120.愛しの
ブクマ登録、評価、誤字報告、いいね いつもありがとうございます!
車輪の回る音が延々と響き続ける。揺さぶられる身体を襲うのは、下から突き上げられるような痛み。
窓も閉めきられた馬車の中。静かに座る男の表情は硬く、険しく。もはや不快さを隠すつもりはないと、眉は寄せられたまま剥がれず。
否、不快なんて言葉では到底足りない。その瞳の奥、轟々と燃えるのは抑えきれない憎悪と怒りだ。
他者の目があったなら少しでも取り繕っただろう。
だが、今この空間においてラインハルトは一人きり。己を守る従者の姿すらないのならば、耐える必要などどこにあるというのか。
もはやこの衝動を抑える気にすらなれず、頭の中は同じ光景ばかりが蘇る。
赤く腫れた目。涙に濡れる瞳。己に助けを求める、愛しい彼女の姿。
その手を取ることのできなかった自分の不甲斐なさにも苛立つが、それ以上にメリアをあんな目に遭わせている教会が憎くて憎くてたまらない。
彼女があんな仕打ちを受ける通りはない。
メリアは『精霊の花嫁』だ。教会がそう望み、その役目を押しつけ、従わせて。だというのに、なぜあんなことになっている。なぜ、こんな非道を強いる。
噛み締めた歯が歪な音を立て、今にも割れんばかり。目つきはより鋭く、熱く。そこにいない根源を睨みつけるかのように。
二週間前。あの男が……ディアンが消えてから、全ては狂い始めたのだ。
最初は順調だった。あの忌々しい黒が視界に入らなくなった一週間、どれだけラインハルトの心が穏やかであったか。
教師たちは不調だと説明し、それを信じていたのはサリアナだけ。
皆、あの男が逃げ出した確信していた。ようやく己の厚顔さを知り、恥じて閉じこもった臆病者。妥当な評価に耐えかね、逃げた卑怯者だと。
知識も足りず、実力もなく、努力さえもしない。
そのくせ口だけは達者で、あろうことか『精霊の花嫁』にさえ上から目線で物を言う。
誇れる部分はなにもないとい。その責務を果たそうともしない。英雄の息子どころか、凡人以下の存在。
それがようやく人並みの恥を抱くようになったのだと、疑いすらしなかった。
切っ掛けなどどうでもいいし、知りたくもない。
あの男が学園に来なくなり、ラインハルトの目を汚すことがなければ。サリアナに纏わりつき、己の手を煩わせることがないなら、なんだって。
メリアに八つ当たりをしているかだけが不安だったが、少なくともライヒの日常はようやく穏やかになったのだ。
サリアナの暴走は目障りだったが、それでも……これでようやく、平和な日々が過ごせると確信していたのだ。
もうあの男は現れない。もう二度と、ラインハルトの前に出てくることはない。
指をさされ、笑われ、惨めなまま。そうして、卑怯者らしく生きていくと確信していたのだ。
――あの忌々しい教会が関与するまでは。
サリアナの悪癖だと放置したのがマズかった。いや、どうして司祭ともあろう者がたかが一般人を案じて様子を見に行くなど予想できただろう。
グラナートの贔屓を甘く見ていたのが原因としても、納得できる経緯ではない。
押しかけた先にあの男の姿はなく、本当の意味で逃げ出したと知らされた時は歓喜し、 死亡が確認された一報が届いたときには当然とさえ思った。
模擬戦ですら勝てたことのないあの男が、実戦でどうなるかなんて考えるまでもない。死体ではなく遺品のみが届けられていたのだから、相応の末路を辿ったのだろう。
出来損ないは最後まで恥をさらして死んだ。それで終わるはずだった。それで終わったはずだった。
最初にヴァンが。それから婦人と使用人たち……メリアにつけていた専属の騎士まで。あの屋敷にいたメリア以外の全員が、虐待の容疑で教会に捕らえられた。
ヴァンこそ王城の地下室にいるのはわかっているが、残りの所在はわからない。そして、わかったところで監視の目がある以上、接触も図れない。
食事を抜くのも、部屋で謹慎を命じるのも躾の範囲だというのに。虐待と呼ぶのは、それこそ教会のさじ加減だ。
学園の教師たちのほとんども同様に。ディアンへ妨害魔法をかけ続けた、などと捏造し、捕らえ、同年の者まで取り調べを受けたという。
後者は早々に解放されたが、教える者がいない今、学園はその門を閉ざしている。
この時点で奴らの狙いには気付いていたのに、対処する前にサリアナが暴走したせいで身動きすら取れなくなった。
ディアンを指名手配にし、目撃情報を集め、連れ戻す。あまりにも杜撰な計画だ。そもそも死者を指定する時点で錯乱しているのは明らか。
一体どんな手を使って成し遂げたかは不明だが、そのせいでギルドさえもが教会の手に堕ちてしまった。
誤報によって幹部が襲われたと、グラナートたちが乗り込み撤回させるまで一時間とかからなかった。
依頼の手続きもできなければ、新たなギルド員の登録もできず。最低限の業務さえ禁止され、エヴァンズ家同様、今も取り調べは続いている。
市井では日々不満が高まり、不安の声も。だが、その矛先は教会ではなく国に対してだ。
既にあり得ぬ噂も広まっている。ディアン・エヴァンズは、妨害魔法のせいで実力を発揮できなかったのだと。
馬鹿馬鹿しい。ああ、本当にあり得ない。だが、なにも知らぬ愚かな民に真実を見極めろと言うのが無理な話だ。
僅かな情報をかき集め、想像力豊かに捏造するのは今に始まったことではない。どちらが真実かなど、じきに明らかになる。
同じく、ディアンが虐待されていたというのも既に広まっているが、そちらは真実だろうが嘘だろうがどちらでもいい。
手配書に関して妹が手を回したことがどこまで知られているか。どうやってあの女がヴァンに接触したか、それだって、ラインハルトにとってどうでもいいこと。
どうであれ……自分とメリアが引き離されていることには変わらないのだから。
偶然にも教会が保護している人物と風貌が似ており、偶然にもそれに居合わせた者が、教会相手と知ってもなお襲いかかったなど。
町に広まるどの噂よりも馬鹿馬鹿しく、愚かな捏造だ。どれだけ証拠を揃えようとあり得ない。
虐待、妨害魔法、教会幹部への暴行容疑。そして、ラインハルトに明かされていない協定違反。
教会にとって都合の良すぎる流れだ。その一つが愚妹によって引き起こされたことだとしても、ラインハルトに一切関係はない。
実際、聴取が終わった後は監視程度で留まっている。サリアナは元より謹慎、父である国王は調査の指揮で実質監禁も同じだ。
ラインハルトは関与していない。それは既に証明された。今はなにも害を成す気はない。
……それなのに、なぜ。自分とメリアが引き剥がされなければならないのか。
涙に濡れた緑を思い出す度に怒りが込み上げる。
愛しいメリア。なによりも大切な唯一。誰よりも無垢で、純粋で。何物にも害されてはならない存在。
その彼女が泣いている。あの場所で、奴らのせいで、あんなにも苦しめられている。
教会の狙いは明らかだ。ディアンの失踪を利用し『精霊の花嫁』を管轄下に置くこと。
本来であれば、メリアはこの国に留まってはいない。聖国で保護されるのが通例であり、今もあの屋敷にいるのが例外であるのはラインハルトも理解している。
だが、メリア自身が嫌がったこと。英雄であるヴァンがそばにいること。王城から専属の騎士を派遣すること。これらの条件に納得したのは教会だ。それを今さら反故しようなど、到底許せる行為ではない。
最初から機を狙っていたのだろう。そうでなければ、ここまで教会に都合良く進むはずがない。
虐待。魔術過剰。死亡。協定違反。この短期間で出揃うにはあまりに多すぎる。
だが、それを指摘することはできない。指摘したところでねじ伏せられる。たとえ捏造と理解していようと、証拠を突きつけることは不可能。
全ては自分たちからメリアを遠ざける為。そうして、聖国へ連れて行こうとするための嘘。
ディアンは虐待などされていないし、魔術過剰など患っていない。全て奴の実力だ。
誰にも勝てない。自分の身すら守れない。圧倒的弱者。……だからこそ、その噂が真実味を増す。
病にかかっていたのだから弱かったのだと逆手に取られ、肝心の本人は既に死んでいる。
証明など不可能だ。
虐げられて当然だ。この十数年ずっと、『花嫁』の兄という立場を利用しあいつはメリアを傷付けてきた。そうされるべきだ。そうされるべきだった。
死んだって誰も悲しむことはない。唯一盲目な妹でさえ、生きているなどと世迷い言を呟き気を違えている。
あいつが死に、メリアが開放され、ようやく憂いがなくなったと思ったのに。ようやく、彼女に幸せな日々が訪れるのだと信じていたのに。
行かないでと、呼び止める彼女の姿が脳裏から剥がれない。
助けてと、行かないでと。必死にラインハルトに縋ろうとする姿が、どうしたって忘れられない。
伸ばされた細い手首。そこにあるべきではない鈍色の光。怒りのあまり殴りつけた膝の痛みなど、彼女の苦しみには到底足りず。
メイドからも騎士からも遠ざけられ、あの枷の正体も知らされず、無垢にも己からの贈り物だと疑いもしない。
無知とは時に罪であろうと、怒りにかられる男の矛先は憎し教会のみ。
それが普通の子でも知っている事実でも。それを知らぬものがいないとしても、全ては知らないメリアではなく、知らぬというのに装着した奴らが悪いのだと。
盲目なまでに愛する愚かな男を止める者だって、ここにはいない。
自力で外せるわけがない。あれは腕輪でもブレスレットでもなく……その名の通り、枷なのだから。
精霊の加護を封じるための魔術が組み込まれた特殊なものだ。装着も解除も教会の人間でなければ行えない。
大人しくしていればただの飾り。だが、抵抗すれば途端に術が発動し拘束具と化す。
守るため、だなんて方便でしかない。暴れられて困るのは教会であり、彼女がそこまでされなければならない理由はないはずだ。
メリアはなにも罪を犯していない。あんなものを着けていい理由など、一つだってないのに。
それを……あろうことか、ラインハルトからの贈り物と騙して着けさせたなど!
どこまで教会は自分を馬鹿にすれば気が済む。どこまで彼女を傷付ければ満足する!
彼女の意思とは関係なく『精霊の花嫁』を求めたのは奴らだというのに、その彼女を敬うどころか悪人扱いなど!
たった一人きりで、あんな場所で。どれだけ心寂しく、辛く、苦しいことか。
それでも、今のラインハルトでは彼女を助けられない。
彼女を守るために、彼女をあらゆる脅威から遠ざけるために努力してきたはずだ。
彼女がいつか『花嫁』として嫁ぎ、そうしてラインハルトのそばから離れるとわかっていても。
その定めからは逃げられないとわかっていても、彼女の加護に恥じぬ国を築いていくために。彼女が愛したこの国を、長く後世に語りつぐために、あらゆる努力を惜しまなかった。
全てはメリアのため。愛しながらも、結ばれることが叶わない愛しい存在のため。
それなのに、今のラインハルトはあまりにも無力だ。目の前で泣いている彼女を助けられず、その手を取ることだってできなかった。
もしそうしてしまえば、今度こそ二人の仲は引き裂かれてしまっただろう。そうして、二度と彼女の笑顔を見る事は叶わなくなる。
どれだけメリアが嫌がろうと、泣こうとも。容赦なく奴らはそうする。
教会にとって必要なのは『花嫁』であることだけ。それがメリアである必要など、微塵たりともないのだから。
……ならば、どうしてメリアだったのか。
誰でもよかったはずだ。わざわざ彼女を選ぶ理由なんて、どこにもなかったはず。
英雄の娘を望んだのならば、それこそサリアナでもよかったはずだ。
王女である彼女に王位継承権はない。政治的な用途以外に彼女の必要性がないのならば、それが精霊であろうと変わらない。
なのに、なぜメリアなのか。どうして、彼女でなければならなかったのか。
どうして引き裂かれなければならない。なぜ、残された僅かな時間すら奴らは奪おうとする!
項垂れる頭に爪を立てようと、理不尽であることへの怒りは消えない。順調だったはずだ。幸せだったはずだ。幸せになるはずだった。
あと二年しかないとしても、それでも彼女は幸せに人としての生を終わるはずだった。
あの男がいなくならなければ。あの男が逃げ出さなければ。
そもそも、最初から存在しなければこんなことにはならなかったのに。
居なくなってもなおラインハルトを煩わせ、メリアを傷付け、二人の間を引き裂こうとする。
ああ、憎い。憎くて、憎くてたまらない。それなのにこの怒りをぶつけることもできない!
奴はもうここにはいない。だからこそ、メリアは今も苦しめられているのだから!
「くそっ……!」
もう一度振り下ろした拳の行き先は、脳裏に浮かぶ憎い男の顔ではなく。やはり、己の膝でしかなかった。
閲覧ありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。





