126.崩壊
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「――ペルデ!」
呼ばれた名に、意識を戻す。見開いた瞳に映る景色はいつも通りで、しかし自分がなにをしていたのか思い出すのにひどく時間がかかったのはなぜなのか。
見慣れた床、見慣れた壁。その隅に蹲る自分と、肩を掴む父の姿。
揺らぎ彷徨う瞳が捉えられたのはそこまでだ。
その後ろでこじ開けられた扉が開かれていることも、ミヒェルダとアリアがそばにいることも、ペルデの意識には入ってこない。
「と……うさ……?」
普通に呼んだはずが、声はひどく掠れている。全力疾走した後のように身体は怠く、息が苦しい。
汗で張り付く服が気持ち悪く、拭いたくとも痺れの残る両手は満足に動かせないまま。無駄に回り続ける頭だけが忙しない。
……自分は、なにをしていた?
思い出そうとしても頭の中に靄がかかり、なにかとても恐ろしいものを見た気がすることしかわからない。
いるはずのないもの。あってはならないもの。逃げようとして逃げられなくて、追い詰められて、それで……それで?
「どこか怪我は? 不調は?」
「い、いえ……なにも……」
蹲っていた理由も、出かけたはずの父がここにいる理由も、なにもかもわからない。
痛みはない。息苦しいのも、じきにおさまるだろう。
問われるままに素直に答え、見上げた顔に滲むのは安堵だ。
ペルデの意識が戻ったことに対し、怒りの感情は見当たらない。あるのは、まだ残っている戸惑いと……消しきれぬ焦り。
「一体なにがあった」
低く、唸るようなそれに恐怖よりも困惑が勝る。
なにがあったのか知りたいのはペルデの方だ。なにもわからない。思い出せない。
違う、思い出そうとするたびになにかが拒んでいる。思い出してはいけないと、知ってはならないのだと。
たしかになにかがあったはずなのに、本能がそれを拒んでいる。このまま忘れてしまいたい。このまま、なにもなかったことにしたい。
だが、首を振ったのはその欲求からではなく、本当に思い出せないからだ。
言わなければならないのに、わからない。いつから自分がこうしていたかも、どうしてこうなっているのかも、全部。
ベッドの上にいたはずなのに。それが、どうして。
「……ミヒェルダ、報告を」
ペルデからはなにも聞けない。そう判断し、別の名を呼んだことで、ようやくペルデも彼女を視認する。
二人を見つめる表情は険しく、深刻なもの。
そう、そうだ。彼女に扉が叩かれて……それで、無視をしていたはずなのに、ずっとうるさくて、だから、
「……騒音に気付き、駆けつけた時には扉の鍵は閉まっていました」
凛と響く声に感情はない。淡々と報告するそれに、浮かぶのは本能的な恐れ。
聞いてはならない。聞き続けてはいけない。そう思っているのに、耳を塞ぐことはままならず。
「呼びかけましたが応答はなく。中からはサリアナ王女の声が――」
――その名を聞いた途端、目の前がぐるり、回る。
目眩ではない。めまぐるしく蘇る記憶に意識が遠のきかけたのだ。
全身が粟立ち、息が止まる。見開いた瞳に映るのは父の横顔ではなく、思い出すべきではなかった忌々しい出来事。
扉を開けた先。いるはずのない人物。浮かべた笑み。囁く声。香水。頬に触れる手。見つめる青の奥、わらう彼女の、サリアナの、
「――あ、」
ぐるり、世界が回る。思い出す。思い出して、しまった。
呻き、首を振り、蹲る。そうしたところで過去は変えられない。してしまったことを、なかったことにはできない。
そう。自分はあの女に、あの悪魔に聞かれて、そして――!
「……ペルデ?」
名を呼ばれる。あの悪魔に呼ばれている。違う、もうあいつはいない。ここにはいない。
それなのに頭の中で木霊する。響いている。こびり付いて剥がれない。止まらない。
あの悪魔の笑う声が、あの悪魔が囁く声が! ずっと!
「ペルデ、どうし……」
「ちが……ちがう、ぼくは、ぼくは……っ……!」
込み上げる吐き気に歯を食いしばっても、痛む頭をどれだけ押さえようと、なにもかも手遅れだ。
言ってしまった。伝えてしまった。そうしてはならないと分かっていたのに、どうして――嗚呼、どうして!
「ちがう、ちがうんです、僕はっ……僕は言いたくなかったのに!」
痛みを抑えようとしたそこに爪が食い込む。だが、薄皮の剥がれていく感触がなんの抑止になったのか。
否定しなければ。違うのだと言わなければ。だって本当に違う、自分は言いたくなかった。言いたく、なかったのに!
「わかっていたのに、言いたくなかったのに! なのに、なんでっ!」
また怒られてしまう。また、咎められてしまう。
ああ、違う。ペルデが恐れているのはそうではない。そんな一時の感情なんかではない。
違う、違うのだ。本当に、それは自分の意思ではない。そうしたくて、そうしたのではない!
どれだけ説明したくとも、口から出るのは否定ばかり。なにも伝えられない。なにも、伝わらない。
それでも言わなければ。違うのだと言い続けなければ、そうしなければ――!
「違うんです! 父さん、僕はっ!」
「ペル……」
「グラナート」
その声色が変わったことも、本来つけなければならない名称がないことも、ペルデの意識にはなく。
そうして自分を放置したまま交わされる会話が、耳慣れぬ言語であることにも気付くことなく。
膝を寄せ、身を縮め。目を見開いたまま地を凝視するしかない男に……グラナートの表情は見えないまま。
「……ペルデ」
何度目かの呼びかけ。だが、それがどの時よりも硬く……苦々しいものであったか。やはり、呼ばれた男は気付けない。
「今日中に荷をまとめなさい」
「……え、?」
端的に告げられたそれに、思考が止まる。
にを、まとめる。それが聞き間違いであれと願い、見上げた顔は……もう、ペルデに向けられてはいない。
否、それは確かに彼を見下ろしていた。父ではなく、司祭として。教会のあるべき姿として、彼を。
「場所はこちらで用意する。……許しが出るまで、ここには戻るな」
ぐらり。世界が、揺れる。
まるで鈍器で殴られたかのように強い衝動。だが、触れているのは彼の手だけだ。どれだけ息を呑もうと、目を見開こうと、伝えられたのはそれだけ。たった、それだけ。
あれだけ繰り返していた否定が出てこない。首を振り、伸ばしたはずの手は地面についたまま動かない。
理解したくない。わかりたくない。だが、それは間違いなくペルデに示している。
父に、見限られたのだと。
「――ま、って」
後ろ姿が遠ざかっていく。もう、あの赤がペルデを見る事はない。
見限られたのだ。教会には置けないと。自分たちに害をなす存在であると。息子ではないと!
「まって、とうさっ……まって!」
足は止まらない。声は届かない。違う、違うのに。本当に、自分の意思では、ないのに!
言いたくなどなかった。会いたくなんてなかった。ここにいるはずがなかった。あいつの情報なんて、知りたくも聞きたくもなかったのに!
違う、ちがう、ちがう! 邪魔になりたくなかった。認められたかった。だから守ろうとしていたのに、どうして……どうして!
「とうさん――!」
部屋を出る直前、一度だけグラナートが立ち止まる。されど、その赤がペルデへ向けられることはない。
僅かに振り向きかけたその顔。その表情が、ペルデから見えることだって。
「……明日、日の出と共に立ちなさい。これは祭司としての命令です」
足音は遠ざかり、姿は見えなくなる。
開かれたままの扉をどれだけ見つめようと、グラナートが戻ることはなく……傾いた身体を受け止めるのは地面だけ。
「あ、ぁ……あああぁああ……!」
額を押しつけた床から跳ね返る咆哮は小さく、どこに届くはずもない。
どうして。……どうして。
繰り返される疑問。得られるはずのない答え。だが、それは最初から与えられていたものだ。
泣き叫ぶ気力さえつき、鈍重な動きで起き上がった彼の瞳に光はない。
そう、答えはわかっていた。わかっていたのだ。
こんなにも苦しいのは。こんなにも恐れていたのは。その全てが、あの化け物に……ディアンに、関わってしまったからだと。
ペルデの意思でなくとも、ディアンがペルデに関与した。それだけで十分だったのだ。ペルデの全てを壊すには。全てを、奪い去ってしまうには。
最初から手遅れだったと。気付いた男の耳に聞こえたそれは、一体なにが割れる音だったのか。
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