128.万事うまくいかず
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次話からディアンたちの話に戻ります。
深い、深い溜め息は、この場にはとても似つかわしいものだった。
蒼と白を基調としたその空間。蒼と白を基調とした最奥、数段高い場所に置かれた場所。
上から垂らされた布によって姿形を隠された女の眉間には、同じく深い皺が刻まれていた。
その椅子の後ろ、間隔を置いて両側の壁から流れる水の音は癒やしにもならず、通路を沿うように掘られた路を流れていく様も和やかにはさせてくれない。
視線は階段の手前、侍女の掲げた通信具。ただその一点にだけ注がれたまま。
『――以上になります』
報告に区切りが付いても言葉を出せず。もう一度、息を吐く。
眉間はより狭まり、頭痛はひどくなるが、それらを聞かなかったことにはできない。
「……状況は把握しました」
努めて冷静に、何事もないように。たとえ姿が見えずとも、佇まいを乱さないのは彼らを導く者だからこそ。
本来迎え入れているはずの『候補者』は、未だ『中立者』と共に行動。厳重に見張っていたはずの王族二人は、なんらかの方法で監視をすり抜け、教会への侵入と一般人を誘拐。
手配書偽装についてもまだ証拠は掴めず、いい状況とは言い難い。
予定では、一週間前には『候補者』を迎え入れ、それで終わるはずだった。
これまでの過ちと、償わなければならない罪。全てを明らかにし、ようやく開放できるはずだった。
望まぬうちに巻き込まれ、全てを狂わされた人生。精霊にとっては束の間、されど人間にとっては取り返しの付かない膨大な時間。
理不尽にもそれを奪われた者がようやく開放される。否、開放されなければならないと、トゥメラ隊に命じ、エヴァドマまで赴かせた。
……それがまさか、『中立者』自身に阻まれるなど。
詰めが甘かった、と言われれば否定はできない。しかし、それはあってはならないことだ。
想定できるわけがない。よもやその役目を放棄すると脅してまで迎えを拒むなど。
その結果、サリアナは『候補者』の生存を知り、司祭の身内は幽閉されている。無関係な者が巻き込まれていく事態を望んでいたわけではない。
だが、知りながら手を出さないのは……確かな証拠がないからこそ。
「グラナートは」
『ペルデ・オネストが発った後、命令通り聖国へ帰還させております。『候補者』が到着するまでには間に合うかと」
「……子息については」
『伝えておりません』
グラナートのことだ、無事だと分かれば無茶はしないだろう。だが、ラインハルトの狙いは、ペルデが誘拐されたと彼が知ることにある。
「引き続きミヒェルダに対応を任せます。危害があるようなら、すぐに救出を」
何事もなければ、ペルデと共に隣町へ向かうはずだった彼女は今、身を隠しながら動向を確認している。
トゥメラ隊ほどではなくとも、彼女もまた女王が認めた部隊の一員。たとえ、他国の王城。その地下室であろうと、なんの弊害にもならない。
ペルデは確かに一般人だ。司祭の身内とはいえ、それは変わらない。
だが、それは同時に、教会と国との諍いに巻き込んでしまったということでもある。否、彼もまた被害者だ。そんな対象を見殺しにするほど、教会は冷酷ではない。
そこに利害がないといえば嘘にはなるが、ペルデの安全は確保している。救助は然るべき時に行われる。そして、それは今ではない。
「アリア。エヴァンス家、およびノースディア王家に動きがあれば随時報告を。特に、王女の動向から目を離さぬように」
短い同意の後、交信具から光が消える。彼女もまた、別部隊の隊長を担うだけの実力者。グラナートがいなくとも、その代用は十分に果たせるだろう。
数刻と置かず続く報告のため、もう数日のほとんどを謁見室で過ごしている。青いカーペットを辿り、出て行く背中を見るのもこれで何度目だろうか。
ようやくそこで額に手を当て、もう一度息を吐く。人ではない血が流れているとはいえ、精神的な疲労までは緩和されない。
この事件の一連……その原因はサリアナにある。それは、『候補者』が『中立者』と出会う頃にはわかっていたことだ。
そこに『花嫁』の影響がなかったわけでもなく、全てがサリアナだけでないことも同じく。だが、今まで浮上した罪の大半に彼女の手が加わっているのは揺るぎようがない。
問題は、その証拠がないことだ。
彼女の仕業である。それは間違いない。
指名手配書の捏造も、ラインハルトが監視の目をすり抜けてペルデを誘拐できたことも、コレまでの事象のほとんどだって。
だが、監視をされていたのはサリアナも同じ。誰よりも厳重に、一切の抜け目なく。それだけ信頼できる者を、彼女の周りには配置していた。
……それでも、彼女は行動を起こせている。
サリアナを加護しているのは、フェガリ――創世記の頃、精霊王より魔術の要となる力を授かり、それを人間にも使えるようにした精霊だ。
月と魔術、その両方を備えた彼女から加護を賜った者は独創性と魔力に恵まれ、その大半は魔術者としてその名を歴史に刻んでいる。
その中でも、サリアナは天才と呼ばれるほどに優れている。
現に彼女の魔術に対する知識と実力は、あの王国の中では随一と女王自身も認めているほどに。
しかし、どんな魔術も使用すれば痕跡が残る。時間と共に薄くなるとしても、完全に消し去ることはできない。
仮に、監視全員の目を欺ける幻覚とすれば、それだけ使われる魔力だって多く、痕跡だって強く残る。
……それなのに、彼女が使った形跡はどこにもないのだ。
部屋にも、彼女を見張っていた者たちからも。そして、ペルデの私室……彼自身にさえ。
物的な証拠が望めなければ、魔術面で調べるしかない。だと言うのに、それすらも見つからないという。
半分は人とはいえ、精霊の血が流れた者の目を欺けるだけの実力。
いくらフェガリの加護を授かっていたとしても、彼女たちを騙しきれるなど……サリアナだけの力ではない。
もしここで『花嫁』が関与していれば納得もいく。メリアを加護している精霊であれば、あり得ない話でもない。
兄に恋慕する友人。その力になりたいと無意識に力を貸したのなら、まだ説明もついただろう。
だが、あの娘にそれだけの知恵はない。
最後に接触したのも、事が起こるより前のことだ。よほど巧妙に隠したならともかく、これまでの行動を照らし合わせてもその線は薄い。
だからこそ、他に糸を引いている者がいる。それこそが真に教会を脅かすものだ。
それを見つけるまでは、分かっていたとしても泳がせておくしかない。生かさず、されど殺さず。被害を予想し、対策を練るしかない。
ああ、なんとも歯がゆい。『候補者』を保護できていれば、ここまで悩むことなどなかったはずなのに。
「……本当に、ままならないものね」
落ちた呟きに反応したのは、覆いの外で待機している男の視線だ。
刈り上げられた眩しい金の髪。纏う鎧は、白と蒼で誂えられていることこそ同じだが、その見た目は他の騎士とは異なる。
己が仕える主人の姿は、そこからは見えない。だが、その視線は一寸の狂いもなく彼女の瞳へ注がれている。
「……女王陛下、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「許します」
そろそろ聞かれる頃合いかと、予想していたとおりに声をかけられ。許可を出しても騎士の唇はやや硬く。
「……『中立者』様は、一体なにをお考えでしょうか」
少し迷い、しかし目は逸れぬまま。間を置いて出てきた言葉も、やはり彼女の想定通り。
誰もが抱いている疑問だ。『中立者』がどういう意図で、ここまで彼に執着しているのか。
同情か、後悔か。それとも贖罪か。
精霊側の都合でここまで人生を翻弄された者に対し、『中立者』としての責務を全うしようとしたのかもしれない。
理解していても切り捨てられず、拾い上げては後悔する。
彼は昔からそういう男だ。だからこそ、『中立者』としての立場を授け、聖国に縛り付けることなく、所在を報告させるだけで良しとしていた。
……だが、
「ある程度の想像はつきますが……彼は『中立者』でないと明言しました。ならば、それは私たちの預かり知れぬところ」
あのエヴァドマの町で。『候補者』を迎えようとしたあの時に、彼は確かにそう明言した。
教会に仕える従者ではなく、本来の自分として。任務とは関係なく、彼自身の意思でそうしているのだと。
そんなもの、わかるはずもない。……否、わかりたくないと、無意識ながら拒否しているのだろう。
そう、理解などできない。もしその予想が当たっていたなら、それこそ……それこそ、自分たちへの侮辱だ。
誰よりもその咎を知る男が、愛し子たちを救ったあの男が……ただ贖罪のためだめに選ぶというのなら、許すわけにはいかない。
いや、既に彼の中で答えは出ているのだろう。そして、その自覚はない。
そうでなければ、あんな言葉が出てくるはずがないのだ。
「いかがされましたか」
「いや――ふふ、いいえ。あまりにもおかしくて、つい」
人目はないが、いつ誰が来てもおかしくはない。
声は装ったまま、されど思い出したその言葉に、冷ややかな笑みが戻ることはない。
「『あいつが決めること』なんて……滑稽だとは思わない?」
「それは……」
クスクスとこぼれる息は止まらず。見つめた瞳は戸惑うばかり。
自分には答えられないと、隠すこともできぬ己の騎士をしばし眺め。それから、もう一度息を吐く。
「こうなることも、彼女の狙い通りだったのかしら」
サリアナではなく、メリアでもない。
冷たく、凍るような声で指す相手を、彼女を慕う騎士は一人しか知らない。
温かな恵みの春でもあり、同時にそれを破壊する嵐でもある。されどそこに悪意はなく……だからこそ、手のつけようがない。
「……自分には見当もつきません」
それこそ、ここにいる誰よりも人に近い自分ではわからないと。答えた騎士の言葉に響いた息は、諦めと疲れのどちらが勝っていただろうか。
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