124.絶望の足音
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「……ペルデ」
低く、己の名を呼ぶ声に息を止める。そこに怒りが含まれていないと感じる前に、身体が勝手にそうしていた。
いつもなら。いつものペルデなら。……今まで通りの彼だったなら、すぐにでも飛び起き、扉を開け、昨日の弁解をしただろう。
寝る前に紅茶を届けに行っただけだと。盗み聞くつもりはなかったのだと。サリアナたちと接触しないよう、教会からは出ないつもりだと。
たとえ聞き入れられず責められると分かっていても、一通りは主張したはずだ。
だが、背は丸まり、足は縮こまったまま。身体の底から込み上げるのは、吐き気にもにた不快感と……僅かな怒り。
事実だけを見れば、ペルデはたしかかに盗み聞いただろう。言い訳はできないし、させてももらえない。
ディアンが来たあの夜は確かに故意だった。確かめなければ恐ろしかった。なぜここに来たか知らなければ、怖くてどうしようもなかったから。
決してサリアナたちに……あの悪魔たちに伝えるためではない。ペルデは自分の精神を守るためにそうしたのだ。
咎められると知りながら、それを知る立場ではないと理解しながら。だからこそ、その罰も叱りも甘んじて受けた。
だが、昨晩のは違う。少しでも父に休んでほしかった。そうできぬとはわかっていても、このままでは倒れてしまうと思ったから。
会話ができずとも、そのまま仕事を続けるとわかっていても、少しでも気を抜けたならと。
いつ終わるか、そもそも終わりがあるかすらペルデにはわからなかった。だからこそ、一時とはいえ休息をとってほしかった。
理不尽に怒られたことに対する逆恨みだと、そう言われたって込み上げる感情はどうしようもない。
内を占めるのが怒りだけではないからこそ、奥歯は割れんばかりに噛み締められ、顔は枕の中に埋もれる。
だが、どれだけ沈めても耳を塞がなければ音は鼓膜を叩き、聞きたくない声は脳を通り抜けていく。
「ペルデ」
本気になれば、こんな薄いドア一つ簡単に開けられる。合い鍵を使うなり、力に任せるなり、方法ならいくらでも。
だが、その手段に訴えないのは……グラナートにも思うところがあるのだろう。
返事がないことに対し、息を零す姿は想像でしかない。本当は表情一つ変えず、ペルデの対応に苛立ちを抱いている可能性だってある。
昨晩そうであったように。ペルデの言葉など、聞かなかったように。
「……夕刻まで出かけます。なにかあればミヒェルダへ」
端的に告げられるものに感情的なものはない。今日も任務のために向かうのだろう。
いてもいなくとも変わらない。そこにペルデが関与する必要はなにもないのだ。
知る必要もなければ、知りたいとさえも思わない。もうなにも……聞きたくない。
「ペルデ、その……」
それでも、グラナートは言葉を続ける。続けようとして紡げず、閉ざし。沈黙が続いて、しばらく。
「……戻ったら話をしよう」
そうして返事も待たぬまま、足音は遠ざかっていく。返ってこないと見越してなのか、最初から求めていなかったのか。
どちらでも変わらない。話などしたくない。少なくとも今は……誰とも、なにも。
話など聞いてもらえない。理解などされない。
今までもそうだった。説明などできなかった。言葉になどできるわけがなかった。あの感覚も、あの恐ろしさも、全て。
だから今までペルデは黙していた。今回も、これからもずっとそうなる。そうだとわかっている。
平穏など訪れない。ディアンが関与する限り……否、あの化け物が存在している限り、ペルデに希望はないのだ。
だからといって死んでほしいわけではない。それはなけなしの理性でも、人としての感性でもなく、本当にどうだっていいからだ。
ただ関わりたくなかっただけだ。知りたくなかった。これ以上なにも脅かされたくなかった。
もうなにも……なにも、知りたくなかっただけなのに。
身体の震えが止まらず、抱きしめた身は強張ったまま。
昂ぶりが収まれば、次に込み上げるのは恐怖だ。内側から滲み、染みつくような寒さ。身体の芯から震えるのに、どれだけ身体を温めようと楽にはならない。
大丈夫。大丈夫のはずだ。ここにいる限り奴らとは会わない。
当然のことを繰り返すのは、それでも安心できないからだ。
ラインハルトもサリアナも見張られている。教会が彼らの動向を見逃すわけがない。
グラナートへの接触も、教会に来ることも、そう簡単に許すはずがない。相手がペルデであろうと、それは変わらないはずだ。
そもそも、奴らにとってここは敵の本拠地でもある。自ら疑われるような真似をするほど愚かではないはずだ。
だから大丈夫。大丈夫だ。ここから出なければ……ここさえ守ることができれば。
砕けた希望をかき集め、必死に言い聞かせるペルデの耳に雑音が混ざる。扉を叩く軽快なそれは、ただただ不快なだけ。
アリアも父もいないならば、残っているのはミヒェルダだ。返事をする必要もないと無視していれば、数秒おいてもう一度叩かれる。
コン、コン。変わらぬリズムから読み取れる感情はないし、要件だってわからない。知ったところで、素直に従えるほどペルデはまだ落ち着いてはいない。
食事の催促か、父からの伝言か。ならば、出るのを待たずにその場で言えばいいだけのこと。
「……今は、放っておいてください」
もう一度、扉が叩かれたことに湧いた苛立ちを抑え、小さく呟いた言葉は届いたのだろうか。
起きていると知れば彼女も大人しく去るはずだと、そんな予想は軽やかな音によって簡単に否定される。
コン、コン。コン、コン。
変わらぬ拍子に舌を打つ。こんな悪態、したくてしているわけではない。
父からの厳命か。あくまでも、悪いのはペルデであるとそう訴えているのか。
本当に隠したい情報ならば、いくらでも防音室はあったはずだ。わかっていれば近づかなかった。知っていれば聞かなかった。
誰が望んで自分からなど!
「食欲がないんです。食べられるようになったら行きますから」
それでも語尾を荒げないのは、全て父に伝わってしまうからだ。
なにも知らずとも、ただのシスターではないことぐらいペルデも理解している。いや、本来ならもっと上の職位を授かっているのだろう。
全てはディアンのために。彼の為に用意された環境だったのだから。
理解している上で暴言など吐けないと、繋ぎ止める理性は変わらぬ音で崩される。
コン、コン、コン、コン。
もはや耐えられぬと飛び起き、裸足のまま床を蹴る。落ち着いたら言う通りにすると言っているのに、自分のことなどほうっておけばいいのに!
彼女たちが関与すべきはディアンだ。ペルデが誰かにこの情報を告げることを危惧するのであれば、それこそ部屋から出ないように監視を置けばいい!
そこにペルデの意思は関係ない。ペルデがどうであろうと、彼らは任務を成すだけだ。
だが、こんなところまで関与される覚えなどない。
今だけそっとしてくれれば元に戻れるのに。その努力だってできるのに。なぜそれすら待ってくれない? なぜ、それすらも許されない!
もはや直接叫ばなければ気が済まないと、鍵を開けノブを捻る。自らの手で、最後の盾を外してしまったことにも気付かずに。
そうして睨んだはずだ。その蒼を。いつもの服に身を包んだ彼女を。あまりの仕打ちに、怒りのままに。
……だが、その目に映る『あお』は、蒼ではなかった。
ベールではなく、生成り色のフードに隠されたバターブロンドがペルデの瞳を焼く。
本来なら見えるはずのない、癖一つ無い長髪。するりと肩からこぼれるその仕草一つさえ、高貴さを疑わせる。
だが、そんなものは目にも入らない。入るわけがない。
晴れ渡った空のように透きとおり、ペルデの心を見透かすような瞳。長い目蓋に縁取られ、宝石のように輝く青。同じでも違う。ここにあってはならない、ここにいてはならないそれは、ペルデの、目の前に。
音が響く。それは己の喉からだ。狭まった気道が悲鳴さえも閉ざし、声は音にならぬまま。
開閉した口からこぼれるものはない。声も、音も、息も、なにも。
そんな様子を青は見つめている。眺め、細まり、そうして――にこり、微笑む。
「こんにちは、ペルデ」
そうして悪魔は、美しい音色で男の名を呼んだのだ。
私は、ここにいるのだと。
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