ぎようもなく。やがて、後頭部に鈍い痛みが襲いかかる。
「いっ……た……!」
頭を押さえ、膝を丸め。少しでも痛みを緩和させようとしたが、どうにもならず。シャラリと聞こえる音は、そんなディアンを笑うかのよう。
……いや、実際に笑っている声はたしかに聞こえている。
「くっ……くく……ひどくやられたな」
「……がう」
ゼニスの呆れ声は無様に転んだディアンに対してか、あるいは無遠慮に笑う主人に対してなのか。
倒れたままのディアンを覗き込み、鼻先を寄せる姿からして後者だとは思いたいが、どちらでも痛いのには変わらない。
「な、んっ……なに……」
「悪い悪い、ちょっと様子を見ていた。……大丈夫か?」
目の前を飛ぶのは彼女たちの光なのか、頭を打ち付けた錯覚か。その合間で近くに来たエルドに手を引かれ、ようやく身体を起こす。
光に囲まれながら膝の上に戻ってくるパンと、いつのまにか避難されていた器。そして……エルドの肩に乗る、少女の姿。
「お前たちも、あんまりからかってやるな。こいつだって初めてだったんだから……」
返事をするようにシャラリと音が鳴り、それを合図にするように光が散る。何人かはディアンの元に残っているが、今はゼニスの所にも。
「あ、の……これは、いったい……?」
やっぱり見えていたのかとか、どうして無視をしていたのかとか。聞きたいことはひとまず呑み込み、原因について問いかける。
離した手の上。そこにちょん、と立つ可憐な少女。くるりとディアンを振り返り、スカートを持ち上げる姿はまるでお姫様のよう。
「妖精だ。見るのは初めてだろう?」
「……よう、せい」
思わず復唱し、瞬き、凝視する。ようせい。……これが、妖精?
知らないわけではないが、しかし……。
「でも、妖精は空想上の生物では……」
よくあるおとぎ話に出てくる生物だ。伝える者によって獣だったり、人の姿を取っていたり、そもそも姿そのものがなかったり。
あらゆる形で描写されているが、実在するという話は聞いたことがない。
言われて見れば、確かに一番よく言われている姿にも見えなくない。可愛い少女の姿で、手のひらにのる大きさ。
羽はないが、シャラシャラという音から考えるに見えていないだけなのか。
「ん? ……あぁ、なるほどな。言ってこないからどうしたのかと思っていたが……」
流れるように頭に手を置かれ、温かな光が差し込む。響く頭痛は消え、また治療魔法の無駄遣いだと咎める気にはなれず。
「でも、見えていたのに無視していたのは変わらないからな。そりゃあ虫も突きつけられる」
それはムシをかけた駄洒落かと突っ込みそうになるのを喉で引き留め、そうだそうだと頷く少女たちに眉を寄せる。
「ご、ごめん、そういうつもりじゃ……」
「知らなかったならしかたない。次からは遊ばなくても挨拶だけはしてやれ。そうすりゃ、ちょっと賑やかな程度で済む」
シャラシャラと聞こえる音は、ちょっとで納めるにはやや主張が激しい。いや、これもエルドやゼニスには慣れた光景なのだろう。
妖精ごとエルドの手が近づき、思わず両手を差し伸べる。軽やかに移動する少女はクスクスと笑って上機嫌だ。
突きつけられていた芋虫が元の位置に戻されるのを横目に、瞬きを一つ。妖精。……これが、妖精。
「妖精について、どんな風に聞いている?」
「えっと……精霊とは異なる存在で、姿を現すのは気まぐれ。姿も決まったものはなく、勧善懲悪だったり、ただの悪戯好きだったり……創作の存在なので作り手によって変わりますが、概ねそんな感じです」
内容も多岐に亘るが、子ども向けの話に出てくることが多い。
そうでなくとも、精霊を主題にし、捏造を加えたものは本でも劇でも見かけられる。共通しているのは、精霊とは違い存在しない生き物、その一点。
「だいたい合っているが、基本的に人間にちょっかいを出すことも助けることもない。というより、人間には見えない存在だ。悪戯も手助けも、するとなれば認識している相手にだけだ」
シャラリ、聞こえるのは同意の声か。そもそも彼女たちに言葉はあるのか。あるとして、エルドたちには聞こえているのか。
手の上でちょこんと座る少女の数が1人増え、互いにクスクスと笑い合う。見下ろすディアンの視線など、少しも気にならないのだろう。
「……では、見えていないだけで、町にもいるんですか?」
こんな綺麗な音、聞こえていれば多少なりとも気付きそうなものなのに。
あるいは、物語と同じく……眠っている夜の間だけ、好きに過ごしている可能性もある。
「さあな」
「さあな、って……」
だが、返ってきた言葉は心底どうでもよさそうな響き。興味がないか、ディアンに教える気がないか。いや、教える気がないのなら、彼はそうディアンに説明する。
故に、興味がないのでもなければ……彼にも、よくわからないということ。
「妖精ってのは自由だ。誰の命令も聞かないし、誰に従うこともない。自分たちがやりたいことを、やりたい時に、やりたいようにする。だからこいつらは自然と居心地のいい場所に集まるし、楽しくない場所には長居しない。そういう意味だと、人間に視認されないとわかっているのに町にいる理由はないだろうな」
お祭りでもあれば別だろうがと、付け加えるそれは声に反してやや真剣。真面目に考えたことがなかったのだろうか。
なんだか釈然としない。それまで空想上の生物であったことを含めても、エルドとの認識の差が大きい。
「彼女たちはその……小間使い、というわけでは……?」
それこそ、幼児向けの絵本でよく見かけるのはその設定だ。特別な加護を授けた……つまり、愛し子に対して精霊が更なる施しを与えるために遣わせる役として。
正しく洗礼の通りに、自分の誓いを為しえているか確かめる目のかわりとして。そうして、精霊は全ての人間を見守っているのだと、そう教えるための存在として。
「これでなにを手伝ってもらえって?」
だが、夢とは呆気なく砕け散るものだ。これ、と指された指をしげしげと見つめ、そのままパクリと食らいついたのはわざとか、そうでないのか。
まるで好奇心旺盛な子どものようだ。……たしかに、仕事を言いつけても理解してくれなさそうではある。
物を持つにも力なく、思い出せば先ほどの芋虫だって数匹がかりで持っていった。見た目通り、と言えばそれまでだが……なんだか、少し残念な気もある。
自分の中にそんな感情があったのかと、新たな発見こそあったがあまり嬉しくはない。
「まぁ、こういうのは時代と共に湾曲されるもんだ。そう落ち込むな」
そんなディアンにエルドは笑い、ゼニスは少し呆れ顔。いや、呆れと言うよりも群がられて疲れているのか。
妖精であろうと、ふわふわの毛皮の誘惑には抗いがたいらしい。
もしかすると、今まで時折疲れた表情をしていたのは、近くに妖精がいたからなのだろうか。
今までは見えていなかったので、てっきりエルドの言動によるものかと思っていたが……と、そこまで考えたところで首を捻る。
「人間には見えないと言っていましたよね?」
そう、見えていなかった。というより、見えないと断言したはずだ。
しかし、今こうして彼女たちはディアンの手の中にいるし、肩にもいる。奏でる羽の音は止まないし、光の明滅だっておさまらない。
ほんとうに、なんの前触れもなく見えるようになるなんてあり得るのだろうか。
「ああ、門が近くにあるからだろうな」
抱いた疑問は簡単に晴らされ、新たな謎が浮かぶ。門、と言われて想像するのはたった一つ。
「門って……精霊門が?」
「この感じだとそれなりに近いが……ああ、下にあるな」
下、と言われて目を向けた先にあるのは平らな地面。ここは崖の上でもないし、湖の近くでもない。指し示す通りの場所なら、本当に土の中になってしまう。
南という意味ならまだわかるが、その方角こそ昨日ディアンたちが歩いてきた側だ。
旅人や冒険者だって通りかかるのだ。門があるなら見張りも必要だし、もっと厳重に守られていなければならないはずだが……。
「機能しているってことは、おそらく洞窟の中だ。最初は入り口も開いていたが、土砂崩れかなんかで入り口が塞がって、そのまま忘れられたんだろう」
「塞がっていたら彼女たちも出られないのでは?」
「言っただろ、こいつらは自由だって」
言っているはじから、地面の中にとけていく姿。いや、溶けたのではなく透けたというべきか。
質量も重みもあるのに、透過もできるなんて……本当に、なんとも自由である。
「供給がされている以上、教会も管理はしているだろ。そう簡単に見つかる位置にはないと思うが……」
「供給?」
「ん? ……あ、」
パチ、と瞬く顔は不思議そうに。それから思い至ったのか、僅かに焦りが滲む。
「いや……これはどうだったか……」
独り言に聞こえるそれはゼニスに対して。ディアンが知ってもいい内容だったか、と確認するのはこれが初めてではない。
明確に言ってはならないことならまだしも、線引きが怪しい物に関しては記憶も曖昧。うっかり口走って困るのは、そう教えられるディアンの方だ。
知れるのなら知りたいところだが、ディアンを守ろうとするエルドをせっついてまで知る必要はない。
では、今回の失言はどうだったか。問われたゼニスは無言のまま……つまり、大丈夫ということだ。
「どこから話したもんか……あー……」
呟き、悩み。少し考えて。それから、どうするか決めたエルドが、ディアンの手元を指差す。
「とりあえず、手遅れになる前にそれ食っとけ」
それ、と指差されたパンとスープに思い出す空腹感。
促されるまま口に運んだそれは時間が経っているはずなのに、なぜだか温かいまま。
「早くしないと、そいつらの『悪戯』で火傷しちまうぞ」
慌てて飲み込み、すくった二口目は想像に反して冷たく。困惑するディアンを笑うように、鼓膜はシャラリとくすぐられた。
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