10.父親
「……父さん」
強張った声は男の耳にも届いただろう。たとえ呼ぶ声が震えていなくとも、その表情だけで見通しているに違いない。
「なにをしていると聞いている。ディアン」
だからこそ再びヴァンは問い、彼の口から答えさせようとする。隠し通せると思うなと黄金は鋭く、冷たく、ディアンを見下ろし咎めるのだ。
「お父様! お兄様がまたひどいことを……!」
そして、大抵はディアンが口を開くよりも先にメリアが答える。開く隙も与えない、と言い換えた方が正しいか。
更に痛みを増す心臓に唇が乾き、息は辛うじて苦しくない程度。
「……本を読むように言っただけです。精霊王の成り立ちと、大精霊に関する――」
「ディアン」
怒鳴られたわけではない。だが、遮るのはその低い声だけで十分だ。
それだけで容易く身は強張り、喉が引き攣る。指先が冷えていく感覚は、無意識に逃げたいと思っている現れなのか。ただの、緊張か。
その迷いをヴァンは逃さず、そして許すことはない。
「今日の模擬試合、また殿下に負けたそうだな」
「そ、れは……」
揺れる視界の中、父の眉間に皺が刻まれるのを確かに捉える。誰かが、親切に、教えたのだろう。
息子の醜態だ。ヴァンを良く思っていない相手が、そんな都合のいい餌を逃すはずがない。
予想はしていたが、覚悟ができていないうちに突きつけられ、動揺を隠せないまま。辛うじて目を逸らさずにいられたが、それもいつまでもつことか。
「座学の評価も悪かったのだろう。それなのに、他人を気にかける余裕があると?」
鼻で笑われればまだマシだ。淡々と述べられ、咎められ、反論を許さぬ威圧に滲む汗は冷たい。
そう、分かっている。妹を心配する余裕はなく、そうできる立場でもないと。人並みにもなれない自分が、偉そうなことを口にする権利はないのだと。
言われずとも分かっている。分かっている、はずなのに。
「周囲にどう見られているのか自覚をもて。そんな調子では、姫付きどころか騎士にすらなれんぞ」
それでもと、振り絞ろうとした声が消える。
自覚ならしている。しているつもりだ。自分がどう見られているか、どれだけわらわれているか。そして、恥ずべき存在であるのか。
……そう言われるほどに劣っている事実は、誰よりもディアン自身が。
「……申し訳ありません」
だからこそ、謝るしかない。口先だけと思われても、何もできないディアンにはこうするしかできないのだ。
頭を下げた息子を父はどう見ているのか。ディアンには見ずとも分かる。
その黄金が和らぐどころか、より険しい光を携えていることを。直視したが最後、今度こそ逃げ出してしまうことも。
「夕食まで中庭にいろ」
短く伝えられた言葉を解釈すれば、そこで剣の鍛錬をしろということだ。今から考えても数時間、休むことなく。
拒否権はない。今すぐここから出て、言われたとおりにする。許されているのは、それだけ。
「……はい」
返事は一つ。そのまま横を通り過ぎる父が己に目を向けていないのをいいことに、早足で部屋を出て行く。
扉は控えていた騎士が閉じ、より一層閉め出されたと自覚させられる。
「お父様っ、お兄様がまた……!」
たかが扉、されど扉。中の様子は隔てられようと、その声までを遮るにはあまりにも心許ない。
駆け寄り縋る妹の姿こそ容易に浮かぶのに、それを許す父の姿はどれだけ考えようと不鮮明なまま。
「……あいつも悪気はない、許してやってくれ」
ああ、なんと柔らかな声だろう。慈しみ、愛し、大切に思っているのはその声色だけでも十分に伝わる。同じ声の主から発せられたものとは思えない。
きっと普段の様子を知る者でも、本当にギルド長か疑ったことだろう。
……いや、もしかすれば外でもこの姿が本当で、ディアンがいるかぎりそれを見ることはないのか。
だとしても、そうさせている原因は自分自身にある。責められるべきは自分で、妹でも、ましてや父親でもない。
「でも、お兄様が選んだ本なんて読みたくないわ! ラインハルトが教えてくれる本ならいくらでも読めるのに……」
殿下の名を呼び捨てにして許されるのは、王族を除けばそれこそメリアだけであろう。
本人の許可はともかく『精霊の花嫁』というだけで大抵のことは許されてしまう。
それがいかに不敬であろうと、どれだけ常識を疑われようと。『精霊の花嫁』はそういうものだから。
教えてくれる本、というのは結局は俗世向けの娯楽本だ。それも、あまり難しくないものが特に好まれる。政略など絡めば途端に面白くないの一言で捨てられてしまうだろう。
そうなると読める本なんて限られてくるが、尽きることはないのは……『精霊の花嫁』が好んでいると、そう大きく知られているおかげもあるのだろう。
彼女のいう、面白くない本が減ってしまったと嘆く声はどこで聞いて、そうして忘れてしまったのか。
もし勉強しなければならなくなったとしても、メリアはディアンではなくラインハルトを指名するだろう。そして、それは勉強ではなくお茶会で終わることも目に見えている。
今までもそうだったように、次は違うと言いきれる材料なんてない。
無駄な思考を振り払い、階段を駆け下りる。もうあの黄金はディアンを責めていないのだから逃げる必要なんてないはずなのに、足の制御は効かない。
扉を開き、通路を進み。勢いのまま辿り着いた中庭の更に奥へ。
手入れされた花壇には目もくれず、向かうのはその隅……目立たぬように置かれた、焼却炉へ。
固く閉ざされた扉を開ければ、煤と灰の臭いに一瞬息を止める。
これも最初の頃はむせていたのにと、慣れを実感して苦笑しながら鉄棒で中を漁る中から伝わる温度。
数刻前まで灼熱であった余韻は肌を焼くほどではなく、しかし温めるには少し強い。
冷たい汗に浸されていた身体には丁度いいかと考えているうちに、棒から伝わった違和感に動きを止めた。
奥から、手前に。掻き出すように手繰ったそれ……メリアが燃やしたはずの本は、熱こそこもっていたがほぼ原形を留めていた。
黒に染まった表紙を叩き、そっと息を吹きかける。端は少し焦げているが、読むのに支障はない。灰で汚れているのも誤差の範囲だ。
耐火の魔法はうまくかかっていたのだと、ようやく安堵の息を吐く。
ディアンが読むには物足りず、正直大事かと言われれば首を振る内容だ。しかし、こう何度も焼かれてしまえば我が家の書庫は空になってしまう。
また買えばいいとでも思っているのか。確かに裕福な方とはいえ、それでも金は無限ではないし、物を粗末にしていいわけでもない。
だが、そう咎めたところで怒られるのはディアンだ。分かっていて彼女に本を渡すディアンが、悪いのだ。
救い出した本を炉の上に置き、汚れた手を拭うことなく更に隅へ。放置してある木箱を開き、取り出した剣を鞘から引き抜く。
反射する光に目を細め、欠けた刃に息を吐く。手に馴染む柄の感触は、もう何年と握り続けているからこそ。巻き付けた布が何度血に染まり、その度に替えてきたか。
何度も潰れたマメは固くなり、今ではどれだけ素振りしようと傷むことはない。繰り返してきた成果が感じられるのは……正直、そんな小さなことだけだ。
改めて、自分のために用意された空間を見渡す。幾度も切りつけられて痛々しい人形。皮が剥がれきり、無残な姿になった木。それと、魔法用に誂えられた的が壁に一つ。距離にすれば十歩あるかないか。
明確な線は引かれていなくとも、母親が大切にしている中庭との境目はハッキリとしている。剥き出しの地面。殺風景な景色。そう、この狭い空間こそがディアンに与えられた訓練場だ。
幼い頃はこれでも広く感じたものだが、これも成長の証か。ほとんどが素振りと試し切りなので、これでも言いつけられた鍛錬はこなせる。
両手で握り、姿勢を整える。試しに一度振った剣は、昼間の試験の時よりも遙かに軽い。
当然だ。これはディアンが使い慣れている長剣で、そのうえ相手はいない。無を切るときまで重く感じたなら、それこそ本当に役立たずではないか。
原形を留めているのが不思議なほど切られた模型も、そのうち折れてしまうだろう木も、ディアンに襲いかかってくることはない。睨みつけることも、罵声を浴びせることも、叱ることだって。
どんな無様な剣筋でも受け止めてくれるのは彼らだけ。生きていないのだから当然のこと。
そして、これから先ディアンが立ち向かわなければならない相手に通用しないことも、当然。
魔物か、人間か。脅威に差はあれ根本は同じだ。自分の身を守るために立ち向かうか、誰かを守るために立ち向かうのか。
騎士になれば、機会が多くなるのは後者だろう。国のために、民のために。そして、姫様のために。傷つけ、傷つくことを恐れず、どんな強敵であろうと立ち向かわなければならない。
試合ではなく、ただの練習ならまともに戦える時もある。剣は重くないし、動きだって悪くない。
だが、勝敗が絡むと……途端に、ディアンの身体は重く、固く。まるで自らこそが木偶のようになってしまうのだ。
頭では理解している。多少の傷を負うことも、負わすことも訓練の一環だ。痛みを恐れていては強さは手に入らない。
何事も犠牲が必要で……ああ、頭で考えるだけならこんなにも簡単だ。実際にそうできないからこそ、落ちこぼれだというのに。
柄を握る手に力が入り、すぐに緩む。もう一度眺めた剣身に映るのは、夕日ではなく自分を見つめ返す黒い光。
――なぜ、姫付きになると言ったのか。
まるで問いかけてくるような眼差しに、そっと目を伏せる。何もかもが上手くいかない日、決まって浮かぶ疑問だ。
どうして騎士になろうと思ったのか。なぜ、彼女の傍にいると誓ったのか。
答えはいつだって同じ。いつの間にかそうなっていた。そうなって、しまっていた。
覚えていないのだ。あるいは、思い出せないほど遠い過去のことなのか。
それこそ、最初の洗礼を受けるよりもずっと前。どんな夢事でも語ることを許されていた頃に。
その時はそう思ったのかもしれない。本当に望んでいて、目指して……でも、今はどうだ。今の自分の有様は、とても騎士の器ではないじゃないか。
だが、ディアンの父は言う。英雄の息子に恥じぬ騎士になれと。
彼を慕う姫も言う。私の傍に、いてくれるのだろうと。
もう決まっているのだ。どれだけ劣っていようと、落ちこぼれでいようと、騎士を目指す以外にディアンに道はない。そうだと期待されている。まだ、希望を抱かれている。
おもむろに放った炎が、的の中心に当たって消える。人に向けずとも、学園で放とうものなら的に当たる前に消えていただろう。
注目による緊張。他者からの視線。騎士になるのに必要ではなくとも、全て評価に響いている。
魔法もダメ。肝心の剣術も試合になればあの様。もし何かに襲われたとしても、今の自分に対処できるとは思えない。
安全だと分かっている状況であの様だ。騎士なんて到底務まらないなんて、誰よりもディアン自身が分かっている。
そう、父が言うように妹を心配している場合じゃない。もう半年もすれば学園を卒業し、騎士になるための試験を受けなければならないのだ。
今のままでは到底受かるはずもない。分かっている。分かっている。……分かって、いる。
……だが、本当にこのままでいいのだろうか。
姫付きの騎士になれば、英雄の名に恥じぬ肩書きも手に入る。そして、その地位に伴う実力もその時には備わっているだろう。
父も姫も望む理想の姿。そうなることが、ディアンの目標。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
姫付きになって、父に胸を張れる存在になって。では、その後は? その後の自分は、一体何をすればいい?
なぜなりたかったかも思い出せず、言われるまま。本当に騎士になって、姫の傍につかえて……そうして?
強く、強く首を振る。
ああ、こんなことを考えているからこそ、試合でも負けてしまうのだ。
一歩踏み出し、剣を振る。切りたいのは風ではなく、この胸に根付く邪念。
もっと真剣に向き合わなければ。余計なことを考えず、もっと必死に。人以上の努力を積まなければ、望む姿に到底なれない。
なった後のことなど考えるべきではない。誰よりも劣り、弱い今の自分が考えていいことではないのだ。
縋るように腕を振り下ろす。手応えのない感触に眉を寄せ、必死に動作を繰り返し……そうして風が何度切り刻まれようと、ディアンの心が晴れることはなかった。
閲覧ありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。