11.遠い記憶
気付けば、そこは緑溢れる空間だった。
整然と並べられた石畳を囲む色とりどりの花たち。そのどれもが活き活きとし、調和した色彩は一つの芸術のよう。
整えられたトピアリーは何十と並び、その全てが手練れによって整えられているのは見ても明らか。
雇われている庭師の腕が相当いいか、人数の多さで補っているのか。その答えが片方だけではなく、その両方であることをディアンは知っている。
ほとんどが円形に整えられた樹木の中、一つだけ兎を形取ったその根元。周囲に溢れるどの花々よりも美しい姿に目を瞬かせる。
「ねぇ、ディアン」
丸みを帯びた頬は赤く。瞳は今よりも大きく透き通った青。蜂蜜色の髪がバレッタで留められていたのはこの頃からかと思い出す。
そう、思い出している。これは過去の出来事だ。まだ洗礼を受ける前、父に連れられてきた王城で……姫と話をした、遠い記憶。
所々不鮮明な景色はディアンの記憶を反映させている証拠だ。
その全てを思い出せないのは、あまりにも昔すぎることと……目の前で続く断片に気を取られているから。
「なあに?」
意識せずとも声が出る。そう、この時はまだ敬語ではなかった。正確に言えば、敬語でなくても許されていたのだ。
ディアンが特別だったからではない。父の子ども。幼なじみ。友人。理由はそれだけだ。
最初は敬語で話していたが、彼女に嫌だと言われてからこうなったはず。
そう思い出す内容に懐かしさを感じないのは、この後に続く言葉を思い出しているから。
「ディアンは……わたしのこと、どうおもってる?」
頬は更に赤く、目は期待に染まりながらも逸れる。ディアンの手を握りながらも落ち着きなく指を動かす仕草はなんとも分かりやすい。
成長した今ならともかく、当時の自分は気付いただろうか。自惚れではなく、これが好意を抱かれている反応で、そして彼女がどんな言葉を求めていたか。
精神面の成熟は女性の方が早いとはいえ、気軽に答えてはならないとは勘付いていただろう。
友人としての意味合いで好きと言ってはいけないと、はっきり理解していなくても……おそらく、本能から。
「うん! 妹のつぎに、だいじだとおもってるよ」
他者であれば微笑ましい回答だ。だが、当の本人からすれば苦い思い出しかない。
この頃の仲は、悪くはなかったとは思う。特別良かった記憶もないが、少なくとも今ほど邪険にはされなかったはずだ。
あそこまで嫌われるようになったきっかけはハッキリと覚えている。そして、あまり思い出したくないということも。
……同じように、この先もいい思い出ではない。
「じゃあ、わたしとずっといっしょにいてくれる?」
なにが『じゃあ』で、どうしてその発想に至るのか。
単純だ。妹は家族だから仕方ないけど、次に大事なのは自分。だからディアンも自分のことが好き。だから、一緒にいてくれるはず。
子どもらしい考えだ。当時のサリアナがそこまで考えていなくても、好意を寄せている相手と一緒にいたいと思ったのには違いないし、その確約が欲しかったのだろう。
大好きな人と、ずっと一緒に。
なんと可愛らしく、純粋な願いだろう。普通の女の子に言われたなら、なにも考えずに返事をしたはずだ。
いいよ、ずっと一緒にいよう。大人になっても遊ぼう、と。
所詮は子ども同士の口約束。互いの感情が僅かにずれ、それが友情と愛情の違いとして現れたとしても拒否はしなかったはずだ。
……だが、どれだけ幼くとも、ディアンはその立場を理解していた。
敬語が許されていようと根本は変わらない。相手は王族であり、姫である。本来こうして出会い、話すことだって叶わない相手だ。
そうだと父親から言い聞かされ、それをちゃんと分かっていたのだ。
父が英雄と言われようと、ディアンは平民で、サリアナは王族。いずれ別れる日は来るし、それは仕方のないことだ。
その場だけ頷くこともできだだろう。だが、それは彼女に対して偽りを誓う事になる。誠実であるなら嘘は吐いてはいけない。
それで目の前の少女が傷つくと分かっていても、ディアンに嘘の約束はできなかったのだ。
「ずっとは無理だよ、でも、」
だからこそディアンは答えた。
それでも、できる限り一緒にいると。いつかその日が来るまでは、こうして会いに来ると。
嘘ではない、本当にそう言いたかった。答えたかった。
……手首に走る痛みに、阻まれるまでは。
景色が変わる。違う、変わったのは景色ではなく目の前に立つ姿だ。
見えるのは太い足、視線は遙か上。手首を掴むのは、小さく身近な指ではなく、剣ダコのできた分厚い指。
同じ金色でも、それは柔らかな髪ではなく、鋭く突き刺すような冷たい光。吊り上がった目の中、ディアンを睨む光は、そこに。
父さん、と呼ぶ声が今の自分と重なる。心臓が早打ち、息が上がる。知っている。この後をディアンは知っている。知っているのに思い出せない。思い出せないけど見たくない。
矛盾を正すこともできず、握られた手を振り払うこともできず。怒声は金切り音に掻き消されて――。
「――っ、は……!」
目を、見開く。甲高い耳鳴りに支配される世界は薄暗く、硬直した瞳で捉えられたのは天井だけ。
それが自室だと気付くのに、どれだけの時間がかかっただろう。
荒い呼吸に、大きく息を吸う。滲む汗は温度ではなく、精神の負荷のせいだ。額を拭う気力もなく、冷めていく体温に身を震わせる体力もない。
どれだけそうしていたのか。ゆっくりと起き上がった身体はひどく重く、可能ならもう一度眠りについていただろう。
とても今の心境ではその気にはなれず、目元に手をあてがう。指先までも冷たく、されど落ち着くには心許ない温度。
もう一度息を吐き、それから力を抜く。改めて見た室内は寝る前と何ら変わっていない。
チェストと、鏡と、本棚と、机。あるのはそれだけだ。必要最低限、なんの装飾もなければ、心躍るような物は何一つとしていない。
否、興味深く思った本だけは棚に収まっているので、そこまでは言い過ぎたかもしれない。
そもそも女の……『精霊の花嫁』であるメリアの部屋と比べるのもおかしいことだ。
必要な物は揃っている。贅沢は望まない。
むしろ、これだけなにもなければ冷静になるのも早いというもの。
閉めきられたカーテンの隙間、差し込む光はまだ鈍く、太陽の位置も低いと見える。
そう、夢だ。分かっていたし、驚くことじゃない。過去にあったことを無意識に思い出していただけ。
まだ幼く、この世界に対してあまりにも無知であった頃。ディアンが、姫付きの騎士になることを目指すようになったきっかけ。
そう言うと大袈裟に聞こえるが、実際は言いつけられただけだ。サリアナに仕えるように、その為に騎士になるようにと。
詳細は思い出せないし、思い出したくない。あの後どうして、その流れになったのかも含めて、全て。
だが、そうだったことは真実。偽ることのできない過去だ。今さら思い出したところで変わるわけではない。
そう、あの日からずっと目指していた。頑張ってきていた。何年も努力を重ねて……そして、実らずにいる。
溜め息の代わりに見やった時計は、皆が起きる時間よりも随分と早い。
誰も起こしに来ないのだから、寝坊するよりはよっぽどいいだろう。既に汗もかいているから、ついでに剣の稽古をしてくるのも一つか。
そう思って立ち上がり、扉に向かう前に考えを改める。今の心境で誰かに会いたくはなかったし、話したい気分でもない。メイドたちが向こうから話しかけてくることはなくとも気持ちの問題だ。
では、筋力を付けるか、本を読むか。悩むのは数秒、選んだのは前者。
服を脱ぎ、冷たい汗を拭う。そのまま地面に這いつくばり、腕だけで上体を起こしていく。
たとえ僅かな間でも、無駄にできる時間はない。そう昨日も怒られたばかりだ。試験に関係のない本を読む余裕はないし、許されない。
朝食の時間を考えても一通りの鍛錬はこなせるだろう。集中すれば雑念も消え、自分の為にもなる。そう、これが一番いい方法だ。
頭で言い聞かせ、口は数字を連ねていく。その数が二桁を超え、三桁を超え。
外からの光が差し込んでも、ディアンを支配する雑念は払われてはくれなかった。
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